第16話
――飛空艇 飛騨空域駐空
ブーツの踵が甲高く通路の床から壁に跳ね返りやや遠くから誰かがその部屋に近づいてくるのが分かった。
甲高く、それでいて重く足音を鳴らすそれは空中に浮いている飛空艇から地上へと細い糸が垂れ、途中でその重みで千切れたように儚く思える。
「頭(かしら)、入ります」
その足音の主が立ち止まったドアの前で断りを入れると中から「あー……」と気だるそうな声で返ってきた。
ドアノブをガチャリと鳴らし部屋に入った人影をほんの一瞬ちらりと見た竜巳諒は、四角いテーブルに足を乗せ、口からするめの足を揺らして分厚い本を読んでいた。
「よぉ、コン。調子はどげんじゃ」
「興味もないようなことをわざわざ聞かないでください」
「かっかか、全くじゃあ」
コンと呼ばれた男の言葉が愉快だったのか、本から目を離さず笑った竜巳は「で、なんが用がじゃ」と続けて聞いた。
「珠城桐乃からまた頭宛てにコトダマが届きまして」
「あ~無視じゃ無視じゃ。あんな御遊戯太鼓でみっともない様見せるような奴は今後のノブナガにゃあいらんきに。あんまりしつこいようじゃったら……そうじゃのう、飛空艇の部品工場にでも入れてやれや」
「なるほど……ではそうしましょう」
コンを正面から見上げるとその男は、あのキツネ男であった。
「で? どうじゃった炎灯齊は、元気しちょったか」
「……ええ。それはもう活発で」
「なんじゃなんじゃ、お前まだ気にしちょるんか? 炎灯齊に敗けたことを」
「……」
「気にすんな気にすんな、そげんこともあるぜよ! いくらなんでも次死合(や)ったらあんな失態はおかさんじゃろ。……まぁ、なんじゃ。仮にまた奴に敗けたら……後はないけぇのう」
「承知しています」
「珠城桐乃のことは分かったがのぉ……それよりも気になることがあるぜよ」
竜巳がテーブルの脇に置かれた四つ折りの新聞をコンに向かって投げ、コンはそれを軽くキャッチし記事に目を落とした。
「学苑で死亡事故……。名前は伏せられていますが、死んだのは緋陀里弾とその仲間……計3人だったかと」
「大事じゃあ。士道学苑で人死になんちゅうもんは死合以外で聞いたことないけぇの。……お前はどげん思うがじゃ、コン」
「……帝國警察では死合による死亡だとしたいようです。双方任意で行われた死合で不幸にも3人が死んだ、と」
竜巳ががっはっはっと笑いコンを見やる。『なにが言いたいかわかるか?』と目で挑発し、コンの顔色を数秒伺ったのち口を開く。
「死合ねぇ……。じゃったら一人余るじゃろう、死んだのは3人。死合は原則1対1以外の立ち合いを許可しとらんきに。っちゅうことは3人でトーナメントでもしたちゅうんがか? そげんなまどろっこしく奇怪な話ないじゃろおが。
俺はな、もう一人誰かが居たと踏んじょる」
「その考えに行きつくのは自然な流れかと思いますが」
「がっははは、じゃろう? こげなもんは誰でも予想できるっちゅうんじゃ。それをわざわざ帝國府が隠してるっちゅうことはなんらかの裏があるとは思わんか、コン」
愉快そうにテーブルをバンバンと叩き、竜巳はコンに大きく言いコンも概ねそれに同意した相槌を打つ。
「さぁて、問題は連中がなにを隠したいのか……なぁんか臭うぜよ。遠くの方で藁を燃やすような……そんな燻った香りがのぉ」
コンが持った新聞には『士道学苑で抜刀事故。生徒三人が死亡』と見出しが躍っていた。竜巳が豪快にあくびをし、手首をぷらぷらと振ってコンに「もういい」と意思表示をする。それを見たコンは一礼すると踵を返し部屋を後にした。
「それと、この優勝した金髪のハーフ……俺がおらなんだ間にえろう面白いことなったもんじゃあ」
コンが去った後の部屋で独り言をつぶやくと竜巳は読んでいた本を顔に被せて仮眠を取った。
「無銘屋の連中とドンパチなったときに戦える駒は必要じゃけぇの……」
「着いた!」
バスから降りた千代は叫んだ。
「京都タワー!」
ババン! とそびえる円柱型の白いタワー。
「八つ橋!」
ニッキ香る生菓子の代表。
「舞妓はん!」
どすえ。
「ここは京都! きょ・う・と・だ・ぞーーーーー!!」
いつもの約8倍はテンションの高い千代は初めて降り立った地・京都に対して全身で感動を放出した。それはもう放出し、なんなら京都を象徴するはんなりオーラが肉眼で確認できるほどに。
「京都とぉ~いえばぁ~あ……じゃん!」
清水寺!(千代の手にはガイドブックの紹介写真)
「さらにじゃん!」
伏見稲荷大社!(真っ赤な鳥居のトンネル)
「じゃじゃん!」
鴨川の川床!
「じゃんじゃんじゃーん!!」
金閣寺・八坂神社・高山寺!
「じゃじゃじゃーーーん!!」
みたらし団子に抹茶パフェハモの天ぷらぁあああ!
