第13話

蒼斗が顔を上げた。

―――そこには、あのお地蔵様があった。蒼斗は、強く頭を左右に振った。


(俺は、先に進んでいると思っていたら、空気入れを忘れた場所に戻ってきていたのか?)


(……いや、そんなはずはない。恩音トンネルは通らなかった)


でも、そこにあるのは、まぎれもなく、さっきの赤い頭巾と前掛けをした石のお地蔵様であった。


(このお地蔵様がここまで歩いてきたのか。俺を追いかけてきた?)


(まさか、……そんな事があるわけない)


蒼斗は、無理に頭を冷静にして、判断しようと努力した。

頭の中がクルクル回る。矛盾した幾つもの状況がかけ巡る。蒼斗の頭の中に、納得できる答えが見つからない。


(そうか、戻る時に通り抜けたと思っていた恩音トンネルを、俺は抜け出ていなかった。だから、今はまだトンネルの南側にいるだけじゃないか。要するにトンネルを抜けて、北側に行けばいい訳だ)


蒼斗は気を取り直すと、またトンネルに向かって引き返した。自転車を漕ぎながら、頭の上を見た。夏の太陽は、依然として真上にある。西にでも傾いていれば、影の位置で向かっている方角も分かるのだが……。


石橋を越えて、恩音トンネルの所まで引き返すと、穴の入り口で蒼斗は自転車を止めた。左斜め後ろを見ると、さっき間違って入っていった脇道があり、その先に赤い欄干が少しだけ見えた。さっきこのトンネルを見ていた場所だ。


後ろにある低い欄干の石橋は、トンネルを抜けた先の北側の橋では無く、空気入れを拾ってからトンネルに入った南側の橋だった。


(寝ぼけてたのか?)


(それともトンネルの中で、知らない間にUターンをしてしまったのか?)


蒼斗は、恩音トンネルの入り口で自転車に跨ったまま、背負っているデイパックを胸元に降ろすと、中から缶コーヒーを取り出した。缶を良く振ってから、人差し指を引っかけて、金属の蓋を引き抜いた。


蒼斗は、相当に喉が渇いていたのか、一口で半分位を一気に飲んだ。デイパックを背負い直すと、缶を右手に持ち変えてペダルを漕ぎ出した。


穴の中は再び、別世界の冷凍庫だった。


(今度はちゃんと、トンネルを抜けてやる)

蒼斗は、しっかりとした足どりで、全身全霊を前に見える小さな出口に注いだ。

蒼斗のマウンテンバイクにライトはついていない。間違ってUターンをしないためには、出口から入り込む外の明るさだけが、方向を示すものだった。

今までよりもゆっくりと、蒼斗は恩音トンネルを抜けた。トンネルの中で、走りながら飲み干してしまった缶には、もう液体は残っていなかった。


トンネルを抜け出たところで、蒼斗は自転車を止めて先を見た。

確かに目の前にも石橋が架かっていて、その石橋を越えた先に、川に沿って右手に入る脇道があった。そして、その先に木橋の赤い欄干が微かに見える。

でも、蒼斗はまだ半信半疑であった。

あの木橋は、トンネルの南側にあった橋なのか。それともトンネルを抜け出た、蓮の待っている北側の橋なのか。


―――蒼斗は迷った。と、頭を下げたとき足元で小さな物が、太陽光に反射した。その瞬間にまた、蒼斗の顔から血の気がひいた。


それは、さっきトンネルに入る前に自分が引き抜いた、缶コーヒーのタブであった。

蒼斗の半袖から覗いている両腕に鳥肌が逆立った。背中の毛穴が全部開き、冷や汗が吹き出るのが分かった。蒼斗は、暫くそこから動けなかった。


(おれは夢でも見てるのか?……そんな筈はない)


蒼斗は気を取り直したが、どうにも解せなかった。

蒼斗は人よりも立ち直りが早いので、いつまでも悩んではいなかった。

人は何かにぶつかると、それを解決するまで悩んでその場から動けなくなるタイプと、それを放って置いて先へ進むタイプがいる。蒼斗は間違いなく、後者であった。

先に進んだところで、後ろに残してきた問題の答えを見つけ出す。その場に留まっていては、その先に用意されている答えのヒントを貰えない。

蒼斗は、自分でも気がついてはいないが、そんな風に考えるタイプの人間であった。


(何かの間違いだ。俺はちゃんとトンネルを抜けた。そんな筈はない)

蒼斗は、ここがトンネルを抜け出た先の、北側の橋だと思いたかった。


(さっきのお地蔵様が歩いて来て、きっと缶コーヒーの蓋を北側こっちがわに移動したんだ)

正直なところ、もう二度と一人で、この奇妙なトンネルに入りたくはなかった。


(行って見るしかないな。本当にあの木橋が、どっちの橋なのかを確かめるには)

蒼斗は、空き缶をトンネルの脇の草むらに放り投げると、自転車を漕ぎ出した。

弓なりの石橋を越え、脇道を右手に入り、赤い木橋に向かって進んだ。

蓮にいてほしかった。祈るような思いで蒼斗は呼んでみた。何度か呼んだが、蓮の返事は無かった。


(蓮が橋の下から、忽然と消滅してしまったのか?それともやはり、俺はトンネルを抜けていないのか?)蒼斗は、自転車を倒して、木橋の袂にしゃがみ込んだ。

あまりめげない性格の蒼斗だが、今回ばかりは珍しく肩を落としていた。

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