第11話

 ガリガリガリガリ……



「ねぇねぇ、もしかしてあれって……」



 ガリガリガリガリガリ……



「お、おおっ!! すっっげぇ~! やっぱり実物はでかいなあー!」



 ガリガリガリガリガリガリガリ……



「あーー! あの人、絶対そうだ!」



 ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ……



「帆村エンジぃーーー!!」



 わあああああああああっっ!



「えんとーさいさま、少しはなにか反応してみては?」


 黄色い声援や、羨望の唄、尊敬の眼差し。

 色々様々な思惑が四方八方に飛び交う中、無視を決め込んでいたエンジは千代が説くのに立ち止まった。


「……ちっ! あんだよ、俺は平和な学苑生活を望んでるってのによ」


 エンジは鬱陶しそうに舌打ちを鳴らすと後ろからゾロゾロと着いてくる生徒達に向かって巨大な炎灯齊を大きく振りかぶり、遠心力を利用して華麗に回った。

 千代の耳には『くるりんっ』という幻聴が聞こえ、反射的にその音を叩こうと耳を叩く。


「痛っ!」


 ――あれ……確か今まですっごく嫌そうな顔してたよね?


 千代が自問している隙にエンジはキャーキャー騒ぐ生徒達を正面に、炎灯齊をドガッと地面に突き立て鼻の穴を大きくした。クマンバチくらいならスポッと簡単に入ってしまいそうな鼻の穴からはフフーン、と聞いたことの無い音と共に息を吐きだし、片手は腰に手を当て、得意そうに口元はお椀の曲線を描くが如し笑っていた。


 すーっ


 エンジがなにか発言するのを感じた生徒達は、ほんの一瞬だけ沈黙しエンジの口から発せられる言葉に期待している。


「ボンジュゥゥウウル! 皆の衆~~~!!」


 その場には吹いたことのない風が吹き荒び、数秒の間誰も発言すらしなかった。

 エンジの放った言葉があまりにも意味不明だったからであると説明しておこう。


「ボ、ボンジュール?」


「皆の衆?」

 誰かが1人疑問を口にしたところで瞬く間に場はざわつき始める。


「えんとーさいさま……あのぅ……」


「……なんだ」


 千代がこっそりと耳打ちしながら場がなぜこんなに混乱しているのか全く分からないで挙動不審になっているエンジ尋ねる。


「差し出がましい疑問なのですが、その……ボンジュールというのはなんでしょうか?」


「なにってそりゃあ……英語だよ」


 千代がハッとした顔でエンジの顔を見詰め固まった。その様子に「なんだよ……」とエンジが問うがすぐ千代は若干引きつった笑顔を浮かべて


「で、ですよねー……」



 エンジと千代の会話にざわついた場がさらにざわつく。


「おい、い、今『英語』だって言わなかったか……?」


「え? え? ボケたんじゃないの??


「えーー! 私はてっきり高度な試験だと思った! 《ボンジュール皆の衆に隠された暗号を解け》的な!」


「あれ……もしかして、帆村エンジってアレなのかな」


「マジで? アレなの!?」


「絶対、アレだよー!」

 ……このままだとあまりにもエンジが不便なので、こっそり皆様にヒントを与えておこうと思う。前ページで生徒が『アレ』と言ったのを『アホ』と変換してみて欲しい。それでかなりイメージが補完されると思う。


「あいや待たれい皆の者!」


 それを見てられなかったのか千代が見得を張ってエンジの前に立ちざわつく生徒達に言った。


「おい千代、お前一体なにを……」


 キラリン、と星を飛ばしてエンジに向かってウィンクをすると千代はすぐまた生徒達に向き話を続けた。


「先ほど我が炎灯齊様が皆様方に謡われたお言葉。非常に深く威厳に満ちたまさに帝王に相応しい言葉でありました。

 『ボンジュール』の《ボン》とは【梵】であり、《ジュ―》は【獣】、《ル》は【留】。

 つまりは【梵獣留】!  【神の獣を心に留める】。

 神格化した内なる野獣を外に出すことなく自身の中に留める!

 これほど難しいことはございません! これは炎灯齊様が日々努力と鍛錬を重ねられた結果故のこと! 皆様にはお見えか! 

 この全ての事象を正とせず否定する段を刻む眉!

 空気すらも射抜き、万物の呼吸をも支配する鋭い目!

 そして神羅万象を司り、全ての生命を赦すように笑う口!

 ああ……なんと慈悲深く偉大な人なのでしょうか!! このお方こそ三代目炎灯齊!

 この世の神なのです!!」


 場は静まり返った。

 この場を音にするのならば……キーンである。シーンの更に上段を往く、キーン。だ。


「なんか危ない宗教みたい」


「宗教だよな、これ……完全に危ないよな」


「まさかジョニーが認めた帝國民が宗教だなんて……」

 時は2014年4月の頃。


 エンジが入苑したのはこれより二年前の4月であるからして、つまりエンジは3年に進級したのである。

 エンジの後ろをひっついてきた生徒達はつまり新入生である。


 ジョニーの一件でその顔を知られることとなったエンジはちょっとした有名人になっており、晴れて入苑することになった新入生にとって、初めて生でみるエンジは芸能人くらいの知名度があったのだ。


 新一年生の入苑式のこの日、エンジと千代もまた3年になって初めての登苑であった。

 寮生活のしばしの休息を炎殲院にて過ごしたエンジと千代(といってもエンジは帰省中爺による修行でしっかりしごかれていた)は、また今日から始まる寮生活と最上級生になった責任感を感じていた。


「そう、感じていたのに……なぜお前は早々とぶち壊しにする?」


 血管を額に浮かべ目を据わらせたエンジが千代を正座させて問い詰める。それはもう昏昏と問い詰める。


「あい! すみませんでした!」


 エンジに鼻の穴に指を突っ込まれ今にも持ち上げられそうになっている千代はとても元気に謝罪する。とても良い姿勢でもう一度「すみませんでした!」と言った。


「そういや俺の入苑式の時もそうだったよな……。早とちりして訳の分からん見得を切って俺を貶めたんだよな?」


「いえ! そんなつもりは毛頭ございません! わたくしなりにえんとーさいさまを想っての行為でして、決して眼つき悪いし眉毛ギザギザだし口悪いから絶対的に友達なんてできないからここら辺で目立たせておくかー、だなんて思っても……イデデデ!」


 千代が言い終えるのを待たずにエンジは鼻の穴に突っ込んだ二本の指を垂直に引き上げ、千代は涙目で目を見開きながら手をバタバタとさせ痛みを訴えた。


「これを鼻フックという!」


「千代のお鼻が取れてしまいますぅ~~~!!」


 涙目というか千代はもう泣いていた。しかしそんな哀れな千代に脇目も振らずエンジは悪霊のついた老婆の如く形相でひぇひぇひぇと笑った。


「痛いかえ? 痛いかえ~?」


「ちょっと! エンジ、なにやってんだよ!」


 そこへ現れたのは北川ハーレイ。みっともない鼻を見せつける千代を憐れんだハーレイは、慌ててエンジの元へと駆けると、千代の鼻を上半身ごと持ち上げる手を振りほどこうと手をかけた。


