第二章 真昼の幽霊

第1話

―――同時刻、長野県茅野市。


「バカいってんじゃないよ……♪」


「よくいうわ、いつもだましてばかりで……♪」


個人宅のリビングのような飾り気のない小さなカラオケスナックで、老男女が赤い鼻をして、仲良くマイクを握っている。


そこへ、いきなり店の扉が開いて、一人のスリムな老紳士が入って来た。

四、五人の常連客のような男女が顔を向けて、一斉に目を細めた。うす暗い店内は、開いたドアの隙間からの、真夏の外の光が眩しかった。


「いらっしゃい」

六十は優に超えていそうな、手拍子をしていた厚化粧のママが、カウンターの中から、愛想顔を向けた。


「すみません。邪魔しました」

と、そのグレイの三つ揃えスーツに、ベージュに近いカーキ色のシルクハットを被って、ゴツゴツとした武骨な木製ステッキをもった老紳士が、歌うのをやめた老男女に、ハットを脱いで軽く会釈をした。

そして、上げた顔の鼻の下には、大袈裟なほどの、りっぱな白い口ひげがあった。


「お嬢様」

と、呼ばれて外からもう一人、大きな黒ぶち眼鏡を掛けた、若いモデル風の女性が入って来た。三つ揃えの老紳士に、モデル風の若い女性。この庶民的な店には、明らかに異質であった。


「突然おじゃましてすみません。少し、お話を聞かせてもらうことは出来ますか」

女が頭を下げていうと、ママが警戒したような顔で、眉根を寄せた。



「いいんじゃないの」

見るからに農家風の老女性が、マイクのスイッチを切ると、人の好さそうな笑顔で言った。


「おう、なんじゃ」

その横の、鼻の赤い亭主風の老男性が、歌っていたマイクをテーブルに置いた。


「いいわよ」他の客も同意する。相当昔に若かった女性客三人と、男性客の二人が、壁際のL字ソファに座っていた。

ここに居る全員が、代わり映えのしない毎日に、暇を持て余しているようだった。


女が、ママに顔を向けると、「少しなら」と、歌い手がやめてしまったカラオケの、音楽のボリュームを絞った。


「ありがとうございます」

女が、ソファのL字の角部分に腰掛けている肉体労働者風の男性客に近づいて、話し掛けた。老紳士は、入口のドア付近に、ステッキをついて立っている。


「八年前の話なんですけど、この斜め向かいに、小料理屋があったと思うんですけど、知ってますか」

と、女が、体格の良い五十歳は過ぎているような男に聞いた。


「八年前?」

「郷土料理、ちずるという店なんですけど」

その店名を聞いて、ママの顔が一瞬曇ったことを、女は見逃さなかった。


「ああ、ちずるか。……あれは可哀そうだったな」

男は、昔からこの近所に住んでいて、麻衣の失踪事件と、その五カ月後の千鶴子の自殺を覚えていると言った。


「いま、その親族の方から依頼を受けて、麻衣ちゃんの行方を捜しています。当時、母親の千鶴子さんと付き合っていた男性とか、千鶴子さんに言い寄っていた男性が居たら、教えてほしいのですが」


「男か。そうだな、あの店は労働者風の常連客が多かったから、言い寄っていた奴は結構いたんじゃないか」


「その人たちの名前とか……」


「店で顔を合わすくらいで、常連同士、話をしたわけじゃないからなぁ。名前とかは知らんな。……最近は、あの頃の連中も見かけんようになった」


「そうですか」

その男からの情報は、それで終わりだった。

女が他の客を見渡したが、みんな首を横に振るだけだった。


女は、カウンターの傍まで戻ると、ママに視線を移した。

染めた色よりも、しろに戻った方が圧倒的に多くなった前髪を手でかき上げて、後ろに束ね直した厚化粧のママの顔が、数十年かぶりの真顔を作った。

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