「はぁ……はぁ……はぁ……」
はぁ……はぁ……はぁ……はっ! し、しまったつい私としたことが千代のテンションに釣られてしまったではないか! これはなんと恥ずかしいところをお見せした……ここまでの私のことは忘れてどうかはんなりとして行って欲しい。
「誰にそれ紹介してんだお前……」
あくびで涙目にしたエンジが続いてバスから降りると、先に降りたハーレイがエンジに手荷物を手渡した。
「おおサンキュ。そんなにテンションあがるか? ただの古い街ってだけじゃねーか」
「だまらっしゃい!」
ゴギン。
「ほぱああああっっ!!」
千代は護煙丸の握りの先に装飾された石の部分をエンジのこめかみにめり込ませ、エンジの頭は月面の如くへこむ。
「なにが古いだけの街か三代目炎灯齊!」
「(千代ってエンジに対してすごく怒った時だけ三代目炎灯齊って呼ぶよね……)」
ハーレイは苦笑いと悟られぬように出来るだけ爽やかに笑い、そんな心の声を点す。
頭がいい感じに陥没したエンジは初めて訪れる土地でごろごろと転がって喜びを表現する。
「ちょ、小太郎さん! 大丈夫ですか!」
片腕にギブスをして首から下げている子分Aが、真っ青な顔でバスから降りたつ小太郎を労い、後ろからはBとCが順番に現れそれぞれが小太郎の背中を擦ったり荷物を持ったりしている。
「小太郎さぁ~ん乗り物、弱いんですかぁ??」
「小太郎さんっ、もしかして……バスとかダメだったりするんすか??」
BとCは小太郎を気遣っているように見えるが、顔は満足げに笑っている。明らかに車酔いで血の気が引いている小太郎を面白がっている感じだ。
「うぷっ……な、なに笑ってやが……ぷ、うぷっ……ホテル着いたら……ぷぷ」
まともに喋られない小太郎は普段の威圧的で横柄な態度からは想像できないほどに弱っていた。
「Oh、Mr.コタロー! 京都名産はもんじゃ焼きではアーリマセェーン! 古都でいきなり帝都名物のもんじゃやきを自家精製しちゃダメですYO!」
そういってエンジが至近距離で小太郎に寄り全力で挑発し、小太郎は青白い顔を赤くできずただただ口を押さえてエンジを睨むしかなかった。
「ほむ……らァ~……」
一見このような光景はありがちな光景であり、そのどれもが遊びの範疇であったり、ただの悪ふざけで終わるが、この時の小太郎は全力の殺意をエンジに向けた。
「っきゃーあ燕塾八代目(乗り物に弱い)が人殺しの目をしてるぅ~~~! チョーこわーい!」
エンジは炎灯齊で小太郎の腹を突いて喜んだ。子分Aは「てめぇやめろ馬鹿!」などと怒声を放ちエンジを払おうとしたが、BとCは笑っているのがばれないように口元を抑えその場を楽しんでいる様子でもあった。
「上等じゃねェか! 俺は帝國士道の士だア……具合や体調なんざ言い訳にしな……ブッシャァァアア……ッッ!」
「うわぁああ小太郎さんがスプラッシュしたぞーー!」
「うわあっ! 小太郎のゲロが俺の服にぃー……うぷ」
プッシャァァア!
これが世に言う貰いゲロという奴である。
「あの二人……結構似てるのかな」
ハーレイが肩から掛けたカバンの紐を握りその一連の流れを見ながら苦笑いした。
「そう! それが古都京都の魔力でございます! それはそれはもう京都恐ろしやでございますよーひょー!」
隣の千代の様子を見て(あ、こっちもか……)とため息を吐くハーレイは青い空に突き刺すような京都タワーの先端を見上げた。
説明しよう。というかもうしなくても分かると思うが、3年生になったエンジ達に、遂に学苑生活で最大にして最後の大イベント、修学旅行がやってきたのだ!
ほとんどの行事が3年生の一年間に組み込まれているため、本来通常の教育学校では2年で行くはずの修学旅行がこの3年で実施される。ただ一般的な学校と違うのは士道学苑の場合、毎年修学旅行先に設定されるのが必ず京都であるということ。
というのもそれは、この後に彼らが向かうある寺が目的で在る為だ。
「ええ~それでは今から刃紋総家・千年寺に向かう! 各自それまでの小休憩の間に遠くへ行かないように。各班長は自班のメンバーの動向をきちんと把握しておくこと!
それでは30分後の出発まで一旦解散!」
角田教師のアナウンスで生徒達はわーわーきゃーきゃーと言いながら土産売り場などに散らばってゆく。だがそんな最中、ただ一人小太郎だけは真剣な表情で角田に詰め寄った。
「角田先生ェ……」
「な、なんだ佐々木。いくら知らない土地だからといって面倒事を起こすんじゃないぞ」
「そんなことよりよォ……」
小太郎の発する人をも殺さんばかりの眼光に思わず角田教師は息を呑み、自らの紋刀の握りがいつでも握れる位置に右手をかけた。
「次の出発って……またバスなのかァ!?」
「そ……そうだが」
小太郎は「ちっ!」と強く不快を表すような舌打ちをすると、物陰に隠れて泣いた。
「修学旅行……無くなるかと思って私めは半ば諦めておりました。ゆえ今回京都の地を自らの足で踏めたことが何よりも千代は幸せなのです。うるうるおろろーん」
京都駅の土産売り場などをうろつきながら千代は念願の修学旅行について涙を滲ませ話した。なるほど、諦めていたこの旅行に行けたことがそんなに嬉しかったと見える。
「そんなに楽しみにしてたの?」
ハーレイがそんな千代を優しい笑顔で眺めて尋ねると千代は急に目を釣り上げ、実に悪人の顔に豹変させるとハーレイにどろどろとした黒いオーラを纏わりつかせた。
「そうなのでございますよ……ハーレイ様ぁ……。なんたってあの憎き淫乱猥女である赤目まことが居ない貴重な貴重な旅行なのでございます……。日頃はことあるごとに目に着く下品な女でございますが、この3泊の旅行では奴めの邪魔も入らず心行くまでえんとーさいさまとあれやこれや出来るではありませんか!