「ええい離せ! 離せハーレイ! こいつには今、折檻が必要なのだ! 今の俺は必要悪なのだぁ……ひぇひぇひぇ」


「もう何言ってんだよ! 千代の鼻がちぎれるだろ」


「いいえ、ハーレイ様構わないのです……千代のお鼻が花を摘んだ後のように醜くなろうとも、えんとーさいさまがその後の千代の面倒さえ……」


「見るかァ!」


 エンジは更に強い力で鼻を引き上げた。一瞬ミリッという音が聞こえる。


「まぁああー!」

「本当にいい加減にやめときなって! 今やな音聞こえたよ!? 早くやめなって!」


「ちっ!」


 ハーレイが促すとエンジはわかりやすく舌打ちをして千代の鼻を解放した。これでは誰が悪役なのか分からないというものだ。


「ありがとうございます!」


 千代は鼻を抑えながら何故かお礼を言った。


「複雑な愛なんだね……」


 呆れながらハーレイはため息と一緒にそれを吐いた。


「まあまあ、そんなことよりも……」


 ハーレイの右腕を掴み、拳を握らせ人差し指だけを立たせた別の腕の主が、落ち着いたはずの間に割って入ってきた。


「この指をまことの【自主規制】に突っ込んで【自主規制】【自主規制】みてくださいよぉ」


「わあああっっ!!」


 声の主はすっかり勝手に教室にやってくるようになったまことだった。ハーレイの人差し指をはむり、と口に咥えて言った言葉はもう隠語でもなんでもなくストレートな単語だった。

 自分の指に起こったこととそのストレートな単語のダブルパンチに動揺しつつ腰を抜かすハーレイをまことはうるんだ瞳で見た。


「まことはもうこの際みんなの前で処女喪失してもいいんですょ? それはそれでいい記念になりそうだし……それにハーレイ先輩って外国の人の血が入ってるってことはさぞ立派な……」

「悪霊退散!」


 千代の護煙丸がまことの脳天を割り、割れ目から血が噴き出す。(納刀状態でである)


「うっきゃーーー!」


「この魑魅魍魎眼めが! ついに本性を現しましたね! ハーレイ様の精気を吸いつくした後は我が主、えんとーさい様にも魔の手が伸びるのは必然! ならばそうなる前にこの神楽の煙千代がこの妖怪をば……」


 先ほどの鼻フックで広がった鼻の穴からブフォーと荒い息を吐き出し、千代はまことを悪霊や妖怪扱いした体で見得を切る。

 しかしその見得の口上を謡っている最中、静かにその足元が浮き、なんと千代は宙に浮いてしまった。


「ま、まあああっ?!」


 呆気にとられるエンジ達の前で、宙に浮く千代の首の裏、襟元を引っ張られている腕。

 その様子だけを見ればまるで千代は貰われてきた猫である。


「相変わらず威勢がいいな。お前たち」


 千代を持ち上げていたのは入苑式の為に来苑していた神雷であった。


「あわわ……百虎(びゃっこ)さま……」


 千代は著名人や芸能人、有名人に弱い。実はこう見えてミーハーなのだ。

 ジョニーの一件以降、ジョニーを守ったという功績を評価され更にスターダムに乗った神雷は、昨年までの人気がなんだったのかと思うほろに格段を超えた人気を得ていた。

 その為、面識があるのに千代は神雷の登場に動揺したというわけだ。


「ささ、サイン……」


 神雷が『え、なんでそれを今更欲しがるの?』的な顔で千代を見るが、すぐに目を逸らす。

「……三代目炎灯齊。久しいな、ジョニーの一件以来か」


 マフラーの当たる口元を手でたるませ神雷はエンジを少し視界の隅に入る程度見下ろして再会を懐かしんだ。


「ああ……、あんたはすっかり雲の上に行っちまったと思ったけど、案外早く会えたな」


「そうか。俺には認知度などは邪魔なだけなのだがな。おかげでこれを買うのにも一苦労だ」


 着物の裾からたこせんを出し、お馴染みのパリパリ音を鳴らせて食べる。


「うわあああああっっっっ! 【剣聖・百虎】風馬 神雷だぁああああ!!」


 エンジでボルテージの上がったギャラリーは神雷の登場でそれは悲鳴の弾丸となり四方八方に撃ち乱れた。興奮のるつぼと化したその場に呆れてエンジは頭をかく。


「ほら、言ったろ? ジョニー来日の時とあんまり変わらねーよ」


「簡単に言う。これはこれで大変なのだぞ。……だが、まあしかし……入苑式前にこれ以上生徒を興奮させるのは利口とは言い難いな」


 たこせんをばりん、と食べ干し神雷は千代を小脇に抱える。


「ま、まぁああああ! じ、神雷に、神雷にィィイイイ」


「ハーレイ、まことを頼めるか」


「ああ、大丈夫」


 エンジが言うまでもなくすでにハーレイは気絶しているまことを肩に担いでいた。

「じゃあ、行きますか!」


 バッティングフォームのように炎灯齊を構えると、その切っ先に千代を抱えた神雷が乗る。それをみてなにかのパフォーマンスだと勘違いした新入生徒たちはまた弾丸のような歓声を上げた。


「おいお前ら、どうでもいいけどあぶねーぞ! そこの花壇くらいまで離れてろ!」


 エンジがそう言うやいなや、構えた炎灯齊をさもホームランをイメージさせるようなフルスイングで振った。


 その瞬間、炎灯齊の上に乗っていたはずの神雷はその場に居なくなっていた。


「神雷がいないぞ! どこだ!」


「あ……あそこだ!!」


 ひとりの生徒が高く聳える校舎を指差した。

 その指先を追うと、校舎の陰から差す金色の日差しと翡翠の輝きを持った空に切り絵のようなシルエットで舞う神雷の姿を捉えることが出来た。


「えんとーさいさまぁぁあああ! ここは嫉妬する場面ですよー! 嫉妬ォォオオ!」


 ……シット! とエンジがその時思ったかどうかは分からないが、生徒達が空を舞う神雷に釘づけになっている隙に今度は炎灯齊を縦にぶんぶんと回し、そのまま炎灯齊をぶん投げた。リリースの瞬間、刃通力により自らの体重を限りなく軽くし空を飛ぶ炎灯齊の横腹に捕まり、共に空を往くのだった。


