第8話

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トレーニング・デイ

 







映画『チャイナタウン』をご存知であろうか。

 ロマン・ポランスキーの最高傑作との呼び声も高い、若き日のジャック・ニコルソンの飄々とした演技が光る70年代フィルムノワールの代表格である。私立探偵である主人公が依頼されたのはある浮気調査。調査を進めていくうちに浮気調査のターゲットの殺害、依頼者である妻が実は名を騙った別人であったことが判明し、物語は急展開する。

 そこから浮き彫りになる水道利権がらみの争い。皮肉にも物語のラストは主人公が昔警官時代に担当していた『チャイナタウン』へと向かっていく。チャイナタウン、それは中国から流れてきた中国人達の集落のような町。ここではマフィアもギャングも警察ですらもただ傍観するしかない、異空間である。

 ただただ、立ち尽くし「チャイナタウン、ここはチャイナタウンだ」と呻く様に呟くジャック・ニコルソン演じる私立探偵が印象に残る名作である。

 ジャック・ニコルソンもその存在感で映画全体を特徴的に色彩を放っているが、この映画でその名をさらに広めることとなったフェイ・ダナウェイも忘れてはならない。怪しく、艶かしい、その女優の絵はこの映画を観たものの脳裏に焼きつくであろう。そして、衝撃的な顛末。ミステリアスな美女がラストに向けて徐々にその人間性を露出する時、観客はその女優に皆心を奪われるのだ。そういった点では往年の名シリーズである007シリーズ全作に於いても同様であるかもしれない。

 さて、紹介した『チャイナタウン』の主人公は探偵だが、貴方が読んでいるこの物語の主人公は残念ながらその真逆の存在である。だが、この物語にもヒロインが必要だとは思いはしないだろうか? 当然、ハードボイルドを謳っている物語だ。

 ミステリアスでセクシーな女性というのは主人公が正義か悪かの定義がどうであれ必要なものである。 


 ――プレイアロー地下3階VIP専用クラブ『ゴールド』。

 完全会員限定のクラブである『ゴールド』と、クラブ会員でなくともカジノ会員であれば利用できるクラブ『シルバー』があり、さらにショーパブである『ブロンズ』の3つの施設で構成されており、会員制の個室施設も奥に併設されてある。3階金庫はこの『ゴールド』のスタッフルームよりもさらに奥にある。すっかり都市伝説のように囁かれている地階4・5階の行き方はここでは不明なようだ。

話が少し反れたので場面を『ゴールド』に戻そう。ここに件(くだん)の女性がいる。それを探すのにご一緒願いたい。

 それにしてもなんと煌びやかな店内か。よくあるラウンジ・クラブのように下品な明るさではない控えめな間接照明がちりばめてあり、基本的に上から照らさないその照明たちが実に良い仕事をしている。大きく豪華なシャンデリアが天井から幾つか吊られているが、前述の間接照明のおかげでその存在を店内に依存させてはいない。ところどころに点在する繰りぬいたような丸い穴は棚になっており、胡蝶蘭や薔薇などの自己主張しない上品な花々で店内にアイシャドーを施す。全体的には黒いイメージだが、アクセントとしていたるところに金の装飾がしてある。天井のシャンデリアの後ろで控えめに光るLEDはプラネタリウムのそれのような錯覚さえもゲストに味わせてくれる。重厚さを一方的に押し付けてくるような革張りの黒いソファは座ってみると驚くほどに沈み、ゲストに“この場所が特別である”ということを教えてくれる。

 その一角にここが特別である生きた証が居た。峠山の息子、10POTのTOHGEである。そこでのTOHGEはテレビや外で見せるにこやかな笑顔は無く、ただ口角を微妙に上げた下卑たような微笑を浮かべていた。そのテーブルには当然のようにドンペリが置かれており、それこそがステータスだとでも言いたげにTOHGEは両手にホステスをはべらせていた。

「おい、マリーいねーの? TOHGEが来てんのにこの俺にマリーがつかねーってどんな訳よ?」

 TOHGEは右手に抱いた茶髪を高く盛ったホステスの淡いピンクのワンビースの胸元へ強引にその手を入れてまさぐりながらウェイターに対して悪態をつく。ウェイターは別段困った様子もなく「当店はVIP様の為のクラブですので、他のお客様にホステスがついているのを引き抜くサービスはしておりません」と淡々と答えた。

「ですので、大変申し上げにくいのですが、お客様のそのような行為も出来ればご配慮願いたいのですが」と胸を揉まれているホステスをちらりと見て話した。

「あぁ? なんだよ、お前嫌なのか?」

「いえTOHGE様、嫌じゃないですが是非続きは奥の個室で……」

 とその手を更にドレスの奥へと導く。その光景に呆れた様子のウェイターは一礼するとその場を離れた。

「ふん、マリーとしか俺はヤらねーの。なんで峠山勝彦の息子である俺のオーダーが優先されねーの? わけわかんねえよ」

 そう言うとTOHGEは左手のホステスのスカートをまさぐっている。

「おーおー、派手に遊んどるな。峠山のせがれ!」

 この空間に似つかわしくないガラガラのだみ声が店内に乱反射するように響く。坊主頭に渦巻きのような模様の剃り込みを入れ、見えている部分だけでも全て墨の入った人相の悪い男がTOHGEに話しかけた。

