第11話




 4月10日――。

 街は落としたアイスに群がる蟻のような人混みだった。さすがに前回の演説のことを踏まえて、警備は増員している。

「全く、またおんなじ演説すんだろ? 演説中に撃たれればいいのにな」

 Yシャツをぴったりと濡らした荒崎は、持っていたフェイスタオルで胸元の汗を拭きながら鬱陶しそうに言った。

「滅多なこと言わないでくださいよ荒崎さん」

 車内で缶コーヒーを飲みながら狭山は返す。

「……お前はそんな返事しかできねーのか」

 胸元を拭いて湿ったタオルを今度は口元に持っていき、その様子を見ていた狭山は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになる。

「そういや……」

 吹き出しそうになったコーヒーを堪え、なんとか喉に流した狭山の苦しそうな顔を視界のすれすれで見下ろしながら荒崎は「お前、そんな顔だったっけ?」と不思議そうに言った。

「はあ? なに言ってんですか! ……ちょっと旅行に行ってただけなのに人の顔を忘れるなんて。なんてデリカシーのない……」

 拗ねたように言葉の尾をこそこそと隠しながら小さく狭山は呟いた。どうやらこの狭山は本物の狭山であるようだ。さすがにどこにでもいるよくあるタイプの男。この私ですら前回シャラップがこの男とすり替わっていたことに気が付かなかった。荒崎という男の観察力はあながち馬鹿に出来ないものなのかもしれない。

 ……まあ、そういうことにしておいて欲しい。

「たくさんの応援、ありがとうございます!

 とはいっても、みなさん、お目当てはうちの息子ではないですよね?」

 どっと選挙カーの回りの群集が沸いた。典型的なベッドタウンの側面を強く持つこの駅では、前回と違い人通り自体は少ない。だが、どこから情報を入手したのか、前回のTOHGEが応援に駆け付けた時よりも多くの人がここに集まってきていた。つまり一番この光景に戸惑っているのはこの地元住民と、駅職員であろうことが容易に想像できよう。

 現在の選挙状況では垰山の当選はほぼ確実と言われている。なにもアイドルの息子を駆り出さなくともここから先は消化試合のようなもの。いい加減にやっても釣りが来るほど確実な結果が待っている。

「この22日の投票で全てが決まるのです! 私の掲げるカジノ計画を馬鹿な夢だと笑ってください! 無謀な政策だと罵ってください! 私は! その言葉を全て背負い、必ず実現しこの国の景気を復活させるきっかけになりたいと思っております!」

 相変わらずの持論を展開し、聴衆達の前でパフォーマンスを繰り広げる。トレードマークでもあるギョロリとした目を爛々と輝かせながら、さながらそれは灯台の光が夜に放つレーザービームのようでもあった。だが聴衆の期待するのは、謂わずともご理解頂けるとは思うが別のところにある。この垰山の演説に人が絶えないのは、いつ現れるか分からないTOHGEの応援を期待しているからである。 

 その群集の中に我々のよく知る人物の姿があった。

「あ! 荒崎さん、……荒崎さん!」

 その声に反応したのは、呼ばれている当の本人だ、キョロキョロと呼ばれた声の主を探している。

「荒崎さん! こっちこっち!」

 その声の主を見つけた荒崎の顔は、さきほどのムスッとした表情からは想像も出来ないほどの満面の笑みで応えた。

「あーっ! 織姫さん!」

 そう、我々のよく知る人物、それはこの物語の主役でありおかまでありパスタである、織姫である。群集のやや前の列で手を振る織姫に荒崎は手を拱き、『こっちへ来い』と意思表示をする。そのジェスチャーに応えるべく織姫は群集の最前列へと人混みを掻き分けながら向かった。