「げえぇええ! 帆村エンジも飛んでるぞ!」


「士って鍛えたら飛べるの!?」


「すっげぇ! 士って空を飛べるんだー!」


 ……些か語弊があるようだが、なんとかこの場を脱出出来たのことをここに記しておく。

 ――ここで少し時を遡る必要があると思う。


 遡るのは……そう、エンジがハーレイと千代に帰還の挨拶をした直後だ。




 救急班にタンカに乗せられ搬送されるエンジを小太郎が止めた。


「よォ、帆村ァ。いいツラだなオイ」


「……佐々木? なんでお前がここに」


「わっかんねェ奴だな。市民はよォヒーローって奴を求めてんだぜェ? ここで俺サマが登場しなくていつ出るってんだァ」


「はは、じゃあお前はヒーローじゃないな」


「あァ?!」


 エンジは小太郎を指差し、半分腫らした片方の眼差しを向けていつものように悪そうににやつく。


「そんなにボロボロなヒーローに市民も守られたくないってさ」


 エンジが指差した小太郎は先の戦いですっかりボロボロの姿になっており、身体の至る所には切り傷、服はどこもかしこも破け、血が滲んでいる箇所がかなり見受けられる。


「よく立ってられんな」


「ボォラ! うるっせぇ! 誰よりも早くダウンしてタンカ乗せられてる奴が言うんじゃねェぜ!」


 救急隊員が「もう行きますよ」と彼らの会話を遮った。

 2人はその言葉に噛みつくでも不満を絡ませるもなく、素直に閉口しお互いを見合った。


「生きてんだから、分かってるな」


「……リベンジか? 何度やっても同じだっつうの」


 言葉には出さないが小太郎とエンジは心から再戦を望んでいた。


 エンジはあの時抜いてしまった炎灯齊を抜かずに、今度こそ自分のスタイルで小太郎を倒すため。

 小太郎はあの頃の驕っていた自分とは違う、エンジを1人の敵として認めた上で、全力で向き合い、征服するため。


 互いが互いを認めていることだけは共通しており、この共通観念には奇妙な友情すら生まれつつあった。

 だがそれは二人とも認めるわけもなければ、気づくはずもない。

 ただ、敵としてもう一度、死合い、決着をつける。


 これだけが彼らの願いであった。


「hey! エンジ」


 ジョニーが救急車両に乗せられる寸前のエンジに何かを放り投げた。


「! これは……」


「フォー・ユー」


 ジョニーは憎い笑顔とウィンクでエンジに湿り気など微塵もない、カラッカラに晴れ渡った地平線のように、気持ちの良い別れの挨拶を告げたのだ。


 バタム、と扉が閉まり頭上でサイレンの音を感じながらジョニーがくれた白い皮で出来たオープンフィンガーグローブを握った。


「……シーユー」

 シェリーが目を覚ましたのは、それからまる一日が経った翌日の昼間であった。


「おや、お目覚めになられましたかいプリンセス」


「……ここは」


 シェリーが痛む身体に縛られながら辺りを見ると、ふわふわのソファに腰を深く鎮めガラスのテーブルに足をかけるジョニーが見えた。


「行儀が悪いですよ。ジョニー……」


「目覚めてすぐにそれを言うか? プリンセスからプリンスに戻っちまったみたいだな」


 シェリーは首だけを動かしてジョニーに目をやるとやや不機嫌に眉をくしゃりと歪ませた。


「なんの話です?」


「いいや、なんでもねえよ。……ったく、つれねぇシンデレラだ」


 ジョニーはシェリーが最高にかわいらしかったあの瞬間のことを忘れているらしいと思い、テンガロンハットを自らの顔にかぶした。


「シンデレラ……」


「ああ、なんでもないさ。そんなことより気分はどうだ? チキン・ビーフ・フィッシュ……なんでもあるが……寝起きにゃ些かヘヴィかな」


「そうですね。……じゃあ、チキンを頂きましょう」


 シェリーの答えに驚いたジョニーは顔を隠したテンガロンを再び持ち上げるとシェリーの顔を見た。シェリーはほんの一瞬、ジョニーと目が合ったがスグに逆方向へ首を回した。


「すみませんが私はもう少し眠ります。チキンが来たら……声をかけてください」


「ってお前チキンなんて…………オーライ、ゆっくり眠るといいさ。さしずめ今は眠れる森の……ってところかい?」


 眠れる森……の先には《美女》が続く。シェリーはジョニーから隠した顔を真っ赤にしながら目を堅く瞑った。夢だと思っていたが、あれは本当にあったことだ。


 私はジョニーになんてことを……。


 そう、シェリーはあの時のことをしっかり覚えていた。だが、自分のしてしまったこと、言ってしまったこと。

 その全てが自分の人生に於いてどれもが初めてのことだった。


 それは死を覚悟したからか、夢の中だと錯覚していたからか。


 どちらにせよ彼女にとってとても彼を直視できることではない。これがこの先どのように二人の関係を保つのか……それとも壊すのか。

 その話はまたの機会にしよう。


 2人を乗せた飛行機の航路に異常はない。

「赤目の傷も浅い。傷跡も残らずに済むそうだ」


 神雷はエンジの病室の窓辺でたこせんをかじりながら告げた。


「今回の一件、本来ならばドームへの侵入を許したのを咎められるはずだが……何故か不問とするらしい。

 ありがたいのか、それとも疑うべきか……。

 なんにせよ、誰一人として命を失うこともなく無事に帰ってこれたのだ。これ以上の土産はあるまい」


 静かな病室にパリポリと神雷がたこせんをかじる音だけがぽつりぽつりと室内の端に膝を抱えて座る。


「……そんなに気に揉むな。お前が悪かったわけではない。

 慰めじゃないぞ。俺が見ぬけなかったのが全ての元凶だ。不覚の極みだ」


 エンジはただ黙ってベッドに横たわるのみだった。

 普段なにかにつけて文句を言ったり、話に横入りしてきたりと落ち着かない男なのに、やはり諒のことがショックなのか一言も言葉を発することはなく。

 ベッドの布団を頭からかぶり小さくなるばかりであった。


「とにかく、全ては片付いた。それもこれもお前たちの尽力の賜物だ。誇りに思っていい。

 だがな、己の無力さを知るのは士にとって必要な経験だ。

 己の無力を知るからこそ、どの力を得るべきか。その力を得るためになにをすべきか。

 それらが生まれ、掬い上げ、消化することでそれはお前の士としての軸になる。

 それを忘れるな」


 マフラーの隙間からもう一枚たこせんを取り出した神雷はただ黙って聞いているエンジに珍しくそう諭す。


「すみませんが室内は飲食禁止です」


 その声は看護師の声であった。神雷は看護師と目を合わし、小さく会釈をしたかと思うと、

パリッ


「食べちゃ駄目だって言ってるでしょ!」


 看護師に怒られた神雷は少しこの場に居辛そうに立ち尽くし、手に持ったたこせんが行先を失いふるふるとしていた。


「帆村さん、シーツ替えますよー起きてくださー……あっ!」


 驚きの声を上げた看護師の女性は丸い目で神雷を睨んだ。


「……なんだ」


「なんで手伝うんですか! まだ退院していいなんて言ってませんよ!」


「……?」


 神雷は疑問符を頭上にゆらゆらと浮かせながらエンジの眠るベッドに目を落とした。


「……(にこ)」


 ベッドにはおおきなアザラシのぬいぐるみが横たわり、【四代目炎灯齊】と走り書きされたチラシの裏が貼ってあった。当然、何故そうなっているのかが分からない神雷は看護師に自分が一番かわいいと思う笑顔を見せるしか手段はなかったのだ。