「あ、あんたか」

「あんだよ! 同じ2世同士仲良くしてくれよ!」

 ゲハハと笑うその口には前歯が無く、近づくだけでタバコと香水の混じったなんとも言えない悪臭がする。その男はTOHGEの左についたホステスの隣に密着するように座ると、その頬を強引に掴み、無理矢理にキスをした。ぐちゅ、ぐちゅ、と涎を垂らしながらバキュームのように吸い付く野蛮な口付けにホステスも苦しそうに涙を流す。

「ッパハ~! どうだぁ? 焼肉後の俺のゴージャスキッスは! ゲヒハハ」

(そんな笑い方、漫画でしか聞いたことねえよ)と心で吐きながらTOHGEは作り笑いをして相槌を打った。

「ここで働く女をよぉ~こんな娼婦みたいにして遊べるのって、俺とお前くらいなもんだろ~? 仲良くしようぜ、TOHGE様?!」

「そ、そうだな。仲良くしようぜ武虎くん」

 TOHGEがそう当たり障りのない返事をした途端、武虎と呼ばれたその男の顔つきが変わった。

「はァ!? 武虎くん?」

 涙目で咳き込んでいるホステスの頭を壁際にぶつけるほど強引によけると、武虎はTOHGEの顔を至近距離まで近づいて威嚇した。

「な、なにか」

 その迫力にTOHGEは平静を保とうとするが声が上ずる。

「武虎くんじゃねェよ!」

 TOHGEは内心(しまった!)と思ったが時既に遅し、武虎の逆鱗に触れたようだった。今にもTOHGEの胸倉を掴もうかという武虎は、TOHGEの目をしばらく睨むとニカッと急に笑い、「武虎でいいんだよォ~! 水臭いじゃねェか“武虎くん”なんてよォ~!」とTOHGEの肩をバシバシと体が揺れるほどに強く叩いた。喉元まで「ごめん」という言葉をいいかけていたのを再び飲み込んでTOHGEは同じように笑った。

 この男の名は常山 武虎、27歳。常山という苗字でピンと来た御仁もおられるかと思うが、その通りかの常山組の若頭であり、組長である常山 虎二の息子でもある。

 このプレイアローの共同出資者でもある常山組と峠山は力関係はほぼ同等だが、如何せんそれは政治家と極道である。決して交わってはいけないとされている関係なだけに、峠山はカジノを私物化したいのが本心であった。

「きったねーよなァ? てめーの親父もよォ」

 目の前のテーブルに置かれたドンペリをラッパ飲みしながら武虎はソファの背凭れにもたれかかった。

「このカジノを独り占めできねーから、自分でカジノ作るっていってんだろ~? しかも国のお墨付きとあっちゃあ、俺らハネモンは文句のいいようがねーからなあ」

 下品に口からドンペリを垂らし、それを手で拭うとゲハハとまた笑う。

「でもそうなれば実質的にこのプレイアローカジノは常山組が全権を握るようになる。結果的に両方にとっておいしい話じゃないか」

 片方の口角だけを上げて居心地が悪そうに笑うTOHGE。アイドルなので俳優の仕事もこなしているはずだが、その自慢の演技力は何故かここでは発揮されない。

「そんなこと言ってェよ~調子いいなぁてめぇはぁ~、親父にそっくりだぜぇ」

 武虎は小刻みに震えているさきほどのホステスを無理矢理立ち上がらせて、肩を抱くと「おい個室あけとけ」と大声で叫んだ。

「じゃ、そんな訳でぼくちんはせーきょーいくにいそしんでくるわ」

 とホステスと共に奥へと消えた。

「ちっ、チンピラが」

 聞こえないような小さな声でTOHGEは遠のいていく背中を恨めしそうに睨んだ。 VIP会員専用クラブにもまた、【VIP室】というものが存在する。最富裕層をターゲットにしているこのクラブの中にも、更に格付けをしているのだ。謂わばこのクラブゴールド内に置いても更に特別な空間である、ということだ。

さあ、ようやくここでフェイ・ダナウェイの登場である。

 美しい者の代名詞としてオーナールージュを語ってしまった手前、あれより美しい者が現れた場合、どう表現していいのか分からないがとにかくその姿を拝んでみようと思う。その別室の真ん中には金色の装飾で飾られた豪華で巨大なベッドと、プレイアローを象徴する形であるスペードを模ったテーブルを囲む虎の皮をかけたベージュのソファ。別室というのには余りにも大きなその部屋に二つの影があった。