荒崎はというと、狭山になにか一言言ったかと思うと、ロータリーの道路を横断して織姫の元へと歩いてきた。

「よく来ましたね、織姫さん」

 ニコニコと笑う荒崎の姿は、汗でびっしょり濡れているおかげで日光が顔中から反射して仏の如き気持ちの悪さであった。

「ええ、なんとか。でも言っていた友達が急遽来れなくなってしまって……」

 眉をハの字にして持っていたシアンカラーのハンドバッグを胸元に抱き困った様子を荒崎に見せた。

「ええっ!? それは参りましたね! でもなんでそれなのに?」

 その荒崎の問いに織姫はわざと彼から視線を逸らしながら

「せっかく荒崎さんがリスクを覚悟で教えてくださった情報ですから……、私だけでも……」

 ドッキーン! おや? また小説にあるまじきコミカルな擬音が聞こえた気がしたが私の気のせいであろうか?

「ままま、参ったなぁ~、そんなつもりで教えたんじゃないですヨ~」

 参ったのはこっちである。なんという喋り方をするのか。

 荒崎はなにかに気づいたように肩を鳴らすと、後ろの警備を振り返り少しするとすぐに向き直った。

「織姫さん、ちょっと」

 荒崎はそういうと織姫の手を引いた。

「はい?」

 手に引かれるまま織姫は進入禁止のテープをくぐり、道路を渡る。

「折角ですんで、間近でTOHGEを激写してください! その来れなかったお友達にプレゼントしてあげてください!」

「え、ええっ!? そんなこと……大丈夫なんですか!?」

 荒崎は歯並びの悪い歯を見せて笑って見せた。

「モウマンタイですって!」

 織姫はクスリと笑った。この微笑みの意味するところはもうご理解頂いただろう。

「この方は垰山氏の事務所で働いている所員だ。急遽この場のリポートを頼まれたらしい。だから演説の間、ここに居てもらうからな」

 荒崎は狭山と数人の警官にそう告げた。その場所は荒崎が立っている場所、もっとも演説をよく見える最高のスポットであった。

「荒崎さん……」

 小声で隣に立つ荒崎に織姫は話しかけた。

「TOHGEが出てきたら好きなだけここから写真でもなんでも撮ってやってください!

 部下どもには説明してますんで大丈夫です!」

 再び荒崎は歯並びの悪い歯を見せた。次第に聴衆達がざわつき始める。どうやらその時がくる前兆を感じ取ったようだ。

「では、私の自慢の息子が応援に来てくれています! TOHGE!」

 満を持して呼ばれたTOHGEが演説カーを登って現れた。悲鳴とも断末魔ともつかない凄まじい声援に、TOHGEはマイクを持っていない方の手の小指で片方の耳を塞いだ。

「ははは、すっごいねー! これは全部パパに票を託してくれるみんなの声援なのかな?」

 再び絶叫が街にこだまする。

「織姫さん、今です」

 荒崎は空に槍を刺すような悲鳴を躱すように織姫に耳打ちをした。織姫は軽く一礼だけすると、スマートフォンを取り出し、カメラを起動した。何かを発言するたびに轟音を響かせる聴衆を煽るように話すTOHGE。さすがに現役のトップアイドルである。聴衆を喜ばせる術を心得ている。もしかしたら父親よりもよっぽど政治家向けなのかもしれない。そんなストロベリートークを展開させるTOHGEの視界に一人の女性が入った。

「お、織姫さん! もうちょっとだけ下がってください!」

 慌てて荒崎が織姫を引く。

「あっ! ご、ごめんなさい! つい夢中になっちゃって……!」

 荒崎は歯並(略)見せて、動揺していないことをアピールしつつも「ここまでだったら大丈夫ですよ」と限界ラインを指でジェスチャーした。

 TOHGEは相変わらず聴衆を玩具のように遊んでいるが、その視線はチラチラと織姫を見ている。

「そろそろTOHGEの演説が終わりそうですね、関係者じゃないことがバレない今の内に……」

 荒崎が織姫に耳打ちし、織姫は頷き荒崎の手を握った。

「本当にありがとうございました!」

 歯並(略)、荒崎は敬礼して見せた。

 「あの~おまわりさん」

 応援演説を終えたTOHGEが選挙カーから降りて荒崎を呼び止めた。だが【おまわりさん】という言葉にピンと来ていない荒崎は自分が呼ばれていることに気づいていない。それどころか小さくなっていく織姫の背中を眺めてにやにやとしている。実に不快である。