「士道のスターでもやっていいことと悪いことがありますよ! はやく連れて帰ってきてください! ……全く、なんで男の人ってこんなに非常識なのかしら」


 パリッ


「食うな!」

 一方、炎殲院の神象の間へと続く渡り廊下が騒がしかった。

 立てられて何百年と経つ寺院の床は強く踏めば板と板が頬をすり合わせる音が屋根に手を伸ばす。

 その手は屋根に届くことはないが、そこを歩く人間が歩みを重ねる度に手は何度も屋根の梁を掴もうと躍起になる。

 今日と言う日はその音が一段とうるさく響くのだった。


「坊! どうされたのですかな、今宵戻るとは聞いておりませんぞ」


「おう爺、久しぶりだな! まずこの有様に心配したらどうだ?」


 足音の主はやはりエンジだった。

 エンジは松葉杖を一本脇に抱え、頭や胸、腕に包帯を巻きさながらミイラのような出で立ちで炎殲院に戻ったのだ。


「……また盛大にやられましたな。ジョニー・バレットは帰国されましたぞ。そのニュースは知っておりましたからの。坊についての報道も一切なかったので無事だと信じておりましたぞ」


「けっ、調子いいな」


「……して、千代はどこですかな」


「ん、帰ってないのか」


「ええ。昨日、帝國ドームに行ってから家には帰っておりませんぞ」


「じゃあ寮だろ。大体、なんであいつこんなにちょくちょく家帰ってきてんだ。苑則違反じゃねえのか」


 入苑してから千代は週の半分はこの寺に帰ってきている。特例とされる入苑式前後でもない普通の日に、さも当然のように帰宅をやってのける。恐ろしい子なのだ。


「それは学苑長とわしが古い付き合いで、尚且つ学苑とこの炎殲院が近所だからですじゃ」


「は!? そんなのまかり通るのかよ! 案外いい加減なんだな……」


 そんな話を交わしながらエンジと爺は居間を目指し、そうこうしている内に辿り着いた。


「その様子ですと病院を抜け出してきましたな。……困りますぞ、叱咤されるのは爺なのをお分かりか。坊」


「うっせ! 俺の身体は俺自身が一番分かってるよ。その俺がもう大丈夫だって言ってんだから大丈夫に決まってんだろ!」


「嘆かわしいというか、頼もしいというか……爺は複雑な腹持ちですぞ」


 エンジが胡坐をかいて「けっ!」と分かりやすく悪態を尽き、それを見ないふりをしつつニコニコと笑う爺は、黙って茶の用意をする。

 なんだかんだで久しぶりに見るエンジの顔を見て上機嫌なのだ。


「……して、病院を抜け出してまで帰ってきたのにはなにか理由があるのですかな? それとも単純にホームシックって奴ですかな?」


 お茶を二つ盆に乗せて爺はエンジの正面、ちゃぶ台越しに座った。「お菓子は?」「ありませんぞ。そんなもの」短いやり取りで一喜一憂を表情に表す。

 学苑では中々見られない姿でもあった。


「爺に聞きたいことがあって帰ってきた」


「ほう、聞きたいこととな?」


 ずず……と茶を啜り、落ち着き払ったいつもの様子で爺はエンジの質問を待った。

「ケツイってなんだ」


 カチャ、……湯呑が受け皿に少し強くぶつかる。その音を境に明らかに爺の様子……空気が変わった。


「……坊、どこでそれを」


 爺に出されたお茶を飲もうと湯呑を持ちあげたところでエンジは止まった。思いがけず爺の雰囲気が変わったからだ。


「どこでって……神雷が……さ」


「くだらないことを吹き込んでくれる……小僧め」


 見たことの無い種類の怒りを宿した爺に、エンジはそれ以上突っ込んだ質問が出来ずにいた。


「坊、風馬の小僧からなにを言われたのか知りませんが、ケツイを習得したいだなんて思ってはいけませんぞ。あれは禁じられた技術ですからの」


「禁じられた技術……?」


 爺の言葉を聞いて確か神雷もそんなことを言っていたな……とエンジは思い出した。

 そう、禁じられた技術であり、それを知ることも原則禁じられている。国家機密にも近いというケツイ……。キツネ男との戦いで実戦では発現させたエンジだったが、その時エンジは妙な違和感を感じていたのだ。


 合宿の終盤、かなりの精神力を犠牲にしてケツイを発現させることに成功した。ジョニー来日の直前だったこともあり、そこからその技術を検証することも慣らす時間すらも足りなかったエンジは、最終日でキツネ男と会敵したことでなし崩し的に実戦での発現を決行した。


 その時、起こったのは合宿で修練した現象とは全く違う現象だった。

 鞘に納刀したままで口上(炎を引き出す能力)を成立させるのは変わりないが、対キツネ男戦で発現したそれは、エンジの人格を明らかに変えたのだ。

 顔からは一切の表情が消え、喜怒哀楽の感情が必要以上に抑制されその反動とも取れるほどそれは刃通力に返還され、肉体的・技術的・直感的な能力は飛躍的に上昇、これまでの動きとは一線を画すほどの身体能力を見せた。

 さらにそれは口上にも反映されており、修練で引き出せた炎とはくらべものにならないほどの炎を引き出すことが出来た。皮肉だがそのおかげでキツネ男に辛勝できたと言っても過言ではないことを、エンジは身を切られる錯覚にとらわれるほどに理解していた。


 だからこそ知りたかった。自分の使う【ケツイ】とは一体何なのか。


「いいですかな、坊。刃通力とケツイは全く真逆のものだと知ってくだされ。刃通力は、自らの想いを刀に乗せ、紋刀と自身を一体化させる技術。

 一方のケツイは、紋刀を制圧し無理矢理支配する技術なのですじゃ。

 ケツイを会得するのも、しようとするのも、……しようと思うのもやめておくべきですぞ。でないと、坊の最も憎むセンエツと同じ轍を踏むことになりますぞ……」


「……センエツ!?」


 思いがけず爺の口から出た父センエツの名。ケツイとセンエツにどんな関係があるのか、こみ上げる怒りの炎を押さえ、エンジは爺の次の言葉を待った。


「左様。あの男はケツイ紋句をさも息を吸うように、平然とやってのける化物……。帆村家始まって以来の天才は、わしらの考えでは到底届かん境地に辿り着き、ついには刀狩を自ら率いるという蛮行にも及んだのです。

