第5話
―――昨年の十一月の夜明け前。
雨ガッパを着た蒼斗が、激しい雨の中を一人自転車を飛ばしていた。
前日の夕方から降り出した雨が、朝になっても降り続いている。
蒼斗の中学一年の弟が飼っている、クサカメの梅さんの調子が悪い。
先週からまったく食欲がなくて、水槽の中でじっとしていて動かない。
それで弟の
昨日、蓮の家に遊びに行ったときに、「元気ねぇ亀にはミミズさ食わすんだ」と蓮の婆ちゃんから聞いた。蓮の祖母は代々農家で、植物やカエルやミミズなどの生き物にも詳しかった。
「中でもフトミミズ科のドバミミズは栄養満点で、朝に川さ行けば、朽ちたヨシの下とかにウジャウジャおるぞ」と、蒼斗は有力な情報を入手していた。
石地蔵を越えて、暗い農道を暫く走り、川を見つけて石橋の手前を川沿いに、左へ曲がった。
うっすらと夜は明け、どんよりとした空は少し明るくなりかけていた。雨脚は弱まってきたが、相変わらず分厚いねずみ色の雨雲が幅をきかせている。
蒼斗は、脇道を少し進んだ先の木橋の手前で自転車を降りた。
川へ降りようとしてふと左横を見ると、黒いワゴン車が後ろを向けて止まっていた。この道は、その先で狭くなっているので、車はそれ以上は先へ進めない。
車の前部は見えないが、後部と横の窓には、すべて濃い黒色のフィルムが張られていて中は見えない。車の中に、人の気配はなかった。
(故障車かな)
蒼斗は、橋の下に降りると枯れた小枝が積み重なった所を見つけた。軍手をして、小枝と泥をよけると、濡れた黒い土の中に、チョコレート色の伸縮自在のそいつらが動いていた。
蒼斗は、周りの土を削り取るように、そいつらを土と一緒にバケツで
「すンげぇ、大量だ」
バケツの中で茶褐色の生き物が、土にまみれてうごめいているのを見ながら、
「梅さんよ、瑞人よ、兄ちゃんをまっとれよ!」
と、蒼斗は誇らしげに胸の中で呟いた。
蒼斗は、雨に濡れた背丈ほどの雑草をかき分けて、戦利品とともに土手の上へ這い上がった。雨で足元が滑る。
自転車に跨ってハンドルの上にバケツを乗せて帰ろうとした瞬間、背後に止めてあったワゴン車のバックランプがいきなり点いて、タイヤを滑らせながら猛スピードで突進してきた。
蒼斗は間一髪で、川とは反対側の刈り入れた後の田圃の中に、自転車ごと頭から突っ込んだ。バケツが鼻先に転がって、ドバミミズを
蒼斗が、運転席とは反対側に居たので気づかなかったのか。それとも、こんな時間に人がいるわけないと思っていたのか、もう少しで蒼斗は、ドバミミズと一緒に車にひかれる所であった。
ワゴン車の運転手はとても慌てているらしくて、蒼斗には一切気づいていなかった。バックのまま笹塚街道に出ると、石橋に後輪を乗り上げて、トンネルとは逆方向の国道へ、凄い勢いで走って行った。
その時、泥だらけの顔をした蒼斗は、草むらの中に突っ伏したままで、車を運転する女を見ていた。
その女のアップした日本髪は、雨に濡れて乱れて、目は狐のようにつり上がっていた。
―――蒼斗は、昨年の出来事を思い出していた。
(そういえば、あの女の人も留め袖のような着物を着ていた)
と、着物と思って振り返ると、あの奇妙な女の姿はもうなかった。
蒼斗はトンネルの出口に差し掛かった。もう一度後ろを振り向いたが、やはり女の姿はなかった。このトンネルを出た横に、あの女が立っていて、いきなり飛び出してくるような気がした。
蒼斗は、トンネルを出たところで、自転車を止めて足をついた。
恐々と左右を見た。……女の姿は無かった。
蒼斗が、胸を撫で下ろして顔を上げると、遠くに赤い木橋が見えた。慌てて足元を見た。そこに缶の蓋は見当たらなかった。
(やったかもしんない)
蒼斗の顔が綻んできた。自転車を急いで漕ぐと、蓮の居る木橋へ向かった。
石橋を渡ると右手に曲がって、雑草を避けながら、
蒼斗が、自転車を止めてあたりを見渡した。
木橋の手前の草むらの中に、景観には似つかない原色の、派手な色のマウンテンバイクが少し覗いていた。
「蒼斗。遅いよ!」
蓮が、橋の下から顔を覗かせた。その声に、やや怒りの色が混じっていたが、蒼斗は、蓮の顔を見ると涙が出そうになった。もう心細さの限界であった。
「おまえは本当に呑気なんだから。もっと早く戻って来いよ!」
蓮は、首筋をボリボリと掻きながら、橋の下から斜面を上がってきた。
蒼斗は、蓮の言葉など微塵も気にせずに、満面に笑みを浮かべていた。
もしも自分が女だったら、駆け寄っていって、蓮に胸の中に抱きつきたい気分であった。
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