「あの泣きボクロのお姉さん、知り合い?」

 【泣きボクロ】という言葉にようやく反応した荒崎は「あァ゛!?」と威嚇するような返事で振り返った。そこに立つTOHGEを見て荒崎は実に美しい姿勢で気を付けの体勢を取る。無神経そうに見える荒崎もさすがに現役スーパーアイドルには気圧されているのだろうか。

「……はい! 織姫さんは伊衛門町のマドンナでありまして、その私の天使というかその!」

「ああ、うん。そうなんだ、織姫……ね」

 TOHGEは鼻の下あたりを人差し指で擦りながら荒崎と共に去っていく織姫の背中を見つめた。

「ふぅ……ん」

 正面から見た織姫が笑っていたことを、荒崎とTOHGEは知るはずもない。

「あれ? 荒崎さん何か聞こえませんか?」

「あァ!?」

 TOHGEに自分の恋路を邪魔されるかと危惧している荒崎は機嫌が悪そうに返事をした。狭山はそんな荒崎に付き合うこともなく、「なんだか軍歌みたいな音楽が……」と続ける。

「……ん、ああ」

 確かに聞き耳を立ててみれば遠くの方から微かに軍艦マーチのような音楽が聞こえてくる。

『カジノ建設反対―!』『はんたーい!』

 垰山の選挙カーを目がけて黒いバンがビルとビルの隙間から、さながらチーズを盗みにこっそりと現れるネズミのように警備に当たる警官が通行制限をしているすれすれのところまで来た。黒いバンは改造車らしく、スピーカーが幾つも屋根についており、選挙カーの看板のように施されたそれには“カジノ建設反対”、“垰山の独裁を許すな”と黒地に白抜きの手書きで力強く書かれてある。

「なんだなんだ!?」

「反対派の団体だ!」

「おいどんは怖いで候」

 突然の招かざる客に垰山を含め場内は一時騒然となる。

『峠山を知事にさせてはならない! 己の私利私欲の為のカジノ建設を許すな! 独裁政治はいらない!』

 とスピーカーを通して大声で叫ぶ。選挙演説のスピーカーのボリュームも相当大きいが、このバンから響く音は更に大きく、なにか発する度に言葉の途中から最後で音がバリバリと割れている。バックで流れる軍歌のようなBGMが更にその周り一帯を異様な空間にしているようだった。たまらず荒崎がそのバンに飛んでいく。

「おい! お前らなにしてるか分かってんのか!? こりゃ選挙妨害っていってだなぁ」

 荒崎が助手席のドアを叩きながら叫んだ。すると助手席のウィンドウが開き、黒いヘルメットに黒いサングラス、黒いマスクの黒装束の男が現れた。

「これは正当なデモだ! こんな政治が許されていいはずがない! あの垰山の悪事をここで暴露するのだ!」

 荒崎はその言葉を聞き、内心“難儀な奴が来た”と呟きつつも食って掛かる。

「正当なデモだぁ!? そんな報告は受けてねぇぞこっちは! いい加減なこと言うんじゃねぇよ!」

「お前ら国家の犬共の正当性ではない! 我が国のいち国民としての正当なデモだ!

