第2話いちじくの甘い罠
トミヒロは,少女に炎の中に送りこまれてから5時間後、見慣れない町を歩いていた。
町は、横幅50メートルはある舗装された1本道が中央に通っており,それが、この町の北側の丘にそびえ立つ城に繋がっていた。町の建物は、白色の2階建てのレンガ造りが多く、たまに木造の建築物も目に付いた。
町の大通りには露店が並び、見慣れない野菜や果物を売っていた。
町の大通りを外れて、裏路地に一歩足を踏み入れると、急にT字路や行き止まりばかりで見通しが悪くなり、道の至る所に、果物の皮や割れた食器など、ゴミが散らばっていた。
町を行き交う人たちも、大通りを行き来する人は、綿や麻など、質素ではあるが清潔感のある服を着ている者が多いのに対して、裏路地を歩く人たちは、埃や土で汚れたローブを頭からすっぽりと被っていたり、破れたシャツや、靴底の取れた靴を履いていたりする、明らかに貧困層である人たちが多かった。
トミヒロは、少女によって炎の中に投げ込まれてから、真っ暗闇の中を勢いよく落下していった。しばらく落下し、勢いよく地面に尻餅をついた瞬間、目の前の風景が開けた。
トミヒロは、この町の裏路地に座り込んでいた。
トミヒロは、裏路地を抜け出して、表通りに出た。
さっきまで透けて消えていた足は、両方ともちゃんとあった。服装は、上下共にトミヒロが紺色のジャージだった。靴も、生前に履いていた白のスニーカーだった。
トミヒロは、町を行き交う人々が自分に向けてくる視線が気になっていた。
露店の一角の店が、質素な茶色のTシャツとズボンが売っているのを目にした。それを買おうと財布を探したが、ポケットの中を探しても見当たらなかった。露店の値札らしきものを見ても、そもそも文字が読めなかった。
トミヒロは、衣服を買うのを諦めて、食べ物を探すことにした。
トミヒロの身体は、もう何日も食事をとっていないようで、彼がこれまで経験したことのなほどの強い空腹感を覚えていた。
トミヒロは、露店の一角で、果物が売られているのを目にした。
日本にいた頃は見たこともない果物だったが、みずみずしい見た目で、見るからに美味そうだった。
トミヒロは、露店の店主に声を掛けた。
「すみません。」
露店の店主は、トミヒロをジロリと見つめた。
トミヒロは、店主の視線に胸がドキリとしたが、店主に向けて、ありのままを話すことにした。
「私は、よく分からないままこの町に来ました。文字も読めず、お金もありません。
どうか、惨めな私に、そのおいしそうな果物を2つ,いえ、3つほど、恵んでいただけませんか?」
露店の店主は、しばらくトミヒロをじろじろ眺めていた。そして、ふっと表情を緩めて、さっきまでとまるで別人であるかのように、親切な態度になった。
「旅の方、さぞお困りでしょう。どうか、3つと言わず、10個でも20個でも持って行ってください。この果物は、いちじくという、この地方ではたくさん出回っている果物なんですよ」
店主はそう言うと、いちじくの一際大きなものを一つ取り上げて、二つに裂いた。緑色の皮からむき出しになった紅色の果肉に、トミヒロは思わずよだれを垂らした。
トミヒロは、店主の差し出すものを手に取ると、それを思い切り頬張った。
果肉のみずみずしさとさっぱりとした甘さが口の中に広がった。トミヒロは、こんなうまい果物なら、いくらでも食べられる、と思った。
店主に促されるまま、トミヒロは2つ、3つといちじくを平らげた。空腹の極致のトミヒロには、いちじく3つでは,まったく食べ足りなかった。
トミヒロが4つめのいちじくを受け取ろうとしたとき、店主の手が止まり、トミヒロを制した。
店主は、トミヒロに言った。
「旅の方、これ以上いちじくを食べたければ、私の経営するいちじく農家で、ちょっとばかし、働いてもらえないか。うちの農園は、稼ぎがよい割りに、働き手が足りなくて、年中困っているんだ。農家での寝泊まりは自由だし,1日3食、無料で提供する。
どうだね?」
トミヒロは、そんな契約の話より、4つめのいちじくが食べたくて仕方なかった。トミヒロは,4つめのいちじくが食べられるなら、その農園でいくらでも働いてやる、と思った。
「分かりました。いちじくを食べさせてくれるのなら、いくらでも働きます。」
店主はトミヒロの話を聞くと、この上なく優しい笑顔になった。
「そうか、助かるよ。では、この契約書に一筆、君の国の言葉で構わないから、名前を書いてくれ。」