し・か・も! 父様も居ないこのシチュエーション……ハーレイ様、千代めは決めますよ……決めますよ!」
これにはさすがのハーレイも百年の恋も冷めたのではないだろうか。
千代は今まで見たこともない下品な顔をしているからだ。なんなら「げへらげへら」と信じられない笑い声をしている。
だがそんな期待を跳ね返すようにハーレイはそんな千代ですら優しい笑みを崩さず笑っていた。なんと見上げた好青年であろうか……。
「あんな酷い事件があったからね。本当ならこの修学旅行が無くなったって不思議じゃなかった。けど中止にせず踏み切った学苑側……この場合、決定権に大きな存在感を出したのはやっぱり校長かな? 英断と言わざるを得ないね。やっぱり士道を教える学苑だなって思ったよ」
ハーレイが表情を変えずそう話すと千代は不思議そうな顔でいつもの表情に戻し、ハーレイの横顔を見詰めた。
「ハーレイ様……なにかおありでしたか?」
普通の人間ならば、勘の鋭い千代のこの一言に、僅かほどの反応があっても良いものだと思うが、ハーレイは反応を見せるどころかいつもよりもより穏やかな顔で「ん? なにもないよ」と答えた。
「……あ、やっぱりあったかも。この旅行に無事千代やエンジ達と来られたこと……かな」
「そうですか」
千代はハーレイの言葉を聞き自分の持った違和感をただの考えすぎだと思うことにした。ハーレイ自身も自らが放ったその言葉は混じりけのない本心、そのものだ。
だがそれは敢えていうのならば罪悪感が彼の中に全くないからであり、ハーレイにとってかの事件の被害者である緋陀里らの命が絶たれたのは、なにげない日常のたった一幕でしかなかったのである。
そんな彼の中の最も暗く深い場所の変化の微かな残り香を千代は本能的に感じ取ったのかもしれない。だが千代にとっては単純に、『あんなにも優しく温和なハーレイが、人が……それも自分と同級の生徒が死んだというのに、こんなにも普段と変わらず……いやむしろ普段よりも穏やかでいることが信じられない』という違和感の現れだった。
この京都への修学旅行。乱れ太鼓より2か月が経った秋口の旅行であった。事件があった直後からしばらくの間、学苑内は異様な空気が漂っていた。
生徒が3人も死んだ。発表では3人が全員で死合を行ったというが……。
ご存知の通り学苑内で抜刀すればすかさず抜刀警戒アラームが校内に響き渡り全校生徒の周知になるはず。なのにあの事件があったと言われる日、そのようなアラームが鳴ったことはない。全ての生徒達がその発表に対しなにか陰謀めいたものを感じていたのだ。
――そして、その影響で中止になるかと思われた修学旅行の断行。
真実を唯一知るハーレイの口がそのことについて開くことはなかった。
「それにしてもよー……ハーレイ、お前は本当に立派になったよなー」
急に肩を組まれ荷物の重さとエンジの重さでよろめいたハーレイは思わず隣にいた千代の手を掴んでしまった。
「ひゃ、大丈夫でございますかハーレイ様!」
「ご、ごめんよ千代……つい……」
その瞬間目が合った千代とハーレイ。ハーレイの千代を見る瞳は、恋心を越えた何か神聖なものをみる信仰めいたものを感じさせた。
そんなハーレイの瞳の奥に千代はなにか恐ろしいものを一瞬垣間見た気がして、ほんの一瞬……時間になど変換できないくらい刹那の時。千代は冷たいものが背に伝う感覚を覚えた。
「ハーレ……イ、様……」
ドクン、と強く千代の心臓が内側を叩いたが、それが決して良い方ではない血の知らせだと千代は直感的に気付いた。ただ漠然と《知っている人が変わってしまった》という根拠のない感覚。
「ハーレイ! お前ってやっぱ筆頭になってからすっげー頼りがいのある男になったっつーか、大人になったっつーか」
「エンジに大人になったとか言われちゃうと……なんか複雑だな」
「ぬゎにぃ~! お前をここまでの男にしてやったのは誰だと思ってんだ!」
千代はさきほどの訳の分からぬ感情が杞憂であったと言い聞かせ、いつもと変わらない日常に笑い転げたがハーレイはこの時気付いていた。
千代に自分の闇を見られたことに――。
「はい! やってまいりました京都の名所! 清水の大舞台でござーい!」
一体どこから持ってきたのか分からないが、大々的に『京都どすえ』と書かれた三角の旗をたゆやかせながら、杜永やしろは清水寺の舞台へと生徒を引率する。
「うっひょー! 杜永先生が旅行に同行するなんて超ラッキーっすねぇ~! 小太郎さん!」
ギプスをぶんぶんと振りながら子分Aが興奮気味に小太郎に話し、小太郎の脇を歩く子分BとCも鼻の穴を広げてたゆんたゆんと揺れるやしろの胸に釘づけになった。
「(すっげー乳だな)や、やしろせんせぇ~き、清水寺ってなんでこんな高いところに舞台を作ったんですかぁ~」
やしろを正面に向かしてその巨乳を眺めたい子分Bは興味もない質問を投げかける。
千代と同じく京都に来たことにテンションが上がっているのか、やしろはいつもよりも高いテンションで「いい質問よ!」と答えた。
「清水寺は宝亀11年に坂上田村麻呂の助勢によって間の菩薩の霊所として草創されたとされていて、残念ながら幾度かの火災で創建当時の建物はほとんど消失しているものの寛永10年に徳川家康によって再建されたのよ!
