第10話



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オペレーション・タイガー

 







映画『フェイス・オフ』をご存じだろうか。

 

 監督はジョン・ウー。『狼たちの挽歌』シリーズで既に香港映画界では著名な人物であったが、本格的なハリウッド進出後の出世作として今作は語られることが多い。後に『ミッションインポッシブル2』、『レッドクリフ』で再度注目を浴びるが、ハリウッドでの映画で成功した作品として監督自身が思い入れを語っている。

 そんな『フェイス・オフ』の内容だが、ジャンルはクライムアクション。クライム物とは言っているが、あくまで善と悪の両面から描かれる点で稀有な作品ともいえよう。というのも、ジョン・トラヴォルタ演じる捜査官が執念の追随の末に宿敵であったニコラス・ケイジ演じるマフィアのボスを捉えることに成功したのだ。

 だが、激しい逃走劇の末にボスは生きて捉えることが出来たが意識不明の重体で昏睡状態。組織の図式を自白させることも出来ずにただ彼が目を覚ますのを待つばかりであった。

 そんな中、マフィアが画策する細菌計画が浮上。ボスが不在な今、実の弟がその全権を握り困ったことに弟は世界で兄のいうことしか聞き入れないという。ボスは昏睡状態で、捉えられていることすら極秘情報で誰も知らない。

 そこである作戦が提案される。昏睡状態のボスの顔の皮を剥ぎ、一時的にボスになりすまし組織内の弟から情報を聞き出し、あわよくば阻止出来はしないか。時間が急を要する中、選択せざるを得なかった捜査官は憎き宿敵であるボスの顔を自分の顔に移植し、潜入捜査を開始することとなった。だが、彼が潜入捜査に着手してまもなく、昏睡状態であった顔を失ったボスが意識を取り戻す。そして、その傍らには捜査官が任務完了したのちに戻すはずの顔の皮……。劇中で善と悪の顔が入れ替わってしまい、ジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジの一人二役が特に評価されたが、特筆するはそのテーマであろう。

 顔が入れ替わってしまうだけで、人生が入れ替わってしまう。

 その後、自分の顔を持つボスによって同僚を皆殺しにされ、主犯格として投獄されたボスの顔を持つ捜査官は決死の脱獄と、自分を取り戻す戦いを挑むのだが……。

 ここまでのあらすじを知って頂いたが、どうだろう。

 思わず考えてしまわないだろうか。誰かと自分の人生が入れ替わったら。いや、顔を変えるだけで違う人生になったら……。

 では、それにあたる人物にスポットをあててみよう。先に言っておくが、これはパスタではない。彼は顔を操れるのだ。男の自分と、女の自分を。だが、次頁で紹介する人物は違う。“人生を買われた”のだ――。

 失敬ながら訂正させてもらおう。顔を変えるだけで違う人生になったのではなく、“人生が変わったので顔が変わった“のである。プレイアロー地下3階のクラブフロアで働く黒服やキャスト、にウェイター。そして、客に至るまで知らない者はいないと言えるほどの有名人がここにはいる。

 その名は“マリー”。

 諸兄方にはもうお馴染みであろう。あの絶世の美を持つ女史である。……いささか例えが回りくどいようなので訂正しよう。クラブゴールドのナンバー1ホステス、である。だが、彼女を知る人間はそれとは別の名で物陰から彼女を呼ぶ。

 そのもうひとつの名を、【5億の女】。

 垰山から特に寵愛を受け、彼女は5億という巨大な金額でその人生を買われたのだ。その事実は隠されることもなく広められ、ゴールドに縁のある人間ならば誰でも知るところとなった。それが垰山の張った見えない有刺鉄線である。しかも電流付きだ。

 少しでも彼女に触れようものならば、たちまち切り傷と電熱による火傷、それよりも恐ろしいのは感電による死だろう。ここで私が言う【死】とは、何を意味するかは諸兄方々のご想像にお任せしたい。垰山の言う“最高傑作”とは、垰山のお膳立てた彼女の人生のことを言っているのか。それとも、垰山の買った人生がそうなのか。はたまた……。

 ともあれ、黄昏と憂い流し目が色情という感覚を下品だとさえ誤解させてしまう佇まいを持つ、【5億の女】マリーのその姿を一緒に眺めて見ようではないか。

 どこからか乾いた音が2度、鳴った。

 少ししてもう一度、同じ音が2度。この一室はどこであろうか。よくテレビなどで拝見する成功者の住む高級マンションにも見える。人が住むには出来すぎたシャンデリアのような電灯、大きなソファ、キッチンらしき場所はキッチンというよりもバーのカウンターのようだ。そこにはたくさんのビンが合唱団の列のように並んでいる。眺めていると今にも歌いだしそうだ。大きなテレビの前にアンティーク風のロッキンチェアーが揺れている。

