7

 初瀬が異変に気が付いたのは午前四時ごろのことだった。


(……船が止まってる?)


 真っ暗な外を見てもそれは定かではない。ただ少し、自身を取り巻く環境への変化が気になった。いつもと違う場所、いつもと違う雰囲気。そんな場所に放り込まれていた初瀬は、普段以上に敏感になっていた。予定を見てみても、こんな時間に、洋上で止まる予定はないはずだ。とはいえ何が起きているのか分かったわけではない。


 そのまま一時間が経って、少し。


 初瀬はようやく、違和感の正体に気づいた。それが分かるが否や廊下に飛び出す。煌々と照明が照らす廊下はしんと静まり返っていた。皆眠っているのだろうか。


「三笠!」


 声を抑えつつ彼の部屋のドアを叩く。それを五、六回ほど繰り返した後にようやく三笠がドアを開けた。


「な、なに──」


 どうかしたのか、と言い切る前に初瀬は三笠の肩を掴んで部屋の中に押し入る。あまりにも早い初瀬の行動についていけない三笠は、唖然としながら彼女を見上げた。


「何事……!?」


 そう言う彼は着替えもせずに寝ていたのだろう。ワイシャツ姿のままオロオロと必死に状況を飲み込もうとしている。初瀬はそれを無視して質問をぶつけた。


「三笠、この船に結界の類は」


「は? 何を……」


 三笠の反応を見て初瀬は少し申し訳なさそうな顔をする。


「あ、ごめん。えーと……」


 改めて説明をしようと口を開いたその時だった。


 ……かつん。


 ドアの外から、妙な音がした。二人は一斉に振り返って音のした方を見る。電気が消えた部屋の中で静かに次を待った。お互いに、状況を把握しようと感覚を研ぎ澄ませていく。


 こん、こんこんこんこんこんこん。


 何かが床を叩く音か、ドアを叩く音か。ひっきりなしに一斉にどこからともなくその音は鳴り始める。二人の背筋を寒気が駆け上がった。


(何かが起きてる!?)


 初瀬のその疑問に答えるように、ドアが吹き飛んだ。


 廊下の電灯を背にして佇む、黒い人影。その頭部には異形であることを示す角が生えていた。逆光になっているせいで、その詳細は読み取れない。ただただ、明らかに異常なその光景に二人は息を飲んだ。


「オ……オォ…………!」


 声なき咆哮が頭に刺さる。自分たち目がけて振り下ろされた爪を、初瀬の一閃が迎え撃った。神速の居合切りは防がれることなくその腕を落とす。人体のそれよりも柔らかい手ごたえに、初瀬は勢い余って姿勢を崩しかける。


「三笠!」


「わ、分かってる! 出るよ!」


 こじ開けるようにして作った隙を突いて、二人は廊下に飛び出す。右も左も見てみれば異形、怪物に化け物。人の姿は一切ない。


「仕方ないな」


「ええ……何でこんなことに」


「文句言うな。何とかするしかないだろ」


 三笠は少し身を縮めながらも初瀬の提案に頷いた。それを合図に、彼も用意していた魔術式を開く。ここから先は初瀬もよく知っている。ぶわり、と火の粉にも似た熱が迸る。


「こんな室内で使うものじゃない、けど! 『春日雨』!」


 ぱっと散った魔力と共に無数の魔力弾が驟雨を成して異形の群れに降り注ぐ。狭い室内で放ったせいだろう。魔力の塊は一部跳弾となって、二人の方へも猛威を振るう。姿勢を低くしつつ、異形たちが怯んだタイミングを利用して、その中を掻い潜ってデッキへ駆け抜けた。相変わらず真っ暗な空に初瀬は息を吐く。


「あのなぁ、三笠」


「な、なに、今度は何」


「──星が動いてない」


「…………あ、それは」


 初瀬の言葉で三笠の思考は一気に回る。


「結界の類にしては大規模だと思う、から……何かしらの楔のようなものがあるはずだし、ただ維持するのだけにも相当なエネルギーが使われるはず!」


「オッケー、つまり大事そうなものを探し出して壊せばいいんだな」


「それはそうだけど! トラップかもしれないし慎重にするべきかな」


 ぐっと息を飲んで三笠は初瀬の勢いを諫めるようにそう言った。暗いデッキから見上げる豪華客船は、明るく輝いて見える。夜であってもこの船は灯りを消すことがないらしい。後で考えれば当然のことだと分かったのだが、この時ばかりは二人とも不気味に思ってしまった。


「初瀬! あそこ、誰かいる……!」


 三笠が声を上げて指さす先、そちらに目をやれば確かに灯りに浮き彫りにされた人影があった。シルエットからして女性だろうか。ドレスのようなものを身にまとった人物がいるのが分かる。