観音信仰の霊場として参詣者が絶えず訪れるこの舞台は空におわす神様に向けての奉納として劇を披露し、信仰のために作られたとされるのがもっとも有効な説ね! わかった!? すっごい神々しくて聖なる場所なの!」
興奮して話すやしろの胸の上でホイッスルが跳ね、それはまんまと子分たちの求める過激な光景であった。
「うっひょー! 僕の観音さまも空に届きそうでおまー!」
「?」
そんな子分たちの青春真っ盛りな盛りのついた行動すら無視し、小太郎は死神のようにげっそりとこけた頬で栄養ドリンクの瓶に細いストローを突っ込みチューチューと無表情で吸っている。普段の小太郎を知る生徒たちはやや距離を離し、そんな小太郎をみてクスクスと笑いを堪えていた。
「小太郎さぁ~ん情けないっすよぉ~みんなに笑われてるっすよ~!」
涙目で訴える子分Aの言葉に小太郎は「なんだとォ」と反応。それを見て嬉しくなった子分Aは遅い小太郎の復活に歓喜し、「そうこなくちゃー!」と背中を叩いた。
「……おげげぇ~」
背中を叩いたことがスイッチになったかのように小太郎の口からは今飲んだばかりの栄養ドリンクやらなんやらが滝のように流れ落ちた。
「わぁあああっ! 小太郎さぁああ~~~ん」
そんな小太郎のことは露知らず、すっかり回復して元気になったエンジ達は清水寺の舞台に立ち、手すりに身体を乗り出すと
「っひょぉ~~~お! 高っけぇえ~~!」
と大いにはしゃいだ。
「え、えんとーさいさま! 危のうございます! 降りてくださいませ!」
「いーんだよいーんだよ! こんくらいスリリングじゃなきゃあありがたみもねぇってなもんだろ!? なぁハーレイ」
ハーレイも必要以上に手すりから身を乗り出すエンジにヒヤヒヤとしながら「さぁ……僕は観音様を信仰してないからね……」と恐々と語った。
「おおっ! 歌舞伎だ~!」
その時、突然観光客が一斉に騒ぎ始めた。誰もが「歌舞伎だ歌舞伎だ」と騒ぎ、ワーワーと歓声を上げる。
「なんだ?」
手すりに立ち、一人よりも高い位置に立ったエンジは観光客たちが騒ぐ方角を見詰めた。
「ちょっと! えんとーさいさま降りてくださいってば! 落ちますって!」
千代が慌てて足を掴もうとするのをひょいと一足飛びで避けると視界の奥で赤く揺らめくなにかが見えた。
「火……? いや違うな、なんだありゃ」
その火と見間違うほどの赤い揺らめきは時折激しく躍動したり、円を描くような動きを見せ、そのたびに周りの観光客たちからは多大なる歓声が起こる。
「えんとーさいさま! いい加減にしてくださいませ!」
千代が手すりの上から夢中でそれを見ているエンジを降ろそうと飛びついたその時!
「千代!」
エンジを捕まえようと飛び込んだ勢いがつきすぎて千代の体は手すりを越えてしまったのだ!
「馬鹿かお前!」
咄嗟にエンジが手を伸ばすが寸でのところで手が届かず、千代はそのまま清水の舞台から投げ出されてしまった。
「千代―!」
ハーレイがその惨事を千代の名を叫ぶことによって周知にしたよりも早く、エンジは僅かな躊躇もなく千代を追って舞台から飛び降りた。
「……ッ!」
千代に向かって手すりを思い切り蹴ったおかげでエンジは千代を空中でキャッチすることが出来たが、成す術なく二人は13メートルの高さから落下してゆく。
「えんとーさいさま……っ!」
「捕まってろ!」
千代を抱きしめ、まっさかまに落ちてゆくエンジの目には、猛烈なスピードで迫ってくる地面が《死》をちらつかせていた。
「ダメですえんとーさいさま! 私などは放って……」
「うっさい!」
一瞬の出来事に他の生徒や観光客、やしろや角田教師ですら状況が把握出来ていなかった。唯一、落ちてゆく二人が小さくなってゆくのを見守るしかないハーレイだけが【それ】を見ていた。
二人が落下した直後、なにか赤い火のようなものがハーレイの横顔を通り抜けていったのだ。そしてその真っ赤な炎のようなそれは二人が地面に激突する直前、なにか不思議な動きでもってその衝撃を相殺した。
呆気にとられるハーレイを余所に、人が二人も清水の舞台から落ちたのになんの騒ぎにもならず収めた不思議な赤い炎は、エンジ達をゆっくりと地上におろした。
「え~……それとよく諺や例えなどで用いられる『清水の舞台から飛び降りる』という言葉がありますが、実際に飛び降りたとされる人が234人もいたとされます。しかし、13メートルの高さがあるのにも関わらず生存確率は高く、20代に至ってはなんと90%を超えていたというのですね~。
なりふりかまわず死んだつもりになってという願かけの意味を込めて飛び降りるそうですが、その決死の覚悟をこの清水の舞台から飛び降りる……と形容したのですね。
それほどまでにこの舞台は特別なものだったのです!
ですが、みなさんは間違ってもこの舞台から飛び降りるなどと馬鹿な真似はしないでください。武士は戦場のみて散るべき、こんなところでわざわざ死んでしまうようなことは絶対しないこと! ……まぁ、飛び降りちゃうような子はいないと思うけど」
と熱弁振るうやしろの背後で空を拝む舞台。その舞台からたった今飛び降りた彼女曰く【馬鹿な人】であるエンジは、真っ赤な炎のように赤く長い髪を蓄えたキラキラでとげとげの派手な着物に身を纏った人物と対峙していた。
「怪我あらへんか」
「あ、ああ……悪ぃ……助けてもらったんだな」
「ふぅ……」
赤い髪を上げて顔を見せるとエンジは「ぎょっ!」と分かりやすいリアクションで驚いた。その顔は真っ白く、赤い筋が目の周りや口の周りに入っておりまるで悪魔のようだったからだ。
「な、なんだてめぇ! 妖怪か? 妖怪の類か!?」
「妖怪ぃ? お前あほか、っつかもしかして日本の伝統芸能である歌舞伎を知らんのか?」
妖怪は流暢な関西弁で華麗に突っ込むとエンジの胸の前に手を差し出した。
