第19話

 ……タクシーの無線であろうか、常にやりとりがあるわけではなく、時々『ジジ……』というアナログな前振りをしてから、会話が始まる。それは会話というよりは、報告といったほうが正しいかもしれない。

『え~○×町、不審車両あり。照合願います。ナンバーは……』

 ジジ、

『はい。白のセダン……クラウン、……届出ありますか』

 ……これは……警察の無線通話だ。

 キニCはPCで、パスタの進行具合をモニターしながら、警察無線を盗聴している。

「まっこと、いつ聴いてもあきやせんすなぁ。この稼業やってて良かったと思う数少ない瞬間でありんすな」

 キニCは、グラスを水滴で人差し指のなぞり道を作り、遊びながら独り、可笑しそうにつぶやいた。

「このオーダーが無事に終わったら、成田屋の芝居でも観に行きたいんすなぁ。海老様会いた~い……」

 半分瞼を下ろした眼差しは、最高にセクシーな【男の魅力】を醸し出していた。これが噂に聞く“中性的な魅力”という奴であろうか。確実に女性にモテそうなのに、勿体ない事この上ないのである。 

 しかしこの警察無線、いったいどこから盗聴しているのだろうか。無線をかじっている人間ならば、もしかしたら造作もないことなのかもしれないが、ここは一つ考えてみようではないか。どこかにヒントがあったはずである。

 ……なるほど。シャラップが狭山とすり替わっていた時、警察車両の無線に細工をしていたのだ。ひょっとすると私は天才なのかもしれないが、私の潜在能力についてはどうぞご内密にしていただきたい。ともかく、すでにトラップは張り終えているようだ。

 カラン、と喉の乾く音で氷が控えめに歌った。

「梅酒が飲みたいでありんすなぁ。けどここは甘い酒よりも……」

 キニCが抹茶カクテルを飲み干すと、手を上げてウェイトレスを呼ぶ。

「すまないね、久保田の萬寿はあるかな?」

 だだだ誰だこれ!

「はい、ございますが」

「ほお、バーだから日本酒なんて置いてないと思って意地悪なオーダーしたつもりだったんだけど……。さすがプレイアローの一等地に店を構えてるだけあるね。じゃあ、その“イジワルなお酒”貰えるかな」

「は、はい……かしこまりました、すぐに!」

 ちゃ、ちゃんと喋れるだなんて私は聞いていない! そういう情報は前もって私には開示してもらわないと困るではないか! しかもなんだ!? 今のウェイトレスの反応は!!

「“イジワルなオーダー”……、我ながら上手く例えたもんでありんすなぁ、わっちも」

 キニC=お菊は、私に状況描写をさせないほどに動揺させると、眼鏡のレンズを手でこめかみまで上げると、肉眼で画面を見詰めた。







 ――21:55. ピンクサファイア(クラブカテジナ)

 賑やかなホステスと客との会話が、高く上げたボールをまた高く打ち返すようなリズムで、店内のBGMと色彩にピリリと甘いスパイスを与えていた。そう、ソースで例えるならスィートチリソースのような空間だ。口の中に入れた時は、その甘さに幸福を感じるが、少し遅れて悪戯な唐辛子が舌に刺激を与えて逃げる。そんな少しだけ、スリリングさを感じさせるが、居心地のいい空間。もちろん、このスィートチリソースを掛けられているのはTOHGEだ。たっぷりとこの甘辛いソースをつけて、TOHGEを食べるのは一体誰なのだろうか。それをじっくりとここでお答えしようではないか。

「まもなくショーです。今日は織姫ママのソロダンスショーですから、見応えありますよー! 普段は滅多に最初から最後までママが一人でパフォーマンスすることはないですから」

 TOHGEの隣であみが自分のことを話すように、嬉しそうに笑った。

 織姫のいない間の小一時間は、TOHGEにとって長いものになるのではないかと危惧していた。だが、あみの接客サービスが一流であったおかげで、退屈せずに済んだことにTOHGEは、少しだけ名残惜しさも感じていた。実際、あみに言われて今が22時まであと5分を切っていることを知ったのだ。