 この権利は誰にも咎められない!」

 一歩も退かないと言った様子で黒い男は毅然と跳ね返す。垰山の演説は一時的に中断している。選挙カーの上で垰山は観衆に向かって「大丈夫です。私は屈しません」とか言っている。ここで見逃してはならないのが垰山の唇である。映画『南極物語』の高倉健ばりの震えっぷりである。もっとも、高倉健の唇は震えていないが。

「おいおいおいおい、大丈夫なの? あれ。俺これから収録あるんだけど」

 選挙カーの後ろでTOHGEがジャケットの襟を立てつつも不満を零す。

「すみません。落ち着くまでちょっとお待ちください。荒崎警部はああいうの得意ですから」

 狭山はよくある返しをよくあるタイミングで返した。駅前はざわざわと次第に集中力を無くしはじめている。お目当てであったTOHGEの応援が終わったのも一端であろう。ともかく、観衆の注目が黒いバンに向いてきている。

 これをマズイとばかりに垰山は世間話を始める。少しでも自分に注意を逸らしたいのだ。

 反対派の過激団を悪いイメージとして繋げる有権者は少なくない。出来るだけクリーンなイメージで貫きたい垰山としては寝耳に水の事態であった。

「とにかく、これ以上はやめろ! ここで退くなら大目に見といてやるから、今日は帰れ!」

 荒崎が軍歌に負けじと、大声で黒装束に叫んだ。少しの間があり、黒装束の男は一度だけ首を縦に振ると「今回だけだ」と捨て台詞を残して運転手に切り替えしを命じた。ゆっくりとした速度で背を向ける黒いバンに向けて『帰れ』コールが巻き起こる。どうやら民衆は、垰山の敵には着かなかったようだ。 

 だが、黒いバンが指先でつまめるほどに小さくなった時、なにかがこちらに投げられた。

 それは『カシャン』という瓶の割れる音と同時に接触したアスファルトの地面に炎をばら撒いた。

「みなさん! 危ないから下がって!」

 状況を理解した狭山が観衆にそう促した。だがそれを見て離れたところにいた荒崎の口が『馬鹿!』と言ったように動いた。

「うわあ! 火炎瓶だ!」

「過激派が爆弾を投げたぞ!」

「逃げろ!」

「おいどんは逃げごわす!」

 安全を優先しようと言った狭山の迂闊な一言が場内をパニックにしてしまった。蜘蛛の子を散らすように我先にと逃げ惑う観衆。黒いバンはすっかり見えなくなっているというのに、その状況も分からずに逃げ惑っていく。垰山も近くの警官に誘導されて車内へと避難してその身を屈めている。

「なんなんだ!? なんで私にあんな過激派がつく? ……まさか……いや、そんなはずは」

 錯乱なのか動揺なのか、垰山は唐突な過激派の強襲にぶつぶつと独り言を呟く。大物気取りの政治家だが、その器は意外と庶民の茶碗程の大きさしかないのかもしれない。お茶漬けには不向きの、小さい茶碗だ。

「ちょ、ちょっと待てよ! 俺はこれから収録だし、怪我とかマズイんだって!

 来週はハリウッドから俺の番組にゲスト来るしさぁ! 誰かマジでなんとかしろよ!」

 同じような錯乱坊が居た。垰山の自慢の息子であるTOHGEだ。確かに垰山が自慢するのが分かる。それほどにこの親子のパニックっぷりはそっくりであるからだ。

 “自分に似ている”という点では文句なしに自慢の息子であろう。この出来事は、大々的に午後のニュースで取り上げられた。その記事が一面に大きく載っている新聞を、彼女は読んでいた。この物語の中で彼女と呼べる人間は少ない。ここでは、その彼女とは誰のことであるかお分かりだろうか。