 いいですかな、坊。ケツイは士を殺すもの。強く成りたいという思いだけでは余りにも安い。修羅に入る覚悟がある者しか習得してはならんものなのです」


「ちょっと待てよ爺、【ケツイ紋句】って……? ケツイとは違うのか!?」


 爺が一瞬目を見開き、口を半開きにしたのをエンジは見逃さなかった。


「……やっぱり、まだあるんだな。爺、教えてくれ! ケツイって……ケツイ紋句って一体……」

「ただいまですー」


「おお、千代が戻りましたぞ。いずれにせよ千代に聞かせて得のある話ではあるまい。この話は坊が無事学苑を卒業し一人前の士になって我が院に戻られた時に続きをしましょうぞ」


「そんな……! 爺、頼むよ」


 爺は立ち上がり、食い下がるエンジを見ずにただ一言だけ、重々しく落とした。


「……坊。《今》その時ではない”……」


 爺が最後に言ったその言葉の重みにエンジは動くことが出来なかった。言葉の内容ではない。その言葉を放った爺の威圧感がとてつもなく鈍く、重く、のっぺりとエンジの背中に跨ったからだ。


「ケツイ……紋句?」





「あーーー! やっぱりここにいましたねぇええええ! どれだけの騒ぎになったか分かってるんですか!」


 千代の叫ぶ声も今のエンジには聞こえていな……


「無視とはいい度胸ナリ!」


 千代の渾身のドロップキックがエンジのアゴに決まり、エンジは再び意識を失うのであった。


「どうした千代?」


「い、あわあわ、そのえんとーさいさまが突然お気絶召しまして……」

 三年生伝統行事・乱れ太鼓。


 他の学年と交流を持つ行事のないこの士道学苑では、三年生に上がると伝統の行事がいくつかある。


 一年、二年と級を進める毎に日頃の鍛錬はより厳しくなり、当然ながらリタイアするもの現れる。

 その理由は単純に辛さから逃げ出すか、もしくは自分の限界を垣間見てしまうからであろう。

 本当の試練はむしろ卒苑してからだというのに、ここで脱落するということはつまり士には向いていないのだろう。何事も見切りは早いに越したことない。


 些か脱線してしまったが、この乱れ太鼓という行事はそんな試練を乗り越え、最後の級に歩を進めた生徒達が出会う三年生最初の難関。


 ルールは簡単である。


 グランド中央に置かれた大人の背丈二人分ほどの高さを誇る巨大太鼓。この太鼓をより多く叩くことが出来たものが三年生上半期の筆頭苑生として君臨できるのだ。(生徒会長みたいなもの)

 実際、筆頭苑生といってもなんの権限もなければ、特に立派な仕事もない。

 名前だけの栄誉だと言っても過言ではない。


 だが、筆頭苑生にのみ装着することが許された腕章が筆頭苑生に任命された生徒に送られ、それは下半期に行わられる別の伝統行事までの半年間つけて学苑生活を送ることが出来るのだ。


 それはさながら《歩く名誉》と言ってもいいほどであり、各生徒からの注目度もナンバーワンなのである。


 さて、なぜ私がこの伝統行事の説明を頭からしたのかと言うと、すでにエンジ達の間では、乱れ太鼓の話題で持ちきりであったからである。

「帆村はずりぃだろー! 絶対お前が優勝すんに決まってんじゃん」


 毎年怪我人続出の行事だけに、当日の暴虐無人と化したエンジの姿を想像して誰もが固唾を飲んだ。


「まあまあ諸君、今からあまり恐々とするのはやめたまえよ。大丈夫さ、ちゃんと手加減をしてあげるからねぇ」


 机に脚を乗せて得意げに言うエンジの顔はまんざらでもなさそうだ。


「いや、でも三年には佐々木小太郎がいるぜ!? 奴と帆村なら互角だろ」


 誰かが言ったその言葉にあからさまにエンジの顔が険しくなった。くしゃりと中心にシワが集中した滑りの悪いギスギスとした顔色に周りの生徒は一瞬黙るが、すぐに話を続ける。


「でも帆村って一年の時、佐々木に勝ってんだろ」


「すっげーよな! 佐々木って言ったら燕塾の時期館長ってんだろ!? そんな士道のエリート候補に勝つなんてマジ有り得ねー!」


 ニヘラ、という音が聞こえてきそうなほどエンジの顔はだらしないことこの上ない。

 エンジは気付いていないのだ。実は自分はみんなに面白がられている……と。


「けど、乱れ太鼓って全員戯刀での参加だろ? 確か帆村って炎灯齊以外の刀じゃあ……」


「……!!」


 ある生徒が言った言葉で教室内の空気が一変し、一斉に全員がエンジを見た。


「ぼ……ぼんじゅぅ~る……」


「そうか! 帆村は戯刀持つと凡人以下だったっけ!」


「ちょ! 誰が凡人以下だ! 凡人以上だ! 凡人以上!」


 慌ててアウェイになりつつある空気に抵抗しようとエンジは生徒達に言い訳を敷く。

 だが敷くタイミングの遅れたその風呂敷に尻を落とす生徒は誰一人としていない。


「あの……さ、そ、そうだみんな! お茶飲む? うちの千代が持ってきたほうじ茶は美味くってさ……」


 お茶で釣ろうと試みるが、今時お茶で釣られる若者などいるはずもない。


「そうと分かれば乱れ太鼓当日は一斉に帆村へ襲い掛かったらいいんだ!」


「うっおー! 超名案!」


「あ……いや、それはちょっと……迷案じゃないかな……」


 みるみる内にコロポックルのように縮んでゆく。誰の視界からも低くなり見えなくなったエンジは乱暴に踏まれた。


「いだだだ! 誰かっ! 誰か私に気付いて! お願いよぉぉおお!!」


 すっかりキャラが変わったエンジはただ踏まれるばかりであった。


「炎灯齊の無い帆村なんぞ恐るるに足らずだって! ィヤッハァー!」


「ヒーハー!」


 

 昨年のジョニー来日時の活躍でエンジの顔と名は広く知れ渡った。

 

 ……と、言っても彼を知る近辺。特にこの学苑内での彼の地位はがらりと変わったと言ってもいい。 

 別段、特別扱いや優遇されるようなことは皆無ではあるが、なにが変わったかと言うと生徒達の見る眼である。


 これまではその乱暴の素行と目つきと口の悪さで敬遠されてきたエンジだったが、かの一件で自クラスはおろか、違うクラスの一度も話したこともないような生徒まで彼と接触するようになったのだ。