「お……友情の握手? やーよろしく、そしてありが……ってぇ!」
差し出された手を握ろうとしたのをバチンと小気味のいい音を鳴らして払われたエンジは思わず「ってぇ!」と悲鳴を上げた。
「ちゃうやろ! 人を救うのはまぁイケメン的行動なわけやから大目に見て今回は無料(タダ)っちゅうことにしといたるわ。
けどな、御捻りはもらっとかんとあかんやろ、これでも俺は超一流やど」
「御捻り……?」
「せや、ようやく意味分かったか。んならとっとと出さんかい」
エンジは歌舞伎男の差し出された手を両手で掴み、なにか釈然としない表情のままで雑巾を絞るように腕を捻った。
「いぎゃぎゃぎゃぎゃ! な、なんじゃいお前あほか! なにしとんねん!!」
「だって捻れって」
「御捻りや! 外国で言うところのチップみたいなもんやろ?! 金を出せっちゅうとんねん! 芸人にここまで言わすなボケ! チビ!」
歌舞伎男は捻られた腕をさすりながら涙目で訴えた。
「金?! ああ、金か! おい、千代起きろ!」
すっかり気絶している千代のスカートをバフバフと煽りながらエンジは千代の名を呼ぶ。
「ん、……んん……」
少しすると千代は目を覚まし、自分のスカートをバフバフしているエンジを確認した。
「まぁああっ!」
「あ、千代起きたか! 金だ金、金だせ!」
「はぁ~あ?! なにを言っておられるんですか三代目炎灯齊ァ! そんなことより乙女に向かってなにをされておられるんですか!」
千代は怒りで禍々しいオーラを纏うとエンジから少し離れたところから助走し、飛び蹴りを見舞った。
「千代リゾンスマッシュ!」
「バハムート!」
そういったわけで今度はエンジが失神するのだった。
「千代!」
そしてハーレイの到着。歌舞伎男はハァ、とため息を吐くと「もうよろしいわ。今回はサービスっちゅうことにしとったる」と言い炎のような髪を剥ぎ取った。
「ほんで、ようこそ京都へ。士道学苑生徒諸君」
剥ぎ取った炎の髪はカツラだったようで、その下から現れたのは左右で長さの違う黒髪。
「とにかくうちの寺へいきまひょか」
千代とハーレイは顔を見合わせると、謎の歌舞伎男へ着いていった。
カァーカァー。
おっとこれは私の声ではない。乱心したかとご心配かけたと思うが、「カァー」という擬音が使われる時はほぼ確実にこの動物が描かれるであろう。
例によって私もその動物を紹介しておかねばなるまい。
カラスである。カラスがカァーカァーと鳴いているのだ。
さて問題はカァーカァーと鳴くカラスの存在よりもカラスが飛び交うこの寂しい佇まいの古寺であろう。
エンジ達を救った歌舞伎役者はなぜか学苑のバスに一生に搭乗したかと思うとそのまま学苑生徒達と同行してここまでやってきてしまったのだ。
「なぁなぁ、自分も紋刀持ってるん? えーそうなんやー! めっちゃすごいやん、っつかこれな俺のコトダマの識別やねんけど……またまたぁ~」
「ほわちゃ!」
「テポド!」
寺に着くまでの道中で女子生徒達に声を聞きナンパまがい(というかナンパ)をする歌舞伎役者の首筋に手刀を喰らわせて大人しくさせるやしろは、実に頼もしいものだった。
そんなことよりもこの寺、先ほどの清水寺より時間にして2時間ほど走らせたほぼ滋賀より山道に佇む山寺で、よほど人の往来が無いのかもうほとんど廃墟にしか見えない。
「さ~~あやってまいりました! 帝國士道学苑の皆々様がた、よくぞおいでなすったな~! ここは京都一の秘境寺・賽雲寺(さいうんじ)でっせ!」
「しーん……」
「なんやなんや自分ら若いのにノリ悪いの~」
レスポンスの悪さに眉をしかめると歌舞伎役者は不機嫌そうに頭を掻いた。
生徒達はそれぞれ自分の立たされている場所をキョロキョロと周り見渡している。ある一生徒の目線を追ってみると、コケの生えた幾つも並んだ地蔵。水の張っていない水場と粉々に割れてカビの生えた木の勺、ボロボロの本堂に電気など無縁の散らかった境内。
さらには外界から隔離されたかのような山の路……。
「な、なにか金田一的な事件が起こりそうな予感のするご立派な寺ですね……えんとーさいさま」
「ひ、人死に程度なら……この俺が犯人をこの炎灯齊でぶっ潰して……」
「なぁ~~んの話をしてるのかにゅーーん!!」
引きつった笑いを浮かべて話をする千代とエンジの間に不気味な得体の知れないのっぺらぼうのような生き物が割って入ってきた。
「わああああああ!」
「まああああああ!」
千代と近くにいたハーレイが一緒に叫び、その得体の知れない影から離れた。
「ばーはっはっはっ! そんなにゅ驚かないでええやんか!」
彼らを驚かした謎の生物は鼻の穴と口で挟んだ棒と顎から照らした懐中電灯を取ると人懐っこく笑った。
「ひ、人……?」
「妖怪じゃないのでございますか……」
恐々とその人物を見るとその人物は袈裟に数珠を首に下げたまん丸い体の形が特徴的な坊主であった。
「あ、そこにおったんかいはこのハゲ坊主! はようこっち来やんかい!」
さきほどツルーンと勢いよく滑った歌舞伎役者の男がいたずら坊主を見つけ呼び寄せる。
「……それにしてもただひとりこのわしに驚かやんとは、このサル顔の少年……なかなかやるのう」
にやりと笑って去った後、千代とハーレイはその言葉が気になり微動だにせず立っているエンジの顔を覗き込んだ。
「えんとーさいさま……?」
「……立ったまま気絶している……」
ちなみにおしっこも漏らしていたけど彼の名誉のために伏せておこう。
「さてさてみなさん、よくぞおいでくだすった! ここは賽雲寺……」
「おっさん、それさっきわしが滑った奴や」
「お、さようか。滑るって、ただの紹介やが」
妙な掛け合いを見せつけられ一向に話が進まない様に業を煮やしたやしろがたまらず声槍を引っ掻ける。