店主はそう言って、異国語で書かれた羊皮紙をトミヒロの前に差し出した。
トミヒロは、羊皮紙に書かれた内容はまったく理解できなかった。しかし、4つめのいちじくが食べたかったので、その羊皮紙に、漢字で名前を書いた。
トミヒロが名前を書くと,羊皮紙の文字が光を放って、羊皮紙の上を離れて、空中に浮いた。そして、その文字は、空中でふいに消えた。
店主は、笑顔のまま、4つめのいちじくをトミヒロに差し出した。
トミヒロは、むさぼるように、その日、いちじくを20個平らげた。
トミヒロは、次の日から、露店の店主の経営するいちじく農園で働くことになった。
トミヒロがここに来てから、重大な事実が判明した。
露店の店主は、この国では有名な奴隷農場の経営者で、文字の読めない異国人や、親のいない子供、生活困窮者を雇っては、体力の限界まで働かせ、彼ら彼女らが身体を壊して働けなくなれば、ろくな給料も渡さないまま、農園を追い出す者だったのだ。
トミヒロは、店主にいちじくを恵んでもらった次の日から、奴隷として、農園で働くことになった。トミヒロは、早朝から深夜まで、休日も与えられずに、いちじくの種付けから収穫までの作業を毎日させられた。
トミヒロがいちじく農園で働き始めてから、6か月が経った。
トミヒロは、朝5時に起床し、一日の仕事が終わるのは、午後11時過ぎだった。
毎日、直射日光の照りつける農場で作業をしているせいで、身体は日焼けで真っ黒になっていた。いちじくが50個以上入ったかごを、出荷のための馬車に積み込む作業は、トミヒロに取って大変な重労働だった。手は、かごのヒモを握りすぎて皮がむけ、所々出血していた。歯を食いしばったせいで、下唇から何カ所も出血し、大きなかさぶたができていた。身体は、大量の汗をかくせいで、あせもだらけだった。風呂は、週に一度しかは入れないため、身体からは汗と泥のにおいがしていた。靴は、前任者の残していったものを使っているせいで、サイズが合っていなかった。足のところどころにまめができていた。
露店の店主が叫んだ。
「貴様ら、さっさといちじくを運べ!
次の馬車が来ちまうぞ!」
トミヒロの周囲には、トミヒロより小さな子供や、お年寄りもいた。露店の店主は、彼らに対しても,容赦なく、重いいちじくを担がせた。
トミヒロは、こんなはずじゃなかった,と何度も心の中で呟いた。
今思い返せば、あのとき、一時の空腹を紛らわすため、ただでいちじくを恵んでもらおうとしたことが間違いだった。仮に、いちじくを少し口にしたとしても、その場で店主の申し出を断り、早急にあの場を立ち去るべきだった。
すべては、簡単に人を信じ、売り物の果物を、ただでむさぼり食べた自分の失敗だ。
しかし、トミヒロがいくら後悔したところで、トミヒロは逃げ出すことができなかった。
露店の店主がトミヒロにいちじくを振る舞ったあの日、トミヒロに書かせた契約書は、この世界では魔力の込められた特別なものだった。あの文書に本人の名前を書かせると、契約者である両者は互いに魔力によって拘束されることになる。
露店の店主がトミヒロと結んだ契約は、露店の店主があの場にあったいちじくをいくらでも食べさせる代わりに、トミヒロは店主の言うことを何でも一つ叶えなければならないと言うものだった。
露店の店主は、自分が許可するまで、トミヒロは自分の農家で働き続けるという契約を締結した。
トミヒロが、この農家の外にこっそりと抜け出そうとすると、たちまち農家の店主に感知されてしまう。
店主には、金で雇われた歴戦の傭兵が雇われており、奴隷が勝手に農園から抜け出そうものなら、傭兵が捕らえて農園に戻すか、その場で殺してしまうのだ。
トミヒロたちが与えられるのは、スープのようなオートミールが1日に3回のみ。
土木作業員並みの重労働をさせられるここでの生活では、圧倒的にカロリーが足りなかった。ここの奴隷たちには、農園を抜け出して、数キロ先の町に逃げ込む体力も残されていなかった。
トミヒロは、いちじくのかごを担いでよろよろと馬車に向かっている最中に、石に躓いて、転んだ。かごに入ったいちじくが、あちこちに散らばった。
露店の店主が、顔を真っ赤にして近づいてきた。手には、馬をしつけるのに使うムチが握られていた。
「貴様、よくも、大事な商品に傷をつけてくれたな。私がいちじくをたらふく食わせてやったのに,その報いがこれか!