 最初はこの雰囲気に慣れず、戸惑いを不愛想という形で表現しか出来なかったエンジだったが、それにも次第に慣れていき今ではすっかりと溶け込んでいる。

 エンジ自身も初めてたくさんの友人に囲まれ、口には出さないがそれを快く受け入れた。


 元来、他人を思いやる心や、信念を貫く姿勢から他人から嫌われる気質ではなかった。

 だが伝承である炎灯齊を持つこと。そのせいで他よりも特例尽くめであること。そしてなによりも【紋句を言えない(と今でも周りに思われている)】ことで周りから必要以上に敵意の籠った眼差しで見詰められてきたのである。


 初めての学苑生活に於いてもそれはエンジの孤独さを手伝う要因であったが、彼を孤独にしなかったのは親友・北川ハーレイの存在があったからこそである。


 さて、すっかり人気者になり孤独から遠ざかったエンジだったが、もう一人の孤独を背負う少年ハーレイは一体どうしているのだろうか。

 少し覗いてみようと思う。






「ようようようようよう。なにしてるんだよう」



 どこからか聞き覚えのない間抜けな声が聞こえてきた。それが誰に向けて発せられたものなのかを確かめる為、辺りを見渡すと……


「井村くん……なにか用?」


 グラウンドの奥にある部室群。それを見下すかのようにグラウンドを挟んで聳え立っているのは旧学苑校舎である。

 現在は技術系の施設として使用しているが、4階ある校舎は1階と2階しか使っておらず実に半分ほどが空いたままで、どこも物置の様に扱われていた。


 そんな物置と化した教室の一角にハーレイはいた。


 誰とも群れず、たった一人。彼の孤独を更に押し上げるように耳に嵌めたイヤホンからはなんの音も僅かばかりも漏れることはなかった。


 そんなハーレイに声を掛けたのは、いつかのクラスメート……。入苑式当日にハーレイにジュースを買いに行かせた井村という生徒だった。


「なにか用? って、そりゃ俺達の台詞だよう。お前こそこんなところに一人でなにしてるんだよう。お前のお守り怪獣はどうしたんだ? よう」


 三角形の目を頬に下げ、ニタつき井村は癇に障る態度と言葉でハーレイをからかう。

 ハーレイは特に反応もせず、井村に対して攻撃を買うようなことは言わなかった。


「お守り怪獣……?」


「ああ、そうさ。あのサルのことだよう、お前はあいつのおかげでいじめられずに済んでるんだから離れちゃだめだよう~?」


 ハーレイはフン、と鼻を鳴らして笑い、


「エンジがいないと分かってて言ったんだろう? 意地悪なことを聞くじゃないか。井村くん」


「なんだと?」

 井村は自分の癇に障る態度を全力で棚上げしておいて、ハーレイの反応が癇に障った。


「生意気なこと言ってくれるよう。お前はさぁ」


「……なぜみんな僕と話すすぐに【生意気】だって言うんだろうね」


「そんなのは分かり切ってるだろ。ここが【帝國】で、お前が【帝國国民】じゃないからだよう!」


 薄ら笑いを浮かべ井村は腰から戯刀を見せつけた。


「……戯刀?」


 井村はへらへらと笑い、ハーレイの反応を見ていちいち楽しんでいる様子だった。


「ああ、そうだよう。本当は死合いでもいいんだけどよう……俺の紋刀がてめぇの薄汚い【血】で錆びちゃたまんねぇって思ってよう」


「なんだと?」


 井村の言葉に明らかにハーレイの目つきが変わる。戦意など微塵も無かったはずの青い瞳が蒼い炎を宿し、その眼光は井村に向けて敵意を浴びせた。


「この戯刀はよう、少しばかり改造しててね。少し刃がついてるんだよう」


「戯刀の改造は違法だよ」


 ハーレイは座っていた窓の枠から降りると仮紋刀をカチャリと鳴らす。


「だけど真剣勝負というのなら、それでも望むところさ」


 ハーレイが次の言葉を言おうとしたのを井村が掌を向けて制止し、にやけた顔を横に振る。

「せっかく邪魔が入らねーように戯刀持って来てんのにお前がそれ(紋刀)抜いたら元も子もないじゃねえかよう。ちゃんとお前の分もあるから……さ」


 井村の背後から教室のドアの陰に潜んでいた仲間が数人、ぞろぞろと井村の背後に並んだ。そのうちの一人が井村に同じ戯刀を手渡し、井村はそのままそれをハーレイに投げ渡した。


「真剣勝負……じゃなかったのかい」


「真剣勝負さ! だからてめーにもその戯刀渡してやったろ?」


 シュルシュルと筒を走らせ井村は戯刀を抜く。

 同じく井村を睨んだままのハーレイもその手に持った戯刀を同じ音を鳴らして抜いた。


 井村がハーレイの元を訪れたのは至ってシンプルな理由だ。

 井村はハーレイを毛嫌いしていた。


 だが知っての通り、ハーレイを毛嫌いしているのは彼だけではない。佐々木小太郎をはじめとする大半の生徒がハーレイに対して敵意と言い換えても差支えがないほどの感情を頂いていたからである。