赤井 千穂。またの名をオーナールージュ。

 だがどちらの名前も本当の名なのかどうかも怪しいものだ。だが、そんなことですらも曖昧にしてしまう魅惑の美女、いや、むしろ彼女の場合は魔女と形容した方が最も妥当だろう。まるでそれは全盛期であったニコール・キッドマンのようだ。あらゆる役をこなし、あらゆる演技を操り、あらゆる俳優と噂になった。そんな彼女を魔女と呼ばずになんと呼ぼう。だが、キッドマンは年齢を重ねすぎた。それゆえの魅力も確かにあるが、この物語で最も異様で幻想的な、そして最も危険な魔法を駆使するのが、この魔女・ルージュである。その魔女が第一声にどんな言葉を発するのか、非常に気になるところである。当然、魔女はなんでもお見通しなはずである。

「……シルシルミシルのスペシャルか……絶対に録画だね」

 なんでもお見通しで、ある。さて、魔女のいるこの空間はまた初めてお目見えする場所のようだ。よくよく見ると魔女の姿も我々の見たことのあるどれとも違う。男物のスーツを身にまとっているのだ。だが、それも素晴らしく見栄えのする姿であった。こうなると彼女は性別ですらも曖昧にしてしまう。

 “確定させない魔法”は徹底しているようだ。彼女を知れば知るほど、彼女という人間がどんどん曖昧になっていく。終いにはその存在すらも曖昧になり、我々の脳裏からも綺麗に逃げ去ってしまうのではないだろうか。そんな幻惑すら魔法として成立しそうな、そんな不思議な人物である。よく見ると新聞を読む彼女の背後にはアンティーク店などに時折見られる洋館風のデスク……というのだろうか。簡単にイメージして頂くのならば、社長室の社長机である。あれがもうすこし装飾を華やかにしたものだと思ってくれればいいかと思う。

 しかし、私が強調したいのはそこではなくその社長机よりも低い位置に人がいるということだ。

コロポックル? 

『BARマゼンタへようこそ メルヘン編』に突入するのではないかと内心複雑な気持ちになったが、どうやらそういうわけではないらしい。通常の成人男性ならば丁度腰より高いか低いかくらいの高さである机より低いところに居る人間。それはつまり突っ伏している体勢でいるということなのだ。もっと単純に言えば【土下座している】。ルージュはそんな床に頭を擦りつけている人物に脇目も振らずコーヒーを啜りながら新聞を眺めている。

「やっぱりこの事務所にもテレビって必要かなぁ? どう思う? えっと……日村さん、だっけ」

 日村と呼ばれた人物はルージュの問いに肩の痙攣で応える。随分と萎縮しきっているようだ。上から見る図ではこの人物が男性なのか女性なのかすら分からない。

「そのッ! あと3日だけ……ッ」

 声からするにどうやらこの人物は男のようだ。

「うん、その【あと3日】を3回聞いたんだよね。つまり次それを聞いたら12日待つことになる」

 会話をしているというのにルージュは一切その男を見ない。

「お願いッしますッ……!」

 カツン、という音が部屋に忍び込んだ。その音の主を探そうと男は垂れた頭を上げ、あたりを見回す。

「!!?」

  音の主は彼の顔のすぐ横で床に突き刺さったまま立つナイフであった。

「あの……これは……ッ?!」

 恐る恐る日村は尋ねた。少し間違えれば自分に刺さっていたかもしれなかったからだ。

「あ~、当たらなかった? それは残念。

 じゃあさ、日村さん。そこで死んでよ」

「へ?」

「3度は言わない。そこで死んでよ」

「……ッ!」

 さらりと新聞を読みながらルージュは日村に死を命じた。

 彼女が彼の顔を一度たりとも見ないので、こちらも彼の顔を拝む気になれない。

 そういった威圧感の種類も彼女の“魔法”であることに違いなかった。

「待ってもダメだし、脅かしてもダメなんでしょ。だったらチャラにしてあげるから死んでいいよ」

「ぃ……ぃゃ……だ」

「うちは十日七割(トナナ)。どんなブラックも貸すけどどこよりも暴利だ。知ってて借りたんだろ?」

 ルージュは表情を全く見せず、尚且つ我々の知るいつもの口調と寸分変わらずに話しているがその威圧感と場を支配する恐怖感は想像を絶するものであった。会話から察するにどうやら彼女は金融業……それも闇金融業をも営んでいると思われる。

