第17話






 ――地域に力を 国に命を――

 そう大きなタスキで窓から垂らされている小さな3階建てのビル。周りは繁華街やビル群などではなく、どちらかといえば街の商店街沿いに建っている。少し控えめにビルの窓に張られた大きな文字を繋げて読んでみると、【垰山かつひこ】となる。

 そう、ここは垰山勝彦の事務所である。

 二日後に控えた知事選挙の準備の為、夜中の21時を大きく過ぎているというのに暗い窓はほとんどなく、忙しそうに右往左往する人影がいくつも見える。

「先生、大事な時期ですから今夜くらいはちゃんとおとなしくしていてくださいね」

 神経質そうにパソコンの画面を睨めっこをしながら角刈りのスーツ男が、キコキコと回転椅子を腰で廻して暇を持て余す垰山に言った。

「わかっておるわ。それもこれもあと数日の我慢だからな、いくらマリーに会いたくとも喜んでじっとしとるわい。……ようやく、私が知事になり国政に注文を付けれる立場になる。カジノ建設が成功すれば更に上のポストも狙えるからな、テレビで私を観ない日はなくなるぞ」

 右手に持った万年筆を女の尻を嘗め回すような目で見つめながら垰山はニタリと笑って自慢した。

「そんなことを言って、またこっそりと地下道からゴールドに行こうとしないでくださいよ」

 肩を押さえてコキ、と鳴らしたスーツ男は念を押す。

「そんなに心配するな。そんなことはせんよ」

 と眺めた万年筆を置いた。スーツ男が席を立ち、ファイルが並んだ棚に立ちなにかを探しながら、「心配しますよ。いつかみたいに急にいなくなって騒ぎになりにでもしたら、とてつもなく面倒なんですから」と心配を口にした。よほどこの垰山という男は部下にも信用されていないようである。

 がっはっは、と他人の心配を笑い飛ばした垰山は「すまん、すまん」と心の籠らない語調で言った。

「あの道は、私と先生以外の人間はその存在すらも知らないんですから……、もうちょっと慎重にご自分の立場をお考えください」

「だから分かったと言ってるだろう」

 探していたファイルが見つかったのか、スーツ男が一つのファイルを手に取るとペラペラとページをめくる。

「明日の演説まで嫌でも大人しくするわい。なんといっても明日は伊右衛門通りでの演説だからな。謂わばホームグラウンドだ。常山の目もあるから慎重に、そして大胆に行動せねばならん」

 キコキコ、という椅子の音を止めて机に両肘をつき垰山は深呼吸をした。スーツ男も「解ればいいんです」とでも言いたげに、ちらりと垰山を見ると再びファイルに目を落とした。

『垰山先生』

 垰山とスーツ男の二人がいる部屋にノックの後に、職務に追われている部下の呼ぶ声がした。

「なんだね?」

『警察の方が来られています』

「……!? なんだと!?」

 その招かざる客の訪問に垰山とスーツ男はその場で固まった。

  しかしすぐ垰山は、動揺を落ち着けて「なにも違反はしていない。心配するな」とスーツ男を窘める。スーツ男は、垰山のその言葉を聞くと一度だけ頷き、客の訪問に備える為にファイルをしまい、自らの席に再びついた。

「そうか。通してくれ」

『かしこまりました』

 少し経って、ドアの向こうで先ほどの部下が『どうぞ、こちらです』という声が微かに聞こえた。そして、ノックと『お通しします』とドアが開いた。

「これはこれは、刑事さん。職務お疲れ様です」

 演説やテレビで見せるいつもの笑顔とリアクションで訪れた刑事を迎え入れた。

「いえ、急な訪問で恐縮です」

 この刑事……見たことがある。荒崎の部下である狭山だ。狭山は、身分証を彼らに見せると、すぐにジャケットの内ポケットにしまった。

「それで、今日はどうされたので? この大事な時期に来られたということはなにかあったのですか?」

 ドアを開けた部下の去り際にお茶を頼み、垰山はさも自分は善人であるという主張を見え隠れさせる。

「はい。実はある情報を入手致しまして……」

 垰山がソファに向けて手を差し出し、【どうぞ】と腰を掛けることを勧めた。狭山は素直にそれに従い、腰を掛けた。

「ある情報、ですか?」

「はい。その情報というのは、今夜この事務所が襲撃されるというものです」

「襲撃!?」

 隣で聞いていたスーツ男が垰山の代わりに叫んだ。驚きのあまり声が裏返ってしまい、語尾がキジの鳴き声のようだった。垰山がスーツ男を睨むと、スーツ男は慌ててパソコンに向かった。