 一つの影はさきほどのマリーをご所望したTOHGEの父、峠山勝彦。その隣で酒を作るブラックゴールドのドレス、腰にファーをあしらったドレスに身を包んだ女性、即ちマリー、その人である。思いのほか歳のほどは20代後半に見えるが、オーナールージュほどの“確定させない魅力”は無い。だが、それを補っても有り余る気品に満ち溢れている。それを演出するのはなんといってもその妖美な面持ちであろうか。

 動物で喩えるのならば狐がそれに近いかもしれない。ややきつめの眼元は金のラメの入ったアイラインでそれを更に際立たせている。厚めの唇にあしらった桜色のルージュ。欧米のカリスマを思わせる高さの鼻。その佇まいの全てが、規格外のそれであった。

 オーナールージュが素材を活かした美しさであるのなら、マリーはその対極の飾りを究極に突き詰めたものであることは間違いなかった。月並みで申し訳ないが、どちらにしても優劣のつけがたい美女であるということ。振る舞いにプロとしての気品に満ち溢れていることを加味すれば、わずかにマリーに軍配があがるのかもしれない。

「いいんですか? 息子様が私を指名しているようですが」

 カランと氷の落ちる心地いい音を鳴らしてマリーは峠山にグラスを手渡した。

「いいんだよ。親子であろうが欲しいものは自分で手に入れる。それが世の常というものだ」

 ふふん、と鼻を鳴らし峠山は得意になった。

「それは手厳しいですね。でも、峠山様らしいです」

 どんな会話の中でも笑みを絶やさずに話すその口元に視線が行く。男性ならばこの唇を自分のものにしたいという独占欲に支配されるのも当然であるといえた。

「お前は私の最高傑作だからな。あくまでも息子はその2番目だ」

 マリーからグラスを受け取り、香りを楽しんでから一口口に含む。舌の上でそれを楽しんでから喉へとそれを流した。鼻へと抜ける強烈なアルコールの刺激は、とげとげしくもあり、甘く包むような香りを頭の先まで浸らせる感覚を飲む者に与える。

「やはり私はバーボンが好きだな。かの大統領が就任記念に作らせたというこのバーボンが私の将来を早くも祝福しているようだよ」

「まあ、ロマンチストですね。素敵です」

 マリーはただ横で峠山を眺めて微笑む。世の遊びを知り尽くした男は一周すればシンプルなものに落ち着くという。峠山もまたその一人であった。少なくとも本人はそう考える。

「ここではなに一つ不自由などない。欲しいものも全てくれてやる。マリー、お前の欲しいものはなんだ?」

 マリーは表情一つ崩さずに微笑みながら優しく返す。

「私の欲しいものなどありませんわ。峠山様」

 フェイ・ダナウェイは全てを掌握しているかのような、母性に満ちた女。……を、演じた。

 「このプレイアローカジノなどは私が知事になり、この規模以上の国家公認カジノを立てれば用済みだ。常山にくれてやってもお釣りがくるわい。

 所詮奴は御山の大将がお似合いだからな。ここでおとなしく小銭を稼いで満足してたらいいんだ」

 バーボンの入ったグラスを回しながら氷を溶かす。峠山のいつもの飲み方だ。

「怖いお人です。峠山様を敵に回したら、怖い夢にうなされそうです」

 妖艶な笑顔でマリーは峠山に返す。その言葉と表情のギャップが更に彼女をセクシーに魅せた。

「はっはは、怖い夢か。それはいい、私を邪魔するような馬鹿は死ぬまでうなされればいいんだ。はっはは!」

 大きいアクションで笑うその姿は、時代劇などでみる悪代官そのものだった。分かりやすい悪役である。

「ふふ、でも峠山様?」

「なんだね、マリー」

「もし、その公共カジノが出来てしまったら、私ももう用済みですか?」

 峠山はマリーの鼻と自分の鼻が触れるほど前屈みに距離を詰めた。

「馬鹿な。私の野望はね、お前で完成するんだよ。マリー」

「ふふ、今夜からうなされそうですわ」

「だったら私が朝まで添い寝してやるわ」

「心強いです、私の峠山様」

 この射抜くような台詞にすっかり気を良くした峠山は氷が半分溶け、かさを増したバーボンを煽った。

「このプレイアローを作るのにどれだけの金が要ったか。だが、公認カジノが現実的になれば税金で立てれる。私の懐は痛まないからな!

 作ってしまえば私に利益が流れる仕組みなど後からどうにでもなる。息子の手伝いもあるしな……知事選は当確だろう」

 笑いを噛み殺しながら可笑しそうに峠山は謳った。マリーから距離を離し、元々居た位置にまたドスンと腰をかけると峠山はグラスをテーブルに置く。すかさずマリーはそのグラスに氷を足した。

「悪い夢を見る人が増えそう」

 穏やかな笑顔を絶やすことなくマリーは峠山のくだらない野望の話を聞いている。

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