第5話 いっぱい勉強してみた
「お母様、花瓶の水を替えにきました」
「あら。ウィルフリッドがそんなことまで?」
「シャルルに無理を言って代わってもらいました。こうでもしないと部屋の中に入れませんから」
「あらあら。では以前、目を泣き腫らしてここへ来た時は相当追い込まれていたということね」
母は「私の侍女の名前まで覚えているのね」と優しく頭を撫でてくれた。
俺が初めて病気になった母の部屋に入ったのは俺が転生していると気づいた日だ。
きっとウィルフリッド君は限界を迎えたのだろう。
もしも、あそこで俺が覚醒しなければ彼はどうなっていたのだろうか。
不真面目さと横暴さに拍車がかかり、親の愛を認識できずに成長したり。
愛情を求めた末に婚約者殿を無理矢理に襲ったり、婚約者以外の娘と関係を持ったりしたのだろうか。
ブルブラック家の名前を傷つける行為だから、その身を犠牲にしながら復讐するつもりだったとか?
考えるだけでおぞましい。
やめだ、やめだ!
俺は聞きたいことがあって母の部屋を訪れているのだから、さっさと要件を終わらせよう。
「お母様は、その……ご病気が、えっと」
なんだこれ!?
口が思うように動かない。
次いで、心の扉が閉じる音が聞こえたような気がした。
ウィルフリッド君も俺も聞きたくないのだ。
母親に死期が迫っているのか。それがいつ頃なのか。病気は治らないのか。
俺の頭に置かれた手が重い。きっと脱力しているんだ。
もしかすると、持ち上げるのも辛いのかも。
「ま、魔術なら!」
何の脈絡もない発言に、母は微笑んで首を横に振った。
俺は母の手を取り、優しくベッドに置いて小さい手で包み込んだ。
「魔術が万能だったなら、私は自分で花瓶のお水を替えているわ」
「そんな……」
「運命だと受け入れているから平気よ。もう十分幸せにしてもらったわ。ウィルフリッドも最後に幸せだったと思えるような人生を歩んでちょうだいね」
そっと母の手を離し、花瓶を持って逃げるように部屋を出てしまった。
あのまま母の瞳を見続けていれば涙が溢れてきそうだったから。
目尻が熱くなるのはウィルフリッド君が母想いだからだ。俺にとって彼女は母ではないのだから泣く理由がない。そう自己暗示のように何度も呟いた。
それに別に今すぐに母が死ぬと決まったわけじゃない。
そう自分に言い聞かせることでようやく足が動いた。
それから俺は更に魔術について学ぶようになった。
この世界では魔術は誰にでも使うことができるわけではない。発動できるだけで優秀とされ、国に召し抱えてもらえるとか。
それでも魔術は万能ではなく、病気を治したり、死者を蘇らせることはできない。
だからこそ、病人に対しては薬草の知識を身につけた者が薬を調合することが一般的なのだが……。
これがまた考え方が偏っていて、そんなものは男が行うべきではないという思想が根強いらしい。
異世界転生を果たしている俺には関係のない話だ。
俺は我が身を守る可能性を高るために薬草や薬学について密かに学んでいるに過ぎない。
母が飲んでいる薬も見せてもらって効能を調べたし、薬売りのお姉さんから話も聞いた。しかし、これは全て自己満足であり、どれだけの努力を積み重ねても母の病気を治せるようにはなれないのだ。
今日もまた魔力を感じる修行を独学で行っていると、一人のメイドが封筒を持ってパタパタと届けてくれた。
「リュシーから?」
差出人の名前を確認すると同時に声を出すと、メイドがにんまりと笑っていた。
「ごほん。ありがとう。下がっていいよ」
丁寧にお辞儀をしてスキップしそうな勢いで退室するメイドさん。こんな風に接してくれるようになるまでには随分な時間がかかったなぁ、と懐かしみながら封筒を開封した。
中身はもちろん婚約者殿からの手紙だった。そこには先日の突然の来訪についての謝罪と近況が
お気に入りの紅茶を見つけた、面白い本に出会った、観劇してみたい、などなど。
そして最後には屋敷で飼っている猫が可愛いと。
とりとめのないことがびっしりと書かれていた。
危ない、危ない。
俺がこの世界の文字を学習していなければ、謎の暗号文の数々にめまいを起こしていたところだった。
これは返事を書いた方が良いのだろう。
ただ、これまでの人生で手紙を書いた経験がない。文通や交換日記などもっての外だ。
妹のリファや伯爵家に仕えてくれている教養のある侍女に教えてもらうのも手だが……。うーむ。
しばらく悩んだ末にペンと紙を取り出して机に向かう。
そこから更に書いては消してを何度も繰り返し、二日後に手紙と呼べなくもないものを完成させた。
この間、魔術と薬学の勉強時間を犠牲にした。
婚約者殿を悪く言うつもりはないが、手紙の執筆とは必要以上に労力と時間を要するものだと学べた。
きっとリューテシアも俺のために少なからず時間を割いたに違いない。
完成した手紙を封筒に入れて、「リューテシア子爵令嬢殿へ」とメイドに渡せば、いつかと同じようににんまりと笑われた。
他のメイドたちもこぞって集まり、頬を赤らめたり、胸に手を当てたりと様々な表情を見せた。
「えっと、なに?」
「失礼いたしました。あまりにも坊ちゃんのお顔が愛らしくて」
ばっと顔を背け、両頬を叩く。
ぱんっと乾いた音が鳴り響き、頬が熱を帯びた。
「二日かけた。必ず婚約者殿に渡すように伝えてくれ」
このままでは格好がつかないと、小さい体なりに凄んだつもりだ。
しかし、メイドたちはキャーと黄色い声を上げながら頭を下げて「命に変えても!」と大袈裟なことを言い始めた。
「え、内容……? 言えるわけないだろ。さっさと仕事に戻ってよ」
まったく。誰が彼女たちを雇ったんだか。
悪い子たちではないけれど、年頃の娘に変わりはない。
一時期と比べて俺に怯える様子はなくなり、態度も砕けてきたように思える。
父や執事長、侍女たちが居ない場所では、こうして分け隔てない接し方をしてくれるのは素直に嬉しい。
主従の関係としては不適切なのかもしれないが、俺は気にしないし、そっちの方が気疲れしない
ただ、節度ある距離を保たなければ、と気を引き締め直したのも事実だ。
俺は簡単に破滅するわけにはいかないのだからな。
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