 全体的にベージュで包まれたその室内に篭ったような男の声がどこから聞こえた。

「マリー。なにか必要なものはありますか」

 この声はどうやら先ほどの乾いた音のほうから聞こえているようだ。しかしその声に対しての反応はない。

 再度、乾いた音。

 扉を拳の裏で叩く、ノックであったようだ。

「マリー? 眠っているんですか?」

 ギシ、という少し大きな音の次に雲雀のような甲高い声がようやくそれに応えた。

「ああ、ごめんなさい。眠っていたわ。大丈夫、なにもいらない」

 ロッキンチェアーに揺られていたのはマリー本人だった。この部屋はマリーの部屋だった。

「そうですか。ではまたなにかあれば呼んでください」

「ええ、ありがとう」

 扉の向こうで足音が去っていく。マリーが眠りから覚めたところで彼女の顔を正面から拝むとしよう。

「・・・・・・」

 マリーはなにか思いつめたような表情をしていた。その神妙な面持ちですら、声をかけたくなるほどの空気を持っていた。出勤前なのか、化粧はほとんどしていない。それでも張りのある艶やかな肌は、室内の光を跳ね返し、彼女自身が輝きを纏っている幻すらも肩に張り付いている。

 5億の女・・・・・・。それは5億で作り上げられたのか、それとも5億の価値があったから買われたのか。真相を知るものは、ごく限られている。だが、当の本人はどうなのだろうか。残念ながら彼女の心の声までは聞こえはしなかった。

 しかし、その思い詰めた表情と、彼女が見詰めるスマートフォンの画面。誰もが今の彼女を見て幸福そうだとは言えないような表情。それを確定するかのようにマリーは深いため息をついた。 

 ここは地下4階の一角にあるマリー専用の部屋。ここで彼女は暮らしている。5億の女は、なに不自由のない生活と引き換えに、外への自由を奪われたのだ。さながらそれはクッパ大王に捕らえられ、マリオの助けを待つピーチ姫のようであった。彼女をピーチ姫に例えるのならば、クッパ大王は誰か?助けにくるマリオは誰か?

 マリーはまた一つ、深い深いため息をついた。部屋着の胸元に、水溜りを二つ、作りながら。







 一方でマゼンタの面々は着々と準備を進めていた。

 某所にあるガレージにて真っ黒に汚れた軍手で溶接作業をするサチの姿があった。その傍らには一台の白いバン、なにやら色々と改造を施している。時折鳴り響く振動音や切断音、バチバチと溶接するバーナーの音が工具達が彼らなりのオーケストラを奏でているようだ。歯ブラシを咥えながらサチは設計図やパソコンの画面に移されている画像を交互に見ながら作業に一心不乱だ。手が止まりなにか思考しているときにはくわえた歯ブラシをゴシゴシとする。なるほど、この癖が由来で“ブラシ”と呼ばれているのか。と、いうことは他のマゼンタのメンバーも“シアン”のときの別名になにか由来があると思われる。

 ・・・・・・ニャンニャンとシャラップが深読みしなくとも理解できるが。

「ちょっとブラシ、そのゴシゴシ言う音、なんとかなりんせんのか」

 神経質そうに6面のディスプレイに向かうお菊がサチに投げる。手元には3つのキーボードがあり、とてつもないスピードで叩いている。いつもの着物ではなく、生地の薄い淡い紫の浴衣を捲くり、動きやすいように工夫している。そして、普段はかけていない黒縁のメガネを掛けて6つのディスプレイに次々と目を移している。

「また始まったっすね、その“気にしい”癖。同じ技術系だから解るっすけど、細かくないっすか?」

 ブラシは咥えた歯ブラシを片手で振りながらキニCに言う。

「少うしやめんし! わっちの着物にぬっしの露が飛ぶでありんしょ!」

 キニCはしきりに浴衣の裾や胸元の皺を直しながら、ブラシを叱った。 

「おーおー! 相変わらずの埃っぽさやねー! 毎度のことやけどこないなところにうちの一張羅持って来たくないんやけど」

 今度は明石家=シャラップが大きなトランクを持って現れる。後ろにはきゃりぃもいた。

「まことその通りでありんす。パソコンは精密機械、埃は大敵でありんすよ。もう一台空気清浄機を購入しなきゃなりんせん」

 イライラした様子のキニCはキョロキョロと挙動不審だった。

『35億もあれば空気清浄機なんて100台買えるから我慢しよ?』

 シャラップの後ろから録音した音声のような声が聞こえる。

その主はきゃりぃだった。手には小さなボイスレコーダが握られており、どうやら声はここから発せられたようだ。

「とりあえずうちはあんまり時間ないねん。“レコーダ”頼むわ」

 ガレージの端に置かれたメイク台の前に腰掛けるとシャラップはきゃりぃに言った。なるほど、きゃりぃのシアンでの名はレコーダというのだ。

 すぐにレコーダはぼそぼそとボイスレコーダに話すと、再生ボタンを押した。

『わかったわかった。で、今日は誰?』

 奇妙な会話の仕方である。一度自分の声を録音して、それを聞かせるといった手間のかかる手順でレコーダは話をしている。だが、マゼンタでの無口で声の小さなきゃりぃと比べると、その録音した会話の口調は明るい。