貴様のようなゲス野郎には、ムチをくれてやる!」
店主は、そう言ってムチを振り上げた。
あのムチで打たれると、一発で皮が破れ、血が出るのだ。店主は、それを何度も奴隷たちに喰らわせる。
トミヒロが思わず両手で頭を押さえた時、鋭い声が響いた
「そこの者、待て!」
トミヒロと露店の店主が見上げると、上下に甲冑を着込んだ男たちがいた。
鎧の端に、竜と盾の紋章が入っている。
王国軍の兵士たちだ。
露店の店主が言った。
「なんだ、お前たち!
ここは,私有地だぞ!誰の許可があって立ち入った!」
兵士たちの最前列の中央に経っていた、顔を兜で隠した兵士が進み出て言った。
「先ほど、王国の法律の改正案に、王が承認の印を押した。
いちじく農家経営者ヤコブ、お前は王国人身取引法違反の疑いがある。直ちに,ここの奴隷たちを解放しろ」
先頭の兵士がそう言うと、露店の店主ヤコブは、後ろに立っていた傭兵の一人を手前に呼び出した。
傭兵は、2メートルを超える長身で,身に纏った鎧の外から見ても、身体が筋肉質であることが分かった。顔には、頭からターバンを被っており、素顔は見えなかった。傭兵の右手には、彼の武器である薙刀が握られていた。
彼が店主ヤコブの前に立ち、ターバンの下からその兵士をにらみ返した。
「お引き取り願おう。何を頼りにここへ来たかは知らないが、ここには奴隷など一人もいない。城に帰って、ヤコブ農園には奴隷は一人もいなかった、と報告したまえ」
傭兵に睨まれた兵士は、トミヒロより小柄だった。トミヒロは、その兵士の身長は、約150センチメートルだと推測した。
小柄な兵士は、傭兵に睨み付けられても、直立不動で動こうとしない。
彼の後ろの、もっと大柄な兵士は、傭兵の発する殺気に怯え、三歩引き下がった。
トミヒロは、小柄な兵士の体格は,鎧の外からはよく見極めることができなかった。しかし,彼の身体が筋肉質でないことは、明らかだった。
小柄な兵士と傭兵の間に、つかの間の沈黙が流れた。
その沈黙を先に破ったのは、傭兵だった。
傭兵はいきなり、右手に掴んだ薙刀を振り上げ,小柄な兵士に斬りかかった。トミヒロは、見た目に似合わない傭兵の俊敏な動きを、目で捕らえきれなかった。
傭兵が薙刀を振り下ろすと、大量の砂埃が辺りに舞った。
傭兵が薙刀を振り下ろした先に、小柄な兵士は立っていなかった。
傭兵は、確実に仕留められる自信が挫かれたようで、一瞬,動揺した動作をしたものの、すぐに薙刀を構えて、周囲を見回した。
傭兵に向けて、兵士が話しかけた。
「今の一撃には驚いたぞ。
貴様、今、薙刀に魔力を込めただろう?
魔族がどうして、こんな人里にいる?」
砂埃の中から現れた兵士は、腰に差した剣を、ゆっくりと抜いた。
抜刀した剣の刀身が、太陽光を反射し、輝いた。
傭兵は、頭のターバンを脱ぎ捨てた。
顔の造形は人間であるが、肌が緑色で、口から上顎の犬歯が2本とも飛び出していた。頭部には、2本の角が飛び出している。
「俺の名は、ゴリアト。『薙刀使いのゴリアト』だ!」
抜刀した兵士が,ゴリアトに話しかけた。
「ゴリアトか。お前、先の大戦で、我々の仲間を30人以上切り捨てた,ゴリアトか?」
「いかにも!
