第2話

ママから話を聞くと、斜向はすむかいの店同士、足りない食材や調味料などの貸し借りを行っているうちに、千鶴子と親しくなったらしい。

このカラオケスナックに、千鶴子の店の料理を出前してもらうこともあったという。


「それよりも、あんたと、入口に突っ立ているあんたも、ここに座りなさい」

と、ママが、冷たい水をコップに注ぐと、カウンターテーブルの上に二つ並べた。


女が椅子に座ると、立っている老紳士に目で合図をした。老紳士は歩いて来ると、ママに軽く会釈をして、女の横に腰掛けた。老紳士のコロンの香りが辺りに漂った。


「あれは、そうね。麻衣ちゃんが居なくなる一週間位前だったと思う。麻衣ちゃんが、店の外で大きな声で怒鳴っていたことがあったんで、千鶴ちゃんに聞いたことがあるのよ」と、ママは八年前を思い出しながら、すこし辛い顔をして話し始めた。


「当時、警察にも話したけど、閉店時間が過ぎて他の客がみんな帰った後に、一人の男が残っていて、千鶴ちゃんがそろそろ店を閉めようと声を掛けたら、その男が急に抱きついて来て、二階の住居に……」

ママの話に、他の客も聞き入っていた。先ほどの亭主風の老男性も、手に持ったグラスの酎ハイを吞むことも忘れている。


「二階に連れていかれて、男がふすまを開けると、そこに麻衣ちゃんが寝ていて。大きな音にびっくりして、麻衣ちゃんが目を覚ますと『ママをいじめないで!』と泣きじゃくったらしいの。それで、男は萎えてしまって、その場に捨て台詞を残して帰って行ったと」


「酷い」女から思わず声が漏れた。


「翌日、酔いが覚めた男が店に謝りに来たんだけど、店の前で、麻衣ちゃんが『もう来ないで!』って、大きな声で怒鳴ったらしいの」


「その男の名前とか、なにか特徴を覚えていたらお願いします」


「そうねぇ、私もあまりよく見てないんだけど。……背は低かったけど、体格はがっしりしてたわね。名前は聞いたんだけど、……なんていったかな。最近、物忘れが酷くて」

結局ママは、それ以上の事を思い出してはくれなかった。ただ、それでも十分な収穫はあった。


「お邪魔しました」

女は立ち上がると、頭を下げてお礼を言った。


女は、老紳士に目で合図をすると、老紳士はスーツの内ポケットから、長いワニ革の財布を取り出すと、中なら万札を三枚引き抜いて、縦に二つ折りにすると、テーブルに上に置いた。


「えっ、いやいや、いいのよ。私も麻衣ちゃんを捜してほしいもの」

と、ママが笑顔で首を振った。


「いえ、みなさまの楽しい時間を潰してしまいましたので。……何か思い出したら、ここにお願いします」

と言って、女がママに手渡した名刺には、木漏日樹こもれびいつきと印字されていた。


「そお、じゃあ、今日はみんなおごりで」

と、ママが、自分のハイボールが入った大ジョッキを高く翳した。

二人が店を出る背後に、客の喝采が聞こえた。



―――少し前。

ネイビーメタリックのジャガーXJが、細い路地に入ってきて停まった。

「お嬢様、着きました」運転席の老紳士が後ろに顔を向けた。

「ありがとう」後部シートに座っている、黒ぶち眼鏡の若い女性が頷く。


当時、麻衣の母親の柏木千鶴子かしわぎちずこは、夫の保険金を元手に、長野県茅野市で、一階が店舗、二階が住居の一戸建てを借りて『郷土料理・ちずる』という小料理屋を始めた。店は駅前の表通りから、一つ奥に入った、車のあまり通らない裏路地にあったが、常連客もそれになりについて、母娘おやこ二人が暮らしていていくには十分であった。


……二人が、その『ちずる』のあった住所に着くと、今は乾物屋になっていた。


「ありがとうございました」

世良泉万利夏せらいずみまりかと執事の外山清十郎そとやませいじゅうろうは、店の主人に礼をいうと、外へ出て来た。

三年前に越してきたという店主は、千鶴子母娘のことは、なにも知らないと言った。


「困ったわね。八年も経っていると、知っている人を探すのは難しいかも知れないわね」


「お嬢様、あれを」

外山が指を差す先には、年季の入った建物のカラオケスナックがあった。名もない草花たちが、鉢に入って、店先に所狭しと並んでいた。

万利夏は、顔を向けると歩き出した。その、乾物屋の斜向かいにあるカラオケスナックのドアを、外山が開けると先に中へ入って行った。

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