「マジで!? もうそんな時間なの!? 本気で今度は君を目当てに来ようかな」

「お上手ですねっ」

 まんざらでもない様子であみは、口元に手をあてて笑った。その上品さを見え隠れさせるところと、見た目のギャップが男心をくすぐる。

「お客様からお金を頂いて、お給料が出ている訳ですから、それに相当する幸福感と満足感を持って帰って貰えるように、いつも頑張ってるんですけど、道のりは険しいですね。

 奥が深いと思います、この仕事」

 そこまで言うとあみは思い出したように「ママの頼みだったらなんでも聞いちゃえるってのもあるんですけどね」と付け足した。

 TOHGEは、ウィスキーの水割りを溶ける氷の水で薄まるのを待って、グラスをぐらぐらとジャグリングっぽく回す。それを微笑ましく見るあみに気づくと、少し恥ずかしそうにテーブルに置いた。そんなTOHGEの恥じらいを察したのか、店内の照明が急に暗くフェードアウトする。同時に店内のBGMも鳴り止んだ。

「TOHGEさん、始まりますよ。ママのショー」

「え、ああ……」

 思わずTOHGEも息を飲む。少しして暗闇の店内にカイリー・ミノーグの『ノー・シークレット』のイントロが流れ始めた。真っ暗になった視界の中央に急に光の球が現れた。

 この照明をTOHGEは職業柄よく知っている。スポットライトだ。その中央に乳白色の光で照らされたステージはただ、バックのカーテンを照らしているのみであった。スポットライトはおもむろに赤からピンク、ピンクから黄、黄から青へと光のグラデーションを演出する。

 カイリーのキュートなヴォーカルがステレオから小さな店内の端々へ弾け飛ぶ。そのテンポに合わせるようにスポットは、光のダンスを演出し続ける。

 そして、一瞬の時だが再びステージを照らすスポットが消え、暗黒をもたらした。誰もがその一瞬、状況を飲み込めなくなるかならないかの判断を脳がする、合間の時。恐らくそれが刹那的というのだろう。だが、その刹那を再び照らしたスポットが吹き飛ばした。

 再びの光に照らされたのは、バニーガールの格好をした織姫の姿であった。

 これにはさすがの私も言葉を失ったが、言葉を失ったのはなにもここにいるはずのない織姫が登場したからではない。バニーガールの黒いレオタードで露わになった、見事なプロポーション。眩いばかりの笑顔、スラリと伸びた両足を拘束するような網タイツが、それを見る男たちを檻のフェンスから眺める地平線かと誤解させた。

 届かない自由な地、その空の色、大地の色、緑の色、全ての色彩が囚人にとっての憧れであるように、織姫の足、くびれ、胸、腕、首、表情、髪、そしてうさたんの耳。

 突然に現れたがゆえに、彼らの【男】を突然かっさらっていく。

 それに一番中(あ)てられたのは、それを真正面から目撃したTOHGEであることは言わずともご理解頂けたろうと思う。スターアイドルとして、現在も第一線を走るその道のプロであるTOHGEが、あろうことか小さな繁華街の小さな店の女性のステージに心を奪われたのだ。

 カイリーの歌声に乗って、小気味の良いステップと、手に持ったスティックで織姫は踊る。それはお世辞にもテクニックを要するようなダンスではなかったが、それをカヴァーしても余りあるほどのチャーミングさで、場を魅了している。BGMは『ノー・シークレット』から『ロコモーション』へと変わり、本来【安い】コスチュームだと言われがちなバニーガール姿に身を包んだ織姫は、今度は文字通りまるで【うさぎ】のような軽妙なステップで、ぴょんぴょんと飛び跳ねると店内の客に笑顔を振り撒いた。

 誰もが(今、自分と目が合った。今、自分に向かって笑った)と、調子に乗るその立ち振る舞いに、当のTOHGEもまんまと嵌る。『ロコモーション』のサビの終わりと共に、スポットが落ち再び織姫は暗闇へと消えた。