「何か知ってるかもしれない。行こう」



 階段を駆け上がる。


 途中途中で迫りくる怪物たちを退けながら初瀬たちはようやく最上デッキに辿り着いた。後ろを走る三笠は頑丈ではあれど、スタミナがあまりないらしい。そのせいでひどく苦し気に咳き込んでいる。


 それを他所に初瀬はデッキに立つその人を見やった。その表情から、何か知っているのは確実だ。


「……どういうつもりですか」


 そう問いかけられた女は、美しい深紅のドレスを身にまとっていた。こんな状況に見合わぬ艶やかさに初瀬は目を細める。


「なんで? なんであんたが無事なの?」


 女は初瀬の質問には答えず、別の質問を噛みつくように投げかけた。


「冬吾くんだけが残ってるはずだったのに! なんでいるの!」


「え、え……?」


 わけが分からず困惑する初瀬の横で、ようやく呼吸が整ったらしい三笠が目を丸くする。


「あ、なんで……」


「何? 例のあの人、で……」


 言いかけた言葉を切って初瀬は口を閉ざした。明らかな三笠の怯えに気が付いてしまったからだ。どんな状況であっても、怯えを表に出さなかった男が、たった一人の女性を前にして初めてそれを見せた。初瀬の頭の中で昨晩聞いた話が蘇る。


 少し考えてから、初瀬は前に出る。ちょうど二人の間に立ち塞がるようにして身構えた。


「何をしたの。どういうつもりですか」


 敵対するかのような初瀬の態度が面白くないのだろう。綾川は赤い瞳をすっと細め、声を低くした。


「そんなの、あなたに言ってどうするの」


「どうするも何も。こちらは仕事をするだけです」


 二人の間に火花が散る。


 次の瞬間、初瀬の視界はぐるりと一回転した。気が付けば強い力で床に押さえつけられていた。


「は!?」


 見えない何かが自分を押しつぶそうとしていることは理解できた。それ以外は全く分からない。彼女が一体何の魔術を使ったのか、理解できない。


「……ぐ、くっそ」


 この身が潰されないようにすることで手一杯で、初瀬は反撃すらできない。そんな彼女を他所に女は三笠へと近づく。


「ねえ、手伝ってよ」


「何を……僕にできることなんてないよ」


「何? もしかして手伝ってくれないの?」


「僕が仮登録を受けてるってことは知ってるの」


 言い返す声はどこか頼りない。三笠冬吾が彼女に対して怯えているのは確かだ。女はそれを知っているのかいないのか、変わらぬ調子で──上機嫌に話を続ける。


「知ってるわ。知ってる。だって冬吾くんのことだから。私をちゃんと真っ直ぐに見てくれた人のこと、どうして知らないと思ったの?」


 どういうこと、と言いかけて三笠は口を閉じる。これを言って彼女の機嫌を損ねたら大変なことになる。そう直感で理解した。


「ふふ、驚いた?」


 満足げに笑ってみせる彼女とは対照的に、三笠はその顔を顰める。どうするべきか考えるより早く彼女は三笠の言葉を急かした。


「……そこまで熱心に調べてるとは思わなかった」


「そりゃ、好きな人のことは知って当然でしょ。全部知りたいって思うじゃないの」


「でも、何をしようとしてるか分からないのに手伝うことはできない」


「あぁ、それは確かに。秘密だったもの、知らなくても許してあげる」


 彼の頬に手を添えながら、綾川は微笑む。その表情はひどく可憐で、邪悪さの欠片もない。凄まじいギャップに脳が勘違いをしてしまいそうだった。それを知ってか、知らないのか綾川は微笑みを崩さずに話を続ける。


「この船は今、百鬼夜行の舞台となったの」


「百鬼夜行……?」


「知ってるでしょ? 百鬼が集まり、列を成す。数多の魔術師に、犯罪者。スペクターに魔道具! これらすべてを収容したこの船こそが、百鬼夜行の舞台に相応しいの」


 そこで綾川は三笠からすっと離れる。そのまま暗いデッキの中央へ向かい、優雅な足取りで彼女はくるりと回って見せた。


「ちょっと待って。なら、目的は──」


「目的は、空亡の召喚よ」


 初瀬の耳に知らぬ妖怪の名が飛び込んでくる。相手をしている三笠は分かるのだろう、小さく相槌を打つ声が聞こえた。


「……それは、架空の妖怪だよね」


 彼の指摘に綾川は声を上ずらせながら返事をする。


「そう。架空の妖怪。だけど、この世に下せるほどに設定が豊富でもある。ちゃんとした器さえあれば、絵巻から引きずり出せる」


「──そうか、だから隔離された船を丸ごと器としたってこと、か」


「そうね、そうね」


「でも、その理屈で行くと、僕ら全員死ぬんじゃないの」


「死なないようにする手段はあるのよ。生贄の数は十分ですもの。それで、答えは?」


「──っ、」


「三笠!」


 急かすような女の声に、被せるようにして檄を飛ばす。それが面白くなかったのだろう。全身にかかる圧力はぐっとその強さを増した。こうなってくるといよいよ、声を出すことすら難しくなる。肺が潰されぬよう、必死に呼吸を空間を確保する。その横で話は続いていた。