「うちはねぇ、僕だけなんだよ従業員。普通はもっと強面のお兄さんとか雇うんだけどね。性に合わなくてさ。だけど知ってるかな? うちがなんでこの界隈で有名なのか」

「…………神隠し…………」

 じっくり間を設けながら呻くようにようやくその言葉を日村は口にした。

「そうだよ。まるで妖怪扱いだよね。でも、しょうがない、か。

 だってうちは僕しかいないのに不払いの連中はことごとく消えるんだ。噂にくらいなる」

 日村の頭を擦りつけていたその床にポタポタと水滴が零れている。それが涙なのか汗なのか、我々の知るところではなかった。 

 これから自らの身にどんなことが起こるのか、想像出来るはずもない。それだけに日村の脳裏にはあらゆる残酷な場面が次々と走り抜ける。精神を病むには充分なものであった。

「だからさ、君に最後の僕からの良心をプレゼントしてあげるよ。大量の血を撒き散らしてさ、ここで死んでよ」

 ガサ、という音と一緒に新聞のページをめくる。

「う、うぅ」

 そばで刺さったナイフを抜き、日村はルージュに向けて突進した。カメラワークは相も変わらずかれの尻から背ばかりを追っている。そんな趣味はないのであろうが、この彼の尻を追いかけるカメラワークは気づいてしまっているのだろう。彼の顔は見るに値しない、と。

「うあああああっ! 死ねぇえぇええ!!!」

 キュルキュルと座椅子のキャタピラーの回る音と、ガサ、という新聞紙の音が部屋の真ん中で腕組みをしている。突き出したナイフと腕を肩の上で躱し、持っていた新聞紙でその腕を巻いて固定している。振り返ることすらせずに暴徒と化した日村の攻撃を捉えたのだ。すかさず手首を逆にひねりナイフを奪うと日村の眼球すれすれに刃を突き付け言った。

「舐めると、死ぬよ」

 その後、日村がどうなったかは知るところではない。

 ただ、お気づきであろうか。物語の冒頭あたりでのパスタの独白で言った“昼間は保母で、夜は金貸し”の女。 

 それはこのオーナールージュその人だったのだ。どうやらパスタとルージュはただならぬ仲であることだけは間違いなかった。 

『セックス』

「…………」

『セックスしようよ。パスタ』

 壁になにかがぶつかり飛散する音。

『♪』

『照れてるの? 壮介』

「……なんでお前は俺が眠ろうとするタイミングで仕事と関係のない電話をしてくるんだ」

『欲求不満なんだよぉ~お』

 整理したい。

 今パスタと話している受話器の向こうの女性は、もしかして私が散々今、如何に恐ろしい存在であるかを延々と謳ったオーナールージュであると考えていいのだろうか。こんなにも求愛する絶世の美女を相手になぜパスタはチョリソーをナニしないのであろうか。

 全く理解に苦しむばかりである。仮に私がパスタであったならば……割愛しよう。

『未遂で終わったのが消化不良なんだよね! 今回の仕事ってほら規模が大きいじゃない?最悪シアンのメンバーの誰か死んじゃうかもだし、それが壮介とも限らないじゃないか。だから思い出』

 壁になにかがぶつかり飛散する音。音の行方を辿るにどうやらいつも同じ場所を目がけて携帯を投げつけているようだ。

『♪』

「もう寝る。おやすみ」

『寝るって、常にレム睡眠のくせに~! なんでそんなに僕を嫌がるんだい!? 傷つくじゃないか!』

 壁になにかがぶつかり飛散する音。今回は早かった。怒鳴り声になってしまいそうな語調を抑えながらパスタは噛みしめるように言った。

「お前が男だからだよ……ッ!!」


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