「あ、あの……住職に撫髪さん、早く生徒達に説明をしてもらってもいいでしょうか」
二人はやしろの声にはっと振り向くと同時に「せやね~」とハモッた。
状況がよくわかっていない生徒達は次第にがやがやと生徒同士で言葉を交わすようになり、場がざわつき始めていた。
「なぁなぁ、あの二人さ……京都っていうより大阪のノリっぽくね」
「う~~ん、落ち着きのある京都人ってイメージじゃないよな」
「はいそこ聞こえてるよ! 君と君はあとで目に煮干し入れたるからな!」
コホン、と住職が咳払いをすると軽く息を吸い込み生徒達に対し次のように自己紹介をした。
「賽雲寺住職の初楼(ういろう)と申しますでな。今日一日みなさんとご一緒出来るのを光栄に思っておりますぞ」
「続いて俺は撫髪 竹(なでがみたけ)でおま。なんかところどころからちらほら聞こえてるけど、お察しの通り俺は生まれや京都やが育ちは大阪やねん。
京都と違うて品のある言葉使いやけどあまり構えんとどんどん話しかけてや!」
「どこが品があるのんや、それを言わはるんやったら京都のわしじゃろ」
何故かノリが一緒の二人を横目にやしろから近い場所に並んでいた生徒の一人が尋ねた。
「あの杜永先生、《今日一日》って……?」
「ん? ああ、今日はここでみんな泊まるのよ」
なにも気に留めない様子でやしろが普通に答え、その直後生徒全員から「えええええええ!!」という悲鳴が合唱コンクールのように綺麗なハーモニーでもって響いた。
「おーおー元気じゃな! あ、そうじゃ……梅、梅ー」
なにかを思い出したように《梅》という人物を呼ぶ初楼住職の声に「あ、はい~お待ちくださいまし~」とのんびりとしているが可愛らしい女性の声が返事をした。
「あ! どうも~みなさん大変だったでしたでしょう? どうぞゆっくりと楽しんでおくれやす」
……ご、ごくり。
散々悲鳴を上げていた生徒達は急に静かになり、急に静かになったことを不思議に思った女子生徒達は男子がなにに反応したのかと目線を追うとその先には住職の横に大きな袋を背負って立っている巫女姿の少女。
「おっと、紹介しておかんとな。竹の妹でこの寺でわしの手伝いをしてくれておる撫髪 梅(なでがみ うめ)じゃ。なにか用事があるときはこの子に言うておくれ」
「どうもよろしゅう」
ニッコリと笑った左目元にはすこし大き目のホクロがあり、長く艶やかな黒髪を後ろで束ねたその女性は《ザ・クイーン・オブ・はんなり》と言えるほどに京都美人であった。
そのおっとりとした雰囲気ですら可憐に映り、大東京からやってきた野蛮な男連中を骨抜きにしたのだ。
「せ、先生! 俺ここに住む!」
「俺も温かな家庭をはぐくむよ!」
男子生徒達はこぞってこの寺に永住することを願ったが大体却下された。
「ああ……それとうちの梅はぴちぴちの19歳じゃが、薙刀の達人でもある。万が一にもおらんとは思うがの、もしも梅になにかしようだなんて思う輩がいはったら……」
ギラリと初楼住職の目が光る。
「五体満足では帰られまへんえ……」
生徒達は青ざめて再び黙り、その様子をみて梅もニッコリと笑った。
「おお、そうだ梅。頼む」
梅は「はいな」と返事をするとそそくさと小走りで生徒の橋からなにかを渡し始めた。
「すんません、これ後ろに回しておくれやす」
梅が持っていた大きな袋からなにやら大きな将棋の木札のようなものを配る。
貰った生徒達はこぞって頭上に疑問符を浮かべ首を傾げていた。
「みなさん、配られましたでしょうか?」
梅の問いかけにそれぞれのジェスチャーで応えた。
「初楼住職、全員配り終えました」
「うむ、おおきに。ではみなさん手に持った札に貼ってあるシールをはがしてくだされ」
掌ほどの大きさの配られた木札。よく見るとなにか片方の表面に貼られている。
どうやら木札と同じ色のシールのようだ。
初楼住職の言う通りにそれぞれが木札のシールを剥がすとシールの下からは文字通り将棋の駒のそれが彫られていた。
「歩?」
「桂馬だって」
生徒達がそれぞれの駒の名を確かめる中、恐怖から解放されジャージのズボンに履きかえたエンジもシールを剥がす。
「ん……金か」
「僕は……角だよ」
エンジが金を引き、ハーレイは角を引いた。
二人の間で千代はシールを剥がした木札を見詰めて不思議な顔をしている。
「千代はなんの駒なんだい?」
ハーレイがそんな千代に尋ねると千代は「はあ……それがでございますが……」とそこまで言いかけた時だった。
「さあさあみんな自分の木札は引いたね! じゃあその中で『王将』を引いた生徒、手を挙げてー!」
初楼住職がテンション高めに聞くとぽつりぽつりと数人の生徒が挙手した。
「……お?」
そしておずおずと千代も申し訳なさそうな面持ちで挙手し、ハーレイとエンジは驚く。
「なんだお前王将当てたのか」
「はい……。なんか嫌な予感しかしませんが……」
数えてみると王将を当てたのは千代を含めて4人。挙手した顔をにやにやと眺めると「そうかそうか」と住職は愉快そうに笑った。
どんっ、と重い地響きが鳴り誰もがその方向を見るとそういえばさっきから姿の見えなかった撫髪竹が木で作られた掲示板のようなプレートを立てたところであった。
「さーみなさん御立合い! これが値段表や! どんどん見てってや!」
竹が立てたプレートにはなにかの早見表のような図が書かれてあり、それはどうやら皆に配られた将棋の駒に関係するらしかった。
「歩が……10苑? 角将と飛車が50苑で金が30苑……その他が20で、えっと王将は……100苑って書いているね」
ハーレイは目もいいらしい。
「ええかお前らぁ~、その札を大事に持っとれよ~! 今から俺がルールを説明するからなぁ。お前ら士道学苑の修学旅行は3泊4日。つまり今日合わせてまだ3日間あるっちゅうことや!