「ねぇ、冬吾くん。私、これが最後のチャンスなの」


「な、何の話」


「うちの家、もう魔術の才能が無いやつを世話できないんだって。だから、儀式が成功したら、生きて帰ってもいいって。生きて帰りたいの。あなたの力があればきっと、成功できるから……お願い、助けて」


 先程の上機嫌そうな声から一転、彼女は縋るような、か弱い声でそう言う。それに対し、三笠は分かりやすく動揺した。


(んな態度だから付け込まれるんだろ)


 初瀬は内心で毒づく。


「……っ、いや、でも。人を犠牲にするような、そんな儀式に協力はできない。それに、空亡を召喚してどうするつもりなのかも、結局よく分からないし」


 言葉を切って、彼はこう話を継いだ。



「だから、ここで何もせずに、何もなかったことにするっていうなら、こっちも何もしない」



 ──沈黙が降り立つ。


「へえ、そうなんだ」


 女はそう言った。床に伏せている初瀬から彼女の表情を見ることはできない。しかし声色で、その結果が分かってしまった。


「これが失敗したら……死ぬしかないのに! 冬吾くんまで私を否定するんだ!」


 か弱い声はどこへやら。腹から出た芯の通った声が木霊する。叫びにも似たソレは、誰かさんの心を強く揺さぶった。


「ちが……僕は別に、否定したいわけじゃなくて……!」


 慌てて三笠が言い返すも、彼女は聞く耳を持たない。


「冬吾くんだって分かってるでしょ! 魔術師の家が才能を持たない人に厳しいってことくらい、分かるでしょ! 少しの失敗がその後の生き方を決めることくらい知ってるでしょ!」


「──そ、れは」


「また私に死ねって言うの。もう嫌なの! 失望したって言われ続けるのは!」


 びくり、と肩が震えた。


「……っ!」


 三笠は伸ばした手を一瞬留めてしまう。それが仇となった。彼女は三笠の手から逃れ、階下へと逃げていく。それと同時に圧力から解放された初瀬は、勢いよく立ち上がった。


「三笠、あんたなぁ!」


 思わず掴みかかりそうになりながら、初瀬は一喝した。


「……ご、ごめん」


 彼は顔を青くして謝罪する。その声は弱く、聞くに堪えなかった。


「それで?」


 意地の悪い訊き返し方を初瀬はする。こちらの気を損ねたのだと、三笠も自覚している様子だった。無表情の初瀬の前でただ何か言い返すわけでもなく、彼は唇を噛んでいる。


「あのさ、仕事なんだよ。分かるか。三笠がどうとかはいい。大事なことでもある。けど、わたしらが失敗することで生まれるリスクをあんたちゃんと理解してる?」


「してる、けど」


 歯切れの悪い返事に、彼女は思わずため息をついた。


「お前、自分に自信ないからって他人に甘くすんなよ。それで許されると思ってんのか」


「……初瀬には分からないでしょ。魔術師じゃないんだから」


 さすがに初瀬の言い方が気になったのだろう。自分たちにとっては死活問題だ、と三笠は初瀬をねめつける。


「さぁな、知らん。ハナから信用されるなんてありえないし。かといって同情したってだけで、見逃すのはお前の仕事じゃないだろ」


「別にそういうのじゃない」


「じゃあなんだよ。言ってみろ。なんで見逃すような真似をしたんだよ。うやむやにする意味あったか!? ないだろ」


 初瀬の追及に彼はただ黙して答える。


「ほらな。言えないんなら言い返すな。馬鹿がよ。同情じゃないならなんだよ。恋心かっての」


 腕を組みながら初瀬はそう言い捨てた。さすがの三笠もこの発言にはかちんと来たらしい。珍しく表情を険しくして言葉を研ぐ。


「そういうのじゃない。……初瀬さぁ、頭の回転の速さに任せて相手のことも考えないで喋ってるでしょ」


「あぁ、そうだな。お前とは違って言いたいときに言いたいこと言ってんだよ」


「あぁそう」


 三笠はついにやらかした、と思った。しかし言葉はすでに飛び出た後だ。後悔時すでに遅し。初瀬は少しも表情を変えずにただこれだけを言った。



「な、お互い様だ」


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