第22話 木偶の棒

 連行された署から二人で出てくると、着物の上にショールを巻いた小柄な女がまろぶように駆けて来た。


「旭」

「姉さん」

「大丈夫ですよ。旭君は無罪放免。もともと何の根拠も証拠もない捕縛だったわけですから」

 

 笠井は堂々胸を張る。

 弟の釈放を受けて膝の力が抜けたのか、泉は長身の弟に縋るようにして立っている。


「ありがとうございました、先生。おかげ様で冤罪えんざいでの逮捕を免れました。なんてお礼を申し上げたらいいのか……」


 と、泣き崩れている。

 しかし、旭は姉に対して詫びるでもなし、笠井に対してあらためて礼を述べるでもなし、まるで木偶の棒のようにして立っている。


「旭。笠井先生にちゃんとお礼を申し上げたの?」


 我関せずといった佇まいを見咎めて、姉が弟を叱責する。


「ありがとうございました」


 からくり人形のように礼を述べられ、笠井はふいに思い出す。

 そうだった。この少年は出会った直後から毛虫でも見るような目を向けてきた。


「先生の御身体が冷えてしまうわ。早く宿に戻りましょう」


 先生、これと、差し出されたのは男物のショールだった。

 泥がすっかりこごってしまったフロックコートにショールを巻きつけ、歯が鳴るような冷気に堪える。けれども姉は弟には何の暖も与えない。

 解体した鹿の血を浴びたままの洋装で、弟は悠然として歩き出す。


「僕はこのまま帰ります」


 帰るというのは自宅に帰るという意味だ。

 殺人容疑で連行された身とは思えないほど落ち着き払った声だった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る