「誰ってあんた、うちの格好みて分かるやろ?」

 そう言ってシャラップは両手を広げて自分を主張した。シャラップの格好は紺のビジネススーツ。目立たないグレーのネクタイであった。

『あの刑事?』

「ああ、せや。あのよくあるタイプのよくある顔に頼むわ」

 レコーダは大げさにも思える大きなメイクボックスを開けると、その中には専門的なメイクツールが並んでいる。

 その中からいくつの道具を取り出すと早速シャラップのメイクに取り掛かった。

「情報収集ってのは分かるけど、いくらなんでも今回の刑事に化けてってのはちょっと無茶ちゃうか? もう走らせてもうてるから今更後には退けんけどや」

『ちょっと、シャラップ喋らないで』

「ああごめんごめん」

 レコーダの手によってみるみるうちにシャラップが別人の顔に仕上がっていく。彼の特殊メイクによって、作れない顔はない。これがシアンでの彼のスペシャルである。

 だが、このメイクは顔をコピーするものの、どんなに簡単な顔でも出来上がるのに3時間はかかり、一度それを施すと落とすのにも2時間かかる。当然だがこのメイクはあくまで“顔をコピーする”ものであって、声や体型などをコピーすることは出来ない。

 「ブラシ、あれ頼むで」

『喋らない』

 ブラシは「はいよ」とメイク台に小型のマイクのようなものを置いた。これは小型のボイスチェンジャーである。喋った声がそのまま違う人物の声になるのだ。こういう機械系の開発はブラシの仕事である。彼の専門は幅広く、小型の無線機から大きなものは車に至るまで、あらゆる機械系に精通しており、その技術力も舌を巻くほどだ。しかしそれだけでは、シャラップが【他人になりきれる】訳がない。そこで【他人になりきる仕上げ】となるのが、シャラップのスペシャル。

 彼の経歴を覗いてみると、そこには数々の国際的に著名な映画への出演歴が並ぶ。

 だが、役どころ自体はよくあるエクストラのそれであったが、実際には数ある有名監督に指名をされる実力派の役者だった。しかし、プライベートでの素行の悪さが災いし、手当り次第にオファーをブロックされその名を世界に広げることはなかった。知る人ぞ知る有名人であるが、現在は偽名であり尚且つニューハーフであるためにその素性が露わになることはなかった。とどの詰まり、シャラップのその演技力が加わることで、完全なダミーを作ることができる。

 それでは諸兄方にクイズタイムと洒落込むが、シャラップが化けている人物とは誰だろう? その解答は彼本人に聞いてみようと思う。

「あ~……なんやったっけ? そう、狭山やな。よくあるタイプのよくある顔のよくある性格の奴やから、化けるのに苦労はせんけど……。なんやうちらの立場が立場だけに、警察の人間に化けて潜入するんはしんどいねん」

『シャラップ、シャラップ!』

 これは“シャラップ、黙れ”という意味である。

「新婚旅行だった? その狭山とかいう人。丁度いいタイミングですり替われたよね」

 ブラシが歯ブラシを加えたまま“生絞りライチ”と書かれた乳白色のジュースが入ったペットボトルを喉を鳴らし飲んだ。鉄工作業をしているせいか、つなぎの作業着の首元は汗で黒く湿っている。

「ああ。でももうすぐ帰ってきよるから今度の4月10日やったっけ? あれがうちの化けて潜入できる最後やな」

『シャラップ』

 レコーダが特殊メイクに使っているのか、尖ったヘアピンをシャラップの頭頂のうず付近に刺した。「ふばちゃ!」という雑魚が絶命する際に発する悲鳴めいた声を上げて涙目で黙る。いよいよ水面下であるがシアンの面々がそれぞれの仕事を始めていた。

 「そういえばキニCさ、今日同伴だって言ってなかった?」

 火の粉から守るための鉄のマスクをガチャガチャと重苦しい音を立てて工具棚から出しながらブラシが何気なく言った。

「わ゛っ!」

 一瞬、なんの声か分からないような不思議な声で肩を鳴らしたキニCは反射的に時計を見た。その後のキニCの行動は想像に難しくないと思う。プロフェッショナルというものに対しての持論を展開するのが得意だったキニC=お菊にとってはそれは汚点といってもいいほどのミスであった。それをニヤニヤと厭らしい表情で見守るシアンの面々の愛情には頭が下がる思いである。



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