 ジョニーの一件で、エンジと同様彼に対する目も変わるかと思われたがそれはあくまで異性からであり、その異性からの人気が井村のような男の蛮行を生んだ。

 ハーレイ自身はなにも変わってはいない。心も体も……悲しくもそれは戦闘に於いても。


 エンジの人気が上がれば上がるほど、ハーレイの孤独の色はその範囲を広げる。

 それは藍色から黒になり、どろどろとした粘度のあるコールタールのような異質な物質に代わり、最後には闇そのものとなる。

 元々ひとりきりだったハーレイの心は、エンジと触れることによってわずかだがぬくもりを持った。希望をもった。そしてその反動がこれまで以上の闇を生むのだ。


「お前ら、手え出すなよ……これは【真剣勝負】だからよう!」


「……後悔するよ」

 ――孤独と闇は、強さに直結しない。


 その弱さが闇を更に濃くし、弱さが自責を経て孤独をより一層深くする。

 それらを決定づける材料が、【敗北】である。


 それも【圧倒的な敗北】。


 人の何十倍も何百倍も鍛錬を重ね、士道に向き合ってきたハーレイに今最も触れてはいけないもの。


「まさかこんなに酷いと思わなかったよう。よくこれで三年まで進級できたな。興ざめだよう」


 戯刀を床に抛り投げ、井村は心からつまらなさそうに床に這いつくばるハーレイを見下しながら言った。


「立てよ外人! 次は俺だ!」


 ハーレイに興味を失くした井村が教室の隅にあった椅子に腰を掛け雑誌を読み始める。

 そしてそれまで井村の背後でギャラリーとして野次を飛ばしていた生徒がハーレイの金色の髪を掴み、乱暴に頭を持ちあげた。

 井村との一方的な戦いを見て自分もやりたいと思ったのが見え見えだった。


「俺も真剣勝負を申し込むぜ」


 よろよろと立ち上がり、ほぼ無意識にハーレイは戯刀を握り構えた。


「せやぁああああ」


 何度やっても、誰とやっても、勝てない。一撃を当てることすらも。

 こんな奴らに……こんな奴らなんかより何百倍も僕は……。


 どろり。

 ハーレイは倒れた。頭に強烈な一撃を喰らったからだ。


「やべ……あ、でもちょっとしか血出てないから大丈夫か」


「おーし、次は俺が真剣勝負―」


 誰かに無理矢理立たされ戯刀を持たされる。


「いざ……尋常に……」


 立たされる。


「小手――!」


 持たされる。


「必殺! 回転斬りぃ~~!」


 握らされる。




「僕は一体……」



 どろり。




 どろり。




 どろり。

「はは……」


 ハーレイは笑った。


 井村たちは最初、ハーレイが笑っていることに気付かなかった。

 この状況に立たされ、泣くことはあれども笑うはずもない。そう誰もが思った。


 しかし、ハーレイは蒼い瞳の奥を黒く濁らせ、自分を嘲り笑った。

 含み笑いは次第に大きくなり、井村の仲間が次から次へとハーレイを弾き飛ばす度に大きくなる《それ》にようやく彼らはハーレイが笑っていることに気付いた。


「はははははは」


 ハーレイは大きく目を見開き、倒れてはゆらゆらと立ち上がり剣を構え笑う。


「なんだこいつ、気持ち悪ィな!」


 気味悪がりながら何度も立ち上がり笑うハーレイを戯刀で倒し、相手が代わりまた同じことを繰り返す。

 ただ違うのは、起き上がる度にハーレイの笑いが大きく、激しく……楽しそうになってくるということ。


 だが、たったそれだけの異変だけでも周囲の空気を変えるのには充分であった。


「あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!!」


「お、おい井村……こいつやられすぎておかしくなっちまったぞ……」


 誰の目から見てもハーレイはもはや気が触れたとしか思えないほど高笑いをし、傷から滲む血を拭うこともせずただただ刀を構えては戦いを挑む。

「ボクは、ボクは……こんなにも【コイツ】に嫌われているみたいだ」


 ハーレイが持つ戯刀は、誰に一撃見舞うこともない為、最初に抜いたまま綺麗なものであった。その綺麗な刀身は鏡のようにハーレイを映し、そこに映ったハーレイは反対に傷だらけでお世辞にも綺麗な顔とはいえない。


 中性的でどこか儚げなハンサム顔は、ところどころ腫れあがり、目の上は蒼く痣が出来て、何度も倒れてついた傷からは赤くにじむ血。

 こんなにも痛々しい面持ちになのに、表情は笑っているためそのギャップは奇妙というよりも周囲の人間には恐怖めいたものを与える。まさしく異様な面持ちであった。


「いいさ……みんな、……みんな」


 ハーレイは戯刀を放り捨て、自分の持つ仮紋刀を手にした。


「おい、なにやってんだ!? まさかてめー抜刀……」


 雑誌を落とし、井村は今にも抜刀しそうなハーレイに危機を感じはじめ、咄嗟の判断が鈍りその場に棒立ちのままだ。



『みんな殺してやる!』



 小さな稲妻が部屋中を走り抜けるような激しい電撃音がハーレイの手元から発せられた。


「か、仮紋刀(かりもん)の抜刀紋句って『仁義抜刀』じゃ……」


 井村の仲間達は、ハーレイが叫んだ言葉を紋句と勘違いしたのか、心に思ったことをつい口に出してしまった。


「お前達の差別も、ボクに無い士道の才能も、この血も、強さも! 弱さも! 全てが憎い! だから、ボクは……」


 バチバチと走る蒼い稲妻は黒と紫の禍々しい色に変わり、次第にハーレイの手元に収束されてゆく。

 そしてそこに居る誰もが


『ガチン』という紋刀の開錠の音をその耳に鳴らしたのだ。


「まさか……!」


 その場に居た誰もが凍り付いたように動けないでいた。

 目の前で起ころうとしていることが夢であると信じたいのか、それとも単純に恐怖のあまり動けないのか。


 どちらにせよ、面白半分で始めたはずの外国人いじめは彼らの思わぬ方向に傾き、絶対的な後悔をその胸に刻み込もうとしていた。


「殺す……殺す……殺す……殺す! 殺す! 殺す!」


 言葉の乱暴さとは裏腹に相変わらずハーレイの顔は笑っている。

 人を殺すという行為が、朝食を取るのと同じくらいの軽さだと錯覚するほどに、その目は爛々とし、固まったまま動けない井村達だけを見て、ゆらりゆらりとゆっくり近づく。




「ハぁ~れ~い! どこだー!」




 エンジの声だった。

 ハーレイを呼ぶその声はハーレイの背後の窓から望めるグラウンドからのようだった。

「……!?」


 その瞬間、ハーレイの顔から笑顔と濁った闇が瞳の奥から消えた。

 井村たちはその変化を見逃さず、金縛りから解けたように一斉にハーレイを大きく避けて教室から逃げていった。


 井村達が教室を出る際、「助けて……」「殺される」と恐怖の言葉を捨てて逃げたのをハーレイは聞き逃さなかった。ハーレイ自身、自分の身に起ころうとした得体のしれないものに訳も分からず立ち尽くし、たった今抜刀しようとした紋刀を握る手を見詰めた。


「ボクは……いったい……?」


 ハーレイが見つめる前で、紋刀はガチン、ともう一度音を鳴らして再び施錠状態に戻る。


「抜刀可能状態だったのか? なぜ? 紋句なんて言ってないのに」


 得体の知れない不安と恐怖はそれほど長くハーレイの身に居座らなかった。代わりに、妙な高揚感と興奮がハーレイを震わせ、自らの世界がどんよりと変わっていく感覚。

 それに浸るように目を閉じ、先ほどのことを想いだそうとしていた。


「ハーレイ~、ハーちゃーん! ハーのレイちゃーん!」


 エンジの呼ぶ声は全く耳に入って来ず、ハーレイはただ体や顔の痛みも忘れてどろりとした【それ】ともう一度コンタクトしようと、その場に佇むばかりであった。



 その頃、苑内の職員室では教員たちが来たる乱れ太鼓のスケジュールにについて会議を行っていた。

 教室の黒板より半分ほどの大きさのホワイトボード。

 殴り書きだが丸さと硬さの強弱が見事で読みやすい字が、書くものの性格を表すように盤面に踊っている。

 それを音読してみると、『6月5日 第24回三年生総当たり乱れ太鼓』と見出しがあり、その後に続いて『要注意生徒』とある。

 さて、みなさんならここにどんな生徒の名前が書かれているかはもうお分かりだろう。


「今年の三年生要注意生徒。……まぁ、つまり問題児です」


 トットッとボードペンの先をぶつけながら書くのは、【帆村エンジ】の名。

 その場にいた教師たちがみな一斉に無言で頷いた。


「満場一致のようですね。伝承十二紋刀【申】の所有家系であり、同時に炎殲院の次期頭首でもある帆村エンジ。なにが問題なのかというと……」


 ホワイトボードの脇に立ち、進行役も請け負っているこの教師はやや分厚い唇をたわわに動かしてはキリリとした落ち着いた語調で教師たちを見渡した。

 赤いジャージズボンにスポーツ用のぴっちりとしたシャツは体のラインがしっかりと出ており、彼女を注視する教師たちが必ずしも真剣に話を聞いているのではなく、真剣に彼女の裸体を想像しているのは容易に想像がつくだろう。