「襲撃……ですか? 些か話が飛躍してませんかね?」

 部下の持ってきた茶を啜り、垰山はその信憑性を問うた。

「ええ。信用しづらいのは承知ですが、ここ最近の過激派の件もあったのでこの事務所の近辺の無線電波などを監視していたところ、その過激派らしき人間のやりとりをキャッチしましてね。どうやら今夜、知事選前にここを襲撃するつもりのようなんです」

 半分冗談のつもりで聞いていた垰山は、少し真顔に戻り狭山に尋ねる。

「……なぜ今来られたんですか? その襲撃計画をキャッチしたのならばもっと早くに私のところへ来られたのでは?」

 尤もな質問は、垰山の顔が政治家であることを窺わせた。その眼光は、狭山に対する疑心であるようだ。

「情報の漏えいを防ぐ為です。言い訳になってしまうかもしれませんが、襲撃の情報をキャッチしたのは本日の18時でありました。

 そこで知らせても良かったのですが、襲撃計画の情報が流出したことが過激派に知られてしまってはその計画自体が中止になってしまいます」

「それのどこが悪いんだ?」

 眉間に皺を寄せ、片目を見開いて垰山は狭山を詰める。顔色も変えずに狭山は続けた。

「数日の間で過激派が行ったパフォーマンスは、今日における布石だったと睨んでいます。

 もしここで作戦が中止になれば、彼らは再び計画を練り直して貴方の知事当選を阻んでくることでしょう。知事選まであと二日、今夜の計画が中止になれば、計画が白紙になってしまった過激派はなりふり構わず、どんな阻止計画を実行するか分かりません。ですので、計画通りに襲撃に来た連中を一網打尽にし、組織自体をお縄にしようという作戦なのです」

 喉を鳴らす音に振り返ると、スーツ男が脂汗をかき目を爛々とさせている。構わず、狭山は続ける。 

「襲撃の決行時刻は22:15。今の時刻が21:20。

 このぎりぎりの時刻に訪問し、先生に知らせたのは先ほど申し上げた通り、情報の漏えいを徹底的に防ぐ為。そして、垰山先生の安全を確保する為です。どうかご理解ください」

「あ、あの……っ!」

 狭山がそこまで話し終えるとスーツ男が口を挟んできた。

「垰山先生の安全と……その、私達の安全は……?」

 震えながら手を妙な位置で固まらせながらスーツ男は、心配そうに尋ねた。

「ご安心ください。垰山先生には念の為にここから離れて頂くだけです。襲撃と同時に待機させている機動隊を突入させます。誰にも指一本触れさせずに確保できるでしょう」

「そ、そうですかぁ……」

 ほっと溜息を吐くと、スーツ男は腰を下ろした。

「そういった訳ですので、ここに私一人で参りました。申し訳ありませんが、私と同行して頂けますか」

「そういうことでしたら、仕方がありませんな。協力は惜しみませんよ」

 垰山は立ち上がると、狭山に連れられて部屋を出た。







 プレイアロー地下4階・クラブゴールド。煌びやかな電飾の光は、暗い地下を照らし、懐疑的に退化させたモグラを戒めているようだった。モグラとはここの客たちのこと。

 地上の光よりも地下で人の手によって作られた、人口の月と星を神の光だと盲信する信者。そこには全ての真実をぼやけさせる光と、全ての嘘の輪郭を隠す闇が共存している。夢から覚めて、夢の中に置き去りにされた夢の中の自分がモグラである。地上に居る、夢から覚めた自分はここではいないこととなっている、。それはなにも客ばかりではない。キャスト達も皆、同じだということだ。そこで働く目のないモグラが、同じモグラを癒そうとしている。だからこそ、この眩い光が彼らにとっては強烈すぎるのであろう。いうならば強烈な赤。強烈な黄。強烈な青。白と黒がこの世の2大原色ならば、その色彩はこの世に突如として現れた異端。誰もが、退化し光を認識しなくなったはずの、瞳を隠す瞼の裏にその色彩を焼き付けた。あるものは赤く焼き付け、あるものは黄色く焼き付け、そしてあるものは青く、焼き付けた。そうして、彼らの機能しなくなった瞳からほとばしる涙。夢の中の住人達が、自らをオリジナルであると自覚させる雫、覚醒させる光。日常は崩壊を始め、非日常がラストダンスを誘う。その存在を、モグラたちは尊敬と感謝と畏怖と軽蔑を込め、こう呼んだ。


