第10話
蒼斗が顔を上げると、さっきのトンネルの手前の石橋が見えてきた。その恩音トンネルを抜けて、川沿いを右に曲がったところにある赤い木橋の側で、蓮が待っている。蒼斗は漕ぐ足を速めた。
今日はまだ、この笹塚街道に入ってからは、誰ともすれ違ってはいなかった。人通りの少ない旧道を選んだので、それは二人にとってはラッキーな事だった。だが、蒼斗は、少し人恋しくもなっていた。
国道や幹線道路は、恐らく検問をやっている。電車も、バスも警察の手が回っている。そう思って二人は、白夜館のある隣町の信濃大町まで、
坂北村から国道四〇三号線を少し北上して、坂下で左に曲がって笹塚街道に入り、農道で信濃大町まで行くルートに決めた。そして白夜館に着いたら、白いセダン車に乗った女を探すことにした。
蒼斗は、出発する前に国道沿いのコンビニで、お昼のパンと飲み物、そして山道が載っている地図を買った。
蒼斗の背中のデイパックの中で、さっき買った一リットルの飲料水のボトルがゆれている。
「えっ?」
蒼斗はトンネルに入る瞬間に、また何かの気配を感じた。トンネルの入り口の右側に、誰かが立ってこちらを見ていたような気がした。
「馬鹿な」
草か、木の枝が揺れていたのかもしれない。でも、人間の形をしていたような気もする。蒼斗は半信半疑であった。しかし、戻って確かめる気にはなれなかった。
クラーケンの棲む大渦巻のようなトンネルの中へ、蒼斗は吸い込まれるように入って行った。―――と、その瞬間、全身に悪寒が走った。それは、トンネルの冷気のせいではなかった。蒼斗は後ろを振り返れなかった。満身の力でペダルを漕いだ。
蒼斗は楽天家だが、それは現実で生きているものに対してであって、幽霊のような怪奇現象は、大の苦手である。蒼斗は、壁面を見ないように下を向いて走った。
暫くして、トンネルを抜けた。抜けた先の石橋を渡り、右に曲がって、川沿いの細い道を木橋へ向かった。
笹塚街道と違って、この脇道はほとんど人が通らないのか、身の丈程の雑草が左右から生い茂り、唯一、車の轍部分が自転車の通れる場