 首からぶら下げた笛が揺れる度、大きな胸にたびたび乗っかり、かと思えばトランポリンのように弾んではまた落ちる。


 彼女が弁に熱を帯びる度にそんな様子が見られるので、つい参加している教師たちは熱のこもった質問をしてしまい、なんとやる気のある教師なのかと周囲に誤解を与えてしまう。

 無防備な美人ほど、ありがた迷惑なものはないのだ。


「伝承使いのくせに抜刀できないことであります!」


 そんな下心と熱意を飽和させたままの男性教師がたまらずに発言した。

「さすが角田先生。よくお分かりですね」


 おい、誰かと思えば角田教師ではないか。


 角田教師を褒めた女教師は、ご褒美とばかりに皆が望む熱意を持ってそれについて熱弁をふるう。


「そうです! この帆村エンジという生徒は学苑始まって以来の特殊なケースの問題児です。素行も当たり前のように悪く、学苑の外を歩けば6歩ごとに喧嘩沙汰。

 抜刀しないのが救いで、辛うじて法に触れる事態にはなっていませんが……それも時間の問題かと。

 学苑に在学中に問題が起こればそれこそ我が苑の信用問題に発展します。

 それだけに今回の乱れ太鼓……帆村エンジの存在は他の生徒にどう影響するか。

 それとも……本人自身が問題を起こすか。

 兎にも角にもこの生徒からは問題しか生まれないことは明らかです」


 ワンレンの髪が時折視界を遮るのか、度々手の甲でそれを直す姿が強い言葉とは裏腹に彼女の女性らしさを醸し出している。これがわざとでないのならば、天性の悪女の才があるか。わざとならばなんと計算高い女性なのか。


 いずれにせよ、彼女の感情が現れれば現れるほど愚かな男はデレリと鼻の下を地に落とすばかりなのだ。


「そこで今回の乱れ太鼓には例年にはないルールが必要なのではないか。みなさんはどう思われますか」


 肩にかかるほどの長さの髪を耳の後ろにかけ、これまたキリリと教師たちを睨んだ。


「他の問題生徒とわざと衝突させてみてはどうでしょう?」


 腹の出たぽっちゃり系教師が涼しい教室で汗を拭きながら提案をした。

 それを少し離れた場所から角田教師が舌打ちをして睨んでいる。なんと情けないことか。

「他の問題生徒と……ですか。それはいいですね。とてもいいアイデアです坂木先生」


「いやぁ……」


 ぽっちゃり系教師は顔を赤くして滝のような汗を噴き出していた。


「他に問題のある生徒……。そうですね、帆村エンジのことばかりで進んでいませんでした。みなさん、どうぞ仰ってください。丁度よいのでここに列挙してゆきましょう」


 次々と各教師から生徒の名前が挙がる。

 だがどの教師も口にする名前は似通っていた。


 やはり問題と思う生徒というのは、みな認識は同じであるらしい。では、どのような名前があがったのか、再び彼女の口を借りて聞いてみようではないか。


「佐々木小太郎……緋陀里弾(ひだり だん)……梶 ヒロ……北川ハーレイ……」


 女教師はハーレイの名を復唱した直後、腑に落ちない表情を見せたかと思うともう一度「北川ハーレイ……」と自らが口にした名を確かめた。


「北川ハーレイといえば、確かスウェーデンとのハーフの生徒ですよね? 何度か見かけたことがありますが、彼のどこに問題が?

 物静かで常識をわきまえていそうな生徒かと感じたのですが」


 思ったことをそのまま口にした女教師が、厚い唇をぺろりと舐め潤いを戻す。


「はい、おっしゃる通り彼自身にはなんの問題もありません。技術的なものを除いては凡そ優秀な生徒と言えます。

 ですが、外国人とのハーフという立場が彼を問題視とさせている所以なのです」


 突然語り手口調で飛び出した白衣の教師が横から入ってきた。


「悲しいかな士道の実力が平均よりも大幅に劣っています。終業合格ラインの下限スレスレといったところでしょうか。

 しかし一方で、士道を除いた身体的能力に於いてはかなりの水準を持っており、さすが体のつくりが我々と違うというか……とにかくずば抜けています。

 それだけにそのギャップが彼を苦しめ、それを見逃さない生徒がそこを攻撃しているようです。

 更にさきほども名前の出た佐々木小太郎が大の外国人嫌いで、ことあるごとに北川ハーレイに悶着をけしかけ、その感情が他の生徒にもシェアリングしているようですね。

 それに……帆村エンジと仲がいいのも要因かと」


「なるほど……」


「し、しかし! 乱れ太鼓に関しては帆村エンジと北川ハーレイは問題視しなくともいいのではないでしょーか!」


 突然立ち上がり叫んだのはおやおや角田教師である。

 誰もが耳を傾けないでおけないその発言に、おのずと注目が集まる。

 当然、かの女教師もその範疇である。


「と、いうのは?」


 興味ありげに角田教師に聞き返す彼女を見て角田教師は理想通りの反応に満足げに鼻の穴を広げて自慢げに胸を張る。ゴホン、と誰かが「調子に乗るな」と無言の合図を送ると、慌てて角田教師は続けた。


「帆村エンジはですね、その……あのデカい紋刀以外はてんで扱えない特異的な体質なんです!」


 ぴくり……と時が止まる。


「……え?」


「いえ、あの……だから、帆村エンジは戯刀や仮紋刀では並以下です。だから元々紋刀持参禁止のルールが原則としてある乱れ太鼓では、特に問題ないかと……」


「角田先生」


 分厚い唇で角田教師の名を呼んだ彼女に、角田教師は『今度はどんな褒美があるのか』と胸を躍らせて、顔も躍らせて次に続く言葉を待った。


「なんでそれを……」


「はい?」


「早く言わないんですかああああああっっ!!」


「うぎゃああああああーーーー」


 女教師の言葉を引き金に周囲の熱狂的な信者たちに角田教師は凄惨なリンチを受けた。

 合掌。



「とにかく! 帆村エンジや佐々木小太郎に筆頭三年生の座に居座らせません!! この杜永(もりなが) やしろの名に懸けて!」









【士道ノ拾二へ続く】

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