 ――5億の女。


 マリーという夢の中の名を貰ったその女は、桃源郷に生った果汁の滴り落ちそうな美しくも食欲を誘う、桃の形をしたヒップをわざと揺らしてゴールドを歩いた。神とは、触れられないものである。それが女神であるならなおさらのことである。オーナールージュが地上の女神であるならば、マリーは地下の女神と表そうか。暗闇の中でこそ狂ったように光る彼女の存在は、女神故に触れることすら禁じられている。それはこのプレイアローの神である垰山の持ち物であるからである。5億で買われた女、その狂ったような金額で人生を買われた女は、作られた世界の作られた光によって、作られた女神として君臨している。彼女が通る道には、常に嫉妬と羨望の足跡を残した。

「5億の女だ」

「人生を売った女……」

「誰も触れらない、豪勢な飾り物」

 女神に投げかけられる言葉は、そんな嫉妬と羨望を含んだ暴言の類ばかりであった。

「一体誰から“5億で買われた”んだろうな」

 女神は自分が神なんかではなく、マリーという偽りの名をこの先の生涯、名乗って生きていく、ただの愚かな女だという自覚がある。その自覚が彼女が彼女自身を神格化させない唯一の手綱であった。自分の人生がすでに自分のものではなくなった瞬間、彼女は決意したのだ。これからの人生はただのおまけなのだと。神に器が必要ならば、自分はただの器である、と。綺麗に綺麗に、この世の財を惜しまずに創られた、ただの器。黒いドレスに身を包み、ヴァイオレットカラーに統一したマニキュア・グロス・アイシャドー。黒い髪には金色や銀色の装飾が散りばめられ、胸元には人工的な光を跳ね返す宝石。

 なるほど、落ち着いて眺めてみると確かにそれは、超常的なほど綺麗で美しい器なのかもしれない。彼女の立ち振る舞いからは、気品や艶めかしさを感じても、人間的な温かみが伝わらないからだ。それは、誇りの類ではないということだけはこの私にも理解ができた。彼女に触れれば火傷では済まない。あらゆる意味で死に至る。それを知るゴールドの人間は、誰も彼女に触れない。触れてはいけない。それはあの常山の息子・武虎でもそうだ。ただ一人、垰山の愚息であるTOHGEを除いては。

 さて、綺麗なものを語ればキリがない。品評会はこの辺で開くとして、ここで彼女が我々の前に現れたのはなにかしらの意味があるはずである。その桃をもう少し追ってみようではないか。 

「マリーさん」

  案の定、マリーを呼び止める声。我々の推測した通りである。どういうことか? その疑問に答えるには、マリーの振り向いた先を追ってみるのが一番最善であろう。

「貴方は……?」

「私はシルバーで働いている織姫といいます。TOHGE様からマリーさんを呼ぶように遣われまして」

 そう、マリーを呼び止めたのは甲斐谷との性に目覚めたはずの織姫である。……誤解はない。

「TOHGE様が……?」

「はい。なんでも、今日はお父様である垰山様は来られないそうなので、今夜は自分について欲しいとのことです」

「……。 何故ゴールドに直接来られないのかしら」

「……さぁ? 私には分かりません。ですが、会いたくない方がいらっしゃるからと」

 マリーの脳裏に武虎の顔がよぎった。

「そう。じゃあ、案内してくれる?」

「はい」

 武虎のことが苦手であるTOHGEが、まずシルバーで様子をみつつ自分を呼んだというのなら辻褄は合う。合う、が……。

「ここは?」

「こちらでお待ちです。どうぞ」

「VIP専用の個室だけど?」

「はい」

 怪訝に思いながら、織姫に誘導されてマリーは室内に入った。少し室内に進んだマリーは、ベッドに横たわる人影を見つけ、その顔を覗き込んだ。 

「……甲斐谷支配人!?」

  マリーがそう叫んだと同時に背後から口元を強引に押さえられた。

「……っ!!?」

 精いっぱい振りほどこうと足掻くがビクともしない。まるで大の男に抑えつけられているようだった。

 ……男だよーん! と言ってやりたいが、私にはそんな些細な願いすらも適わない。そして、すぐにマリーの意識は遠くへ遠くへと、泳ぎ去っていく。意識を失う直前に見たのは、猿ぐつわをされて眠る甲斐谷の顔だった。彼の隣で眠らされたのだ。ここからのめくるめく夜を想像するだけで、私はワイルドターキー1本くらいならアテなしで空けれそうである。しかしながら、ここからの展開は青少年に影響が考えられるので、この物語はここで終らせて頂こうと思う。残念ながら、ワイルドターキーと氷を準備して寛ぐ準備があるので申し訳ないが……

「さて、“ピンクサファイア”は上手くやってるかな」

 久しぶりに聞いた織姫ではなくパスタの声で私は我に返った。私はなんと愚かなことを考えていたのだろうか。ストレス溜まっていたのか、はたまた……割愛しよう。反省。ふと、見れば床には織姫の来ていたドレスやウィッグが散乱している。パスタはどこに行ったのだろうか。

