第4話

蒼斗は、一歩後退あとじさりしたが、女の右手は広げている地図の上で止まった。女のやつれた人差し指は、確かにこの川沿いの道を指している。

ただ、良くみると木橋の先にある雑木林の中をこの女は指差していたが、蒼斗が思っていたトンネルの南側の場所と、大体は一致していた。やはりトンネルを抜けてはいなかった。


「あの山の北側へ行くには、あのトンネルを抜ける以外に道は無いですか?」

と、蒼斗は山頂に向けた指を、恩音トンネルへ移した。

女は傾いた首を、そのままゆっくりと横に振った。「他にはない。トンネルを抜けるしかない」と言っているようだった。


(何かが、おかしい)

また、蒼斗の頭の中で何かが引っかかった。―――蒼斗は分かった。今度は、さっきよりも早く、それに気がついた。


それは、女の体臭であった。これだけ間近に居ても和服を着た女の香水の匂いも、化粧の匂いも、汗の匂いなども、この女からは一切してこないのである。

かといって、腐敗したものから出るイヤな異臭もしなかった。この女は手の届くほどの位置に居ても、まったく無臭なのだ。蒼斗は、女に向いたまま、首を傾げた。


少しして、蒼斗は考えることを諦めると、もう一度地図に目を落とした。大きく迂回して、国道にでも出れば行けるのだろうが、地図をみる限り、相当遠回りになることが明白であった。―――と、女は急に歩き出した。


<現在地>

https://kakuyomu.jp/users/shin-freedomxx/news/16817330667237116640


地図を見ている蒼斗のすぐ脇へ歩いてきた。

「えっ、なに?」

今度はなにが起きたのかと、蒼斗は橋の上で一、二歩後退りした。


女は蒼斗の脇を通り過ぎると、そのまま恩音トンネルに繋がる笹塚街道へ向かって歩き出した。片足を引きずりながら、ゆっくりと背を向けて歩いて行く。

首を斜めに傾けたままで、まるでゼンマイ仕掛けで動いているような、そんなギクシャクとした歩き方であった。


(この女、ぜったいどっか壊れてる)

蒼斗は、眉間に皺を寄せると、露骨に不気味だという顔をした。


(よかった。行ってくれる)

徐々に離れていく女の背中をみて、少しホッとした。

しかし女は、そんな都合のいい期待などとは裏腹に、少し行ったところで急に立ち止まった。そして傾いた首で、ゆっくりと振り向いた。蒼斗は、慌てて笑みを浮かべて見せた。


女は視線は伏せたままで、こちらを向いて立っている。目は合わない。

蒼斗に、着いて来いと言っているようだった。


(勘弁してくれよ)

と、蒼斗は思ったが、地図を丸めるとそれを片手に持ち、デイパックを片方の肩に掛けて、自転車を起こして後に続いた。


女は前に向き直ると、またぎこちない足取りでゆっくりと歩き始めた。

蒼斗が、前を歩いている女をよく見ると、左手に新聞紙が握られていた。蒼斗は、小走りに自転車を押しながら近づき、新聞を指差して訪ねた。


「それ今日の新聞ですか?今日の新聞なら貰えませんか?」

蓮の記事が出ているかもしれない。蒼斗は咄嗟にそう思った。


女は身体を向けると、何も言わずに新聞紙を蒼斗の方へ突き出した。蒼斗はそれを受け取ると、持っていた地図と一緒に丸めてデイパックへ押し込んだ。


女は笹塚街道に出ると、ゆっくりと左に曲がって石橋の上へと歩き出した。

その先には、通り抜けることのできない、不気味なトンネルが、腹をかせた人喰い巨人のように、ぽっかりと口を開けて待っていた。


蒼斗は、二度とその不気味なトンネルには近づきたくはなかった。

蒼斗は、しぶしぶと女の後ろを歩きながら、ふと妙なことが頭に浮かんだ。


(もしも、この女が本当の幽霊だとしたら……)

蒼斗は、自転車を押しながら呟いた。


(そっと近づいて、耳のそばでいきなり大声を出しておどかしたら、……この女は声を上げるのかな)


(片腕を急に握って、全速力で走り出したら、……この女はゼェゼェと息を切らすのかな)


そんなことを考えながら顔を上げると、女は恩音トンネルの入り口に差し掛かろうとしていた。


女は、恩音トンネルの手前で、引きずる足を止めた。

立ち止まって、案の定振り返ると、蒼斗に向かってトンネルの中を指差さした。


女は、蒼斗に向こう側へ行くには、ここしかないと言っているようだった。

蒼斗はさっきあった出来事を、この女に全て話す気にはなれなかった。


トンネルには入りたくなかったが、二人で入ってまた同じ場所に戻ってくれば、驚いて、この女も何か喋るかもしれない。


蒼斗は、そんな事を考えていた。

「分かったよ」

と、諦めと投げやりを半分ずつに応えると、蒼斗は、決心してトンネルの中に自転車を押しながら進んだ。歩きながら横を見た。女はいなかった。


「えっ?」振り返った。女は、中には入らずにトンネルの入り口で、こちらを向いて立っていた。逆光で、黒いシルエットの女の首は、相変わらず傾いている。


蒼斗は、少し不安になったけど、ここまで来たら戻ることは出来ないと思った。それに、トンネルのどこかで無意識にUターンをしているのなら、その瞬間にあの女の姿が入り口に見えるはずだと思った。蒼斗は諦めた。

もう一度振り向いた。まだ黒いシルエットはそこにいる。蒼斗は、自転車に跨ると、ペダルを漕ぎ出した。



実はこれが、これから二人にとって実際に目にする奇妙なモノの、序曲に過ぎないことを、蒼斗には今は知る術もなかった。


トンネルの中ほどに差し掛かった辺りで、蒼斗は何かを思い出していた。

(そうか、さっきの場所は、あそこだったのか)

蒼斗は、さっきまで居た、女の現れた古い木橋の辺りに、去年も来ていたことを思い出した。

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