俺こそは、魔王軍の先方、一番槍のゴリアトよ!」
ゴリアトはそう言うと、空中で薙刀を勢いよく回転させ、一歩踏み出すと同時に、兵士に薙刀を振り下ろした。薙刀を振り上げてから振り下ろすまで,0,5秒にも満たない時間だった。
しかし、兵士は身体を横にいなして、ゴリアトの薙刀による一撃を躱した。
「おらあ!」
ゴリアトは、雄叫びと共に、次々と兵士に薙刀を振り下ろした。
その速度と精度は、戦いの素人であるトミヒロにとっても、人間業を超越したものだと分かった。通常の人間がゴリアトと対峙すれば、例え男三人がかりでも、押さえ込むことはできないだろう。
しかし、トミヒロをもっと驚かせたのは、ゴリアトの薙刀を、身体をねじったり移動したりすることだけで躱していく、その兵士の身のこなしだった。
ゴリアトがどんなに素早い攻撃を繰り出しても、彼は、紙一重の距離でそれを躱してしまう。トミヒロは、彼の回避術はもちろんのこと、彼の肝の据わり具合にも驚いた。
ゴリアトは、激しい動きの連続のせいで、肩で息をするようになった。身体の動きも,徐々にゆっくりとなっていった。
兵士は、ゴリアトの動きがゆっくりになった瞬間に、薙刀の刀身を右足で上から押さえつけた。そして、薙刀の柄を、剣を一閃して切断した。
ゴリアトは、慌てて腰に差した剣を抜こうとした。ゴリアトが剣を抜くまえに、兵士は、剣先をゴリアトの首筋に当てた。
兵士はゴリアトに言った。
「勝負ありだ。今、魔王軍と戦うことは望んでいない。金で雇われただけなら、早急に立ち去れ」
ゴリアトは、兵士の動きに怯え、両手を挙げた。
「降参だ、降参。
こちとら、金で雇われただけの日雇い仕事なんだ。こんなところで死んでたまるか。」
そう言って、両手を挙げながら後ずさりした。そして、兵士の剣先が届かない距離になると、地面から薙刀の柄を拾って、走って逃げ出した。
トミヒロは、ゴリアトと兵士のやりとりに圧倒されて、立ちすくんでいた。
兵士は、剣を鞘に納めると、トミヒロの方を向いた。
「君たち、怪我はないか?大変だっただろう。すぐ、我々が王国に連れ帰ってやるからな」
トミヒロは、顔の見えないその兵士の優しい言葉に、泣き出しそうになった。それを、唇を噛んで、必死にこらえた。
その時、ゴリアトの叫び声が聞こえた。
「『サウザンド・スピア』!」
トミヒロがゴリアトのいた方向を向くと、ゴリアトが抜刀した剣が鉄製の槍に変形していた。その槍は、ゴリアトの呪文によって、無数に増殖し、トミヒロたちに向けて発射された。
トミヒロたちに、鉄の槍が無数に降り注いだ。
剣士は、再び抜刀すると、降り注ぐ槍をすさまじい速度でたたき落としていった。30本以上に分裂した槍が、剣士の立った一本の剣によって、着弾する前に地面にたたき落とされていった。
トミヒロは、思わずその場に尻もちを付いた。その瞬間、トミヒロの顔面に向けて、一本の槍が降り注いだ。
「うわっ!」
トミヒロは、思わず顔を両手で覆った。
トミヒロの脳裏に、これまでの人生の光景の走馬灯が一瞬で駆け巡った。
しかし、その槍は、トミヒロの顔面には降り注いで来なかった。
トミヒロが、おそるおそる腕の隙間から目を開けると、なんと、剣士は、空中の槍を剣でたたき落としながら、自分が顔面につけた兜を槍にぶつけて、トミヒロに落下する槍の落下地点をずらしていた。トミヒロのすぐ脇に、鉄の槍が勢いよく突き刺さった。
槍と衝突した衝撃で兜がはじけ飛び、剣士の素顔が明らかとなった。
トミヒロを助けた剣士は,まだ若い女性だった。
目は青く、肌は透き通るように白かった。髪は燃えるような赤毛で,後頭部で髪を一本に束ねていた。
「リベカ様!」
動揺した兵士たちの声が、トミヒロの後ろの方から聞こえた。
リベカは、左手で兵士たちを牽制すると、右手に剣を握ったまま、10メートル先に立っていたゴリアトのところに猛烈な勢いで駆け寄った。
刃先をゴリアトの首元に押し当てると、ドスの効いた声で、ゴリアトにささやいた。
「次やったら、こちらも本気を出すぞ」
ゴリアトは、冷や汗をかきながら、怯えきってその場を立ち去った。
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