すると背後からシャワーの音が聞こえた。

 ここから本当に描写してもいいものか悩む。







私のような立場は、実に都合が良く、得な役回りである。諸兄方に物語を語るに当たって、あらゆる場所、あらゆる時間に旅行できるのである。かの有名な革命的な映画『マトリックス』が人工的ではあるが、同時に存在する並行世界での定義がそれであるように、私もまたこの物語の中を自由に浮遊できる。『マトリックス』に於いては、並行世界を抜け、現実に戻った際、そこはあまりにも残酷な世界であった。その世界を夢に例えるのなら、夢から覚めた人間の目に映るのは、残酷なことばかりなのかもしれない。

 失敬。これはあくまでも夢の内容が“悪夢”であった場合での話である。

 さて、物語に再び目線を戻そう。

 今諸兄方と共に私が佇むのは、誰かの夢の中である。空や遠くに見える建物がぼやけており、やけにしっかり輪郭を描いた建物。……おや? ここは私達が依然にも訪れたことがある。少し後ずさりをして、この施設の名前を見てみよう。

【へいせい託児所】

 ……ここは、確かオーナールージュのもう一つの顔である、保母として勤めている施設ではなかったか。

 「ことぶき、たから」

 その声に振り返った先に、顔のぼやけた女性が2人の幼い兄妹にしゃがんで目線を合わせていた。ことぶき、たからと呼ばれた兄妹のシルエットはどの光景よりもはっきりとしており、まるで一眼レフの高価なカメラで撮影した、高解像度の写真のようだった。なるほど、この夢の主の思い入れが強ければ強いほど、この夢の中の輪郭ははっきりとするようだ。その点から推測するに、この兄妹に対して強烈な思いがあるようだ。

「ことぶきはお兄ちゃんだから、たからをちゃんと守ってあげてね」

「どこかいっちゃうのママ」

「うん。ちょっと、遠くにお仕事にいかなくちゃいけないの」

 妹のたからは、ずっと俯いている。子供心に母親が別れの言葉を言っていることに気づいているのだろうか。

「いつ帰ってくるの?」

「う~ん……分からない。でも、すぐには帰ってこれないの」

「えー! いやだ!」

「大丈夫よ。これからはこの【へいせい託児所】が2人のお家。ちゃんと、園長先生にもお願いしてあるから……ね」

 小さなたからは、母親がそこまで言うと、しゃがみ込んでいる彼女の背に強く抱き付いた。

「うー……!」

 その瞳には、涙をいっぱいに溜めて。頬を膨らませた。

「たから、大丈夫だよ! ママが帰ってくるまでお兄ちゃんと一緒に待ってようよ!」

 自分も涙をいっぱいに溜め、それを手で拭いながらたからを窘めた。

「いやっ! たから、ママと一緒にいるの!」

「たから! ママが困るじゃないか、お兄ちゃんと一緒なら平気だろ!?」

 本当ならばことぶきもたからがいなければ、わんわんと号泣して懇願していたであろう。

 しかし、兄としての使命感が幼い彼の中にも芽生えていた。それを見て理解する母親は、その成長に驚きと喜びを抱きつつも、それでも離れなくてはいけない現実に悲しみを隠し切れない。そのぼやけた顔に黒い点のような瞳からは、兄妹と同じように涙がつたっていた。 

「大丈夫! ママ、お仕事行ってきて! ことぶき、たからを守るから!」

 溢れる涙をごしごしと擦り、鼻水で言葉を詰まらせながらことぶきは母を安心させようと宣言した。

「ことぶき……たから……」

 たまらなくなったのか母親は、兄妹を両手で抱きしめると嗚咽を漏らしつつも泣いた。

「いつか、大人になったら……ママを買い戻して……お願い……」

「ママ―!」「ママーっ!」

 その施設の小さなグラウンドの真ん中で、その親子3人は身を寄せ合い、泣いた。


「……!」

 夢から覚めたマリーの瞳からは、涙が流れていた。自分の状況を理解する前にその涙を拭かなければと、腕を動かそうとしたが動かない。

「悪いな。ちょっと縛らせてもらったぜ」

 ウェイターと同じ、黒いスーツ姿に身を包んだパスタがマリーに言った。

「ん、んん……」

(貴方誰?)と、発しようとした口元は間抜けに漏れる声しか出なかった。

 猿ぐつわをされている。

「手荒い真似してすまないね。あんたに手伝ってもらわないといけないんでな」

「……?」

「“最低5億は持って帰れ”っていうオーダーなんでね」


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