 私がアリスであるなら、間違いなく暗闇を手探りで踊り、そのうさぎを探しては店の柱に鼻頭をぶつけて、床をパートナーに情熱的なラテンダンスを踊っていただろう。

 要するには私も確実に織姫が笑顔を振り撒いた際、(あ、今私に笑ったな)と思ってしまったクチであるということは、諸兄方だけに明かす秘密である。

 ゆっくりとフェードインする赤いスポットと同時に、バクダットカフェのテーマである『コーリングユー』がバックを飾り始める。そこに赤く、照らされるのは当然、織姫。だが再度ステージに照らされた織姫の姿は、バニーガールではなく、赤のスポットで色こそよく分からないが、着崩した着物姿でその場に上半身を持ち上げて横たえていた。先ほどのキュートな笑顔はどこへやら、じっと遠くの床を眺めているような視線を、ゆっくりと逆の方向へと流し、それに同調するようにスポットの色はオレンジへと変わる。決して客席を見ることなく、ゆっくり、ゆっくりと目線を泳がせては、スポットの色を変えてゆく。

 ダンスではなく、まるで芝居を観ているかのような気分になってゆく。口が半開きになっているTOHGEの顔が、その感情に包まれているのが私だけではないことを証明している。織姫は、最初から着崩している着物の肩をおもむろにずらし、ついには右肩がまるっと露わになった。さらに、もう片方の肩に寄り掛かった着物を右手でずらしていく。妖艶なBGMの中でも『ごくり』という生唾を飲む音が聞こえてきそうだった。というよりも、聞こえた。当然といえば、当然であろう。なにしろその生唾の主は、他ならぬ私であるのだから。重力に負けて、上半身の着物が地面へ向かって落ちる。それすらもスローモーションに見えてしまうほどの、ゆっくりと忙しい時の流れだった。そして、両方の乳房がなんの恥じらいもなく露わになり、それと同時にスポットの光が元の乳白色に変わる。その乳房の突起の色でさえも鮮やかに照らすスポットは、観ている者に罪悪感を与えてしまうような魔性の光であった。

 上半身になにも纏わなくなり、拷問のように光を浴びた織姫は、それまで観客を逸らし続けた瞳を、観客へと睨みつけた。辱めを受けている体と、凛としたその瞳のギャップが観る者を地獄へ、はたまた極楽へと陥れる。だが、自分の墜落する地が地獄であろうと、極楽であろうと、その興味すらも奪う色欲の狂気がそこにあったのだ。誰もがその狂気に満ちた美しさを持つ怪物と目が合った瞬間だった。絶妙なタイミングでまた照明が落ち、闇が彼らの心を落ち着かせたのだ。誰もが、その瞬間に我に返り、再び自我を取り戻し始めた。その瞬間を見計らっていたかのように、……いや最早それすらも計算であろう。

 今度は、『いたずらシャルロット』のテーマである『Sara Perce Ti Amo』がレモンの汁を目に飛ばすかのように、刺激的なテンポで心臓を掴む。

 どこから現れたのか、スポットに照らされたステージの中央には一本のポールと、それを愛人のそれのように絡みつく、一糸纏わぬ姿の織姫。窒息しないように、深呼吸の間を与えてからの、このインパクトである。この国が男だけで構成され、更に国民にこのショーを見る義務がもしもあったとするならば、確実に数人の死者が出るであろう。もちろん死因は、窒息による心拍停止である。

 そして、繰り広げられるのは、冒頭で見せたキュートなバニーダンスでも、さきほどの妖艶な舞台でもなく、激しく切れのある、超一級のポールダンス。アクロバティックな技に頼ることなく、まるで生き物……いや、そのポールすら人間に見えるほどの躍動感を持って、観る者の許容を奪っていく。既に器から溢れ零れている。

  しかし、正気を保っていなければならない立場なので、我を奮い立たせて語らせて頂くが、……この織姫が何者なのか?パスタであるのならば、どういうトリックか?

 確かに「なんでもできるのがボスなんだよ」と彼は言っていたが、いくらきゃりぃの腕がいいからといって、偽物の乳房を胸に施し、こんなにも激しいポールダンスが出来るものであろうか?普通に考えれば、ポールで回転した拍子に吹っ飛び、その辺の壁と客の顔に生々しい乳房が張り付くという、滑稽ながら恐ろしい地獄絵図が想像できるというものだ。

しかも、この股間……失敬。男性器がこんなにも見事に隠し切れるものなのだろうか?