そんで今日の宿泊はここやけどな、明日からの宿泊と食事はその駒を持ってる数でグレードが決まる! 駒に振り分けられた通貨(苑)でお前らの旅が甘かったか酸っぱかったか苦かったかが全部決まるさかいに頑張ってくれや」
次第にどよめいてゆく場で妹の梅が続く。
「あのぉ~……そしてですねぇ、旅の最中で竹兄さんかうちが立ち合い開始をどこかで宣言しますぅ。そこから5分間で駒を奪い合ってください。ルールは抜刀しないこと、以上です~。
……あ、出来るだけみんな揃っているときに開始するつもりですが、離れている生徒さんもいらはるかも知れやんので開始は毎回コトダマにて宣言しますのんでどうぞよろしゅうお願いしますぇ」
はんなり梅がにっこりと説明し、うっとりと男子は聞き入っていた。だが言っている内容の乱暴さに女子たちが気づきキャーキャーと騒ぐ。
「それと、王将を持っている奴! 王将は100苑の価値があるがそれ以上に特別な意味がある! 王将は風林火山それぞれ4つのクラスごとに一つずつ振り分けてある。最終日まで王将を守れたクラスは通常通りバスで帰ってよし! 王将を2枚所有するクラスはなんと新幹線でお帰りや~! 王将3つなら飛行機VIP席、もしも4つ手にしたなら……」
「し、したなら……?」
ごくりと生唾を呑む生徒達をじっとりとした瞳で見渡すと竹は大きく息を吸い込むと言った。
「高級ホテルにてもう一泊追加!」
「う……」
『うぉおおおおおおおおおおおお』
「帰りはもちろん飛行機や! ヤーハー!」
『うぉおおおおおおおおおおおお』
「あ、あの……これ……いいんですか」
やしろが引きつった笑いで角田教師に尋ねた。
「ふふふ……杜永先生……これが毎年恒例なのですよ。普段抑圧されている生徒達にここで思い切り鬱憤を炸裂させる……これもまた想い出となりましょう」
なんでお前が偉そうなのだ。
「あ、すいません。王将を持つことの特別さはよくわかったのですが……王将を失ったクラスはどうなるのですか?」
「い~~い質問だね金髪ベイベ!」
ハーレイは『金髪ベイベ』というなんとも捉えにくいニックネームに口角を引きつらせて笑い竹の回答を待った。
「1個でバス、2個で新幹線、3個で飛行機……0個ではぁ~……」
妙な溜めを作っている竹を見ながらエンジは「まさか自転車で帰れとかいうんじゃねーだろうな……」と生唾を呑んだ。
「徒歩でお帰りよろしくお願いしますッ!」
……。
おや、やけに静かではないか。普通ならばここで断末魔のような絶叫が鳴りひび……
「なにぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいい」
帝都(東京)から京都まで460キロ以上ある。参考までにどうぞお知りおき願いたい。
「歩き?! 歩きってなんだよ! そんなもん無理じゃん!」
「なんやなんやうっさいな、イヤやったら王将守れこのクソうんこども」
パニックになる場内、誰もが手に持った駒をポケットなどにしまい込むと隣同志で睨み合った。
「個人戦である【苑】制度と、組織戦である【王将】制度が共存したこのうえないシステムですなぁ」
「そ、そんな……悠長な」
能天気に笑う角田教師に対し不満と不安を露わにするやしろ、そこに梅が小走りでやってきた。
「どうぞ先生方。今年は先生方も参加だという校長先生からの伝達がありはって」
にっこりと笑って木札を渡す梅はそう言うとさっさと行ってしまった。
「……え?」
角田教師……【歩】
「私達……も?」
杜永やしろ……【香車】
「角田先生……ちょっと私、手加減しませんから。寺で泊まったり歩いて帰るとか絶対に無理なんで」
やしろはその瞬間、敵意に染まった眼差しを角田教師に送りつけた。その宣言して角田教師から距離を離した。
「も、杜永先生! そうですか……私達は戦う運命なのですね……ふふ、いいでしょう。ここは一つこの私の男らしい強さで先生を優しく倒して差し上げます。
けれど安心してください、杜永先生の駒は奪いません……レディーファーストという奴でして……」
「角田先生」
女生徒の呼ぶ声に我に返った角田教師は目の前からすでにやしろが消えていることに気付き「杜永先生! 杜永先生はどこだ!?」と辺りを見渡した。
「あのー……知らないかもしれないんで教えてあげますけど、杜永先生って士道八段で去年も士道大会教師部門で金賞獲ってますよ」
「……へ」
「角田先生……ってそんな杜永先生よりもお強いんですね、見直しました!」
そういいたいことだけを言い捨てて女生徒は去った。そこには自慢げに話したまま鼻水を出して角田教師が固まっていた。
そしてこんな状況に一番お祭り騒ぎではしゃぎそうな奴の姿が見えない。一体どうしたのであろうか。
「小太郎さぁ~……ん」
「起きてくださいよ小太郎さ~ん!」
「小太郎さんがいなきゃうちのクラス、完全に終わりっすよ~」
最後に乗ったバスで小太郎はすっかり力尽き、げっそりとした顔と青白い肌で横たわる姿はとても安らかだった。 あ、死んでないが。
「じゃ~あ、そういうことで頼んまっさ! あ、皆さん、ご心配なく!!
今日は初日なんで今日一日は駒の奪い合いはしやんので、残された短い時間やけどもゆっくりと休んで、明日からの英気を養うてや! じゃぁ……解散!」
そう言って竹が梅と初楼住職と共に去ってゆく。
「あ、そうや」
去って行ったと思ったが竹がなにかを思い出したように立ち止まった。
「明日のこの時間には駒を失くした奴もおるとおもうけど……そいつは野宿ね。あくまで手持ちの駒が宿泊券やと思ってや。じゃーグッドラック&グンナイ!」
彼らが去った後には「ひゃーっはっはっはっ」という愉快な笑い声がいつまでも残滓を放っていた。
静まり返る一同。余りにも突然の状況に皆なにを話していいのか分からないようであった。
「……デスゲームだ……」
メガネの真面目っぽい生徒が叫んだ。
「これは国家公認のデスゲームだ! 僕は大人を許さない!」
なんのこっちゃ。と思ったが思いのほか他の生徒達も同調してなんの意味も持たない抗議の声を上げた。
「……やっぱり梶くんは冷静だね」
生徒達がブーブーと叫んでいる中、風組の梶は一人静かに場を離れ今日の宿である寺へと向かって行き、その背中を見たハーレイが冷静にその感想を述べた。
「うー……えんとーさいさまぁ~……」
瞳をうるうると潤ませた千代がエンジに懇願した表情で見上げて言った。
「さっき俺に飛び蹴りした罰だっちゃ! そうに決まってるっちゃ! うひょほほほ!」
「うわ、大人げなっ」
思わずハーレイが突っ込み、瞳を潤ませていた千代はカバンから2本の棒を取り出しエンジの腹を乱打し始めた。
「爆裂炎灯齊殲滅の型!」
「うぼぼぼぼぼぼぼ!!」
千代の怒りが籠った必殺技がエンジの内臓を粉砕し、エンジはその場に倒れてぴくりとも動かなくなった! 主人公、京都に死す!