 ……はっ、解いてしまった。パスタは、性転換手術を既に終了した本物のニューハーフであったのだ! 我ながら今日は冴えているではないか。

  私がホームズも地団駄を踏んで悔しがる推理を披露している内に、店内がまた暗くなった。どうやらショーは終わったらしい。ゆっくりと店内は平常通りのムードに戻った。

 TOHGEは半開きの口に気づき、口元を右手の掌で隠し、口を締めた。そして掌の中で、TOHGEの口元は笑っていた。父親の物であるマリーをいくら自分の物にしようとしても、叶う願いではない。だが、この織姫はどうだ。マリーよりホステスとしては少々劣るのかもしれないが、それをカバーしても余りあるほどのバイタリティとポテンシャルを秘めている。その一端をたった今垣間見た。

 ――この女が欲しい。

 TOHGEは、ついに本気でそう思った。そういった感情が入り混じった笑いであったのだろう。その笑顔は、『バットマン』でのジャックニコルソン演じるジョーカーのようにシニカルではなく、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジョニー・デップのようにニヒリズムに富んだものでもない。例えるのならばそう、『オーシャンズ11』のアンディ・ガルシアが一番近いかもしれない。眼光は、欲しいもの一点を見詰めておきながらも、カードの種類を選ばない荒々しさが背中から溢れ出る。権力者のみが持つ特異な煙。その類のものがTOHGEからも漂っているようだった。


 ステージの袖から全裸の織姫が掃けてきた。ウェイターがガウンを肩に掛けて「……です(お疲れ様です)」と声を掛けた。……ん、この言葉の頭の方がまるで聞こえない喋り方は……

「ありがとうレコーダ。こんなものでどうだったかな? 僕も中々やるだろ?」

 織姫はウェイターを“レコーダ”と呼び、感想を求めた。

 ……おや? “僕”……?

「……です。(レコーダ越しに喋ってないのに、レコーダと呼ばれるのは少し複雑な気分です)」

「そんな感想聞いてないんだけどね。ああ、そうだ。ここを収めたのが僕だってことはパスタには内緒にしておいてね」

 レコーダは無言で頷く。

「マフィア時代になんでもやっといて良かった。ポールダンスなんて日本でなんの役に立つんだと思ってたけど、……ふふ、役に立ったよ」

 ガウンの帯を結び、織姫の顔をした“オーナールージュ”は笑った。

「さて、メイクを落として僕は帰るとするよ。TOHGEが店を出た後はよろしくね」

 レコーダは、もう一度頷いた。

「そんな格好していたら普通の男なのにね。勿体ない」

「……ですから(普通の男のままだと、普通の男になんて相手にすらされないですから)」

「言うね」

 レコーダは、2,3度咳払いをするとオーナールージュに向かって、深くお辞儀をし、

「それではTOHGE様のところへ行ってまいります」

 と、“男の声”で言った。そう、TOHGEがカテジナに来店した際に応対したウェイターは、レコーダ(=きゃりぃ)なのだ。

「ああ、よろしく」

 下着を身に付けながらオーナールージュはレコーダの背中に言った。再び平穏が訪れた店内で、あみと先ほどの織姫のショーについて盛り上がるTOHGEにレコーダが訪れた。

「TOHGE様、織姫ママからの伝言です」

「ああ」

 TOHGEはレコーダに向き直ると、耳を傾けた。

「着替えが終わり次第、合流したいので下で待っていて欲しいとのことです」

「そう、ありがとう。じゃあ、チェックしておいて」

「かしこまりました」


 別れを惜しむあみに手を振り、TOHGEは外に出るとエレベーターで下に降り立った。これから織姫との夜を想像して、TOHGEの胸は柄にもなく踊る。

『♪』

 そんな心のステージでのタップダンスに水を差すように、携帯電話の呼び出し音が鳴った。

「……パパ?」

 着信の画面には、垰山の名が表示されていた。




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