「えんとーさいさまに一瞬でも頼ったこの千代が愚かでございました……。かくなる上はこの千代、士道に仕える士の端くれとしてたった一人であろうともこの駒をば死守して見せます!」
すっかり潤んだ眼に炎を宿し、千代は力強く誓った。
「あ……折角の決意のところ悪いけど……僕も一緒にいていいかな」
ハーレイがちょっと話しかけづらそうに提案し、千代は炎を宿したままの眼で振り返りハーレイの顔を見詰めると
「是非お願いします!!」
お願いするのかよ! という突っ込みが各方面から聞こえてきそうだがなんだかんだで千代はハーレイと行動を共にすることとなった。
そうして様々な思惑が交錯する中、生徒達はくたびれた寺へと吸い込まれていった。
――一時間後。
「ん……、いてて千代め……」
ゴキブリが新米主婦に見つかり、スリッパの底で叩き潰されたような無様な格好で目を覚ませたエンジはすっかり暗くなった境内で起き上がる。
「あそこまで本気でやるかフツー……ぐぬぬ、この俺が奴の王将を奪ってくれようか……」
エンジが黒い悪い妄想でぐへへ、と悪役よろしくの笑みを浮かべ寺に帰ろうと立ち上がるとあることに気が付いた。
「……ん?」
パタパタと両手でポケットやシャツを叩く。
その度になんの変哲もないパタパタという音がするだけだ。
「ない」
はて、なにがないのだろう。
「俺の駒が……ない」
失神していた隙にエンジは駒を奪われたようだった。
「ぐぬぬ……許さん、許さん……ぐぬぬ……!」
血の涙を流し悔しさに心を燃やすエンジは明日の略奪戦で苑を稼ぐ闘志を燃やすのだった。
「あらぁ~遅いお帰りですねぇ」
はんなりと梅が遅れて帰ったエンジを迎え、エンジは「お、おう……」とまんざらでもない返事を返した。
「……」
「……」
玄関で二人の間に流れる妙な間。
「あの……なんかあるのか」
「ああこれは気が利きまへんで堪忍ですぅ。駒をどうぞお願いしますぇ」
「……駒?」
「ええ、駒ですぇ」
「駒……って、必要なのは明日からじゃ……」
「奪い合いが明日からという意味なので、ここに泊まるには駒を持参しているのが条件ですのんで……」
……沈黙。
「……あれ、もしかしてもう無いなったんどすか?」
「そんなわけねーじゃん! あ、あとで……、あとで渡すからよ! とりあえず部屋行くわ」
「あきまへんぇ」
「……」
「……」
にこにこと笑顔を崩さない表情なのになにか絶対譲らない空気を漂わせる梅。
つつー……と、額から冷や汗を滴らせて固まるエンジ。
「こ、駒だけに《コマ》ったなぁ~……なんて」
「ふふふ、まぁおもろいわぁ」
「ははは」
「ふふふ」
……
…………
………………ちーん。
「わあ~!」
やしろの感激の声。
「すっごーい!」
続いて他の女生徒の声が鳴り、広い石畳の敷かれた露天風呂は黄色い声で包まれた。
実はこの寺から少し離れたところに住職お手製の温泉があり、毎年修学旅行に訪れる士道学苑の生徒達はこの風呂に感激の声を上げるのだ。
「き……聞こえたか」
子分Aが真剣な表情で子分Cに話す。
「ああ……聞こえた」
子分Cは神妙な面持ちで応えた。
「あの壁一枚挟んだ無効に裸の女たち……(特にやしろ先生)がいるってことでいいんだな」
これまた眼光を研ぎ澄ました子分Bがギブスをさすりながら女子風呂と隔たられたその壁を睨んだ。
「お前達、何を考えている。ダメだぞ絶対に」
「先生、鼻血」
角田教師も然りであった。
「すっごぉ~い! 杜永先生のおっぱい、なんでこんなに大きくなるんですかぁ~!」
【おっぱい】という単語に男子生徒達の時が止まる。完全に止まる。
誰もが全神経を耳に集中させ、一言も声を発しないでいた。
「そんなことないわよ、ほら未枷さんだって大きいじゃない。山下さんもすっごい形がいいし……先生羨ましいわ」
……沈黙。ここで喋った男はきっと凄惨な死を遂げるであろう。
「や、ちょっと触っちゃだめだってば!」
「いいじゃん先生~大きくなるコツはマッサージですかぁ~! わ、やわらかーい」
子分たちがアイコンタクトをとり、ほかの男子生徒達も力強く頷く。
『やるぞ、俺達は絶対に覗くぞ!』
という意思の表れである。
乱れ太鼓の時は団結する気もなかった彼らが確かに一つになる瞬間であった。
「あー……えっと、悪いことは考えたらだめだよ。士道を志す者として」
そこへわざと大きめの声で言いながらハーレイが現れた。
その場に『こ、コイツ……やりやがった』という殺意の目がハーレイに注がれた。(角田教師も)
「男子がなんか変なこと考えてるっぽいから早く出ましょう」
やしろのその声と、それに続く女子たちの声を聞きながら帝國士道学苑の男達はこのうえない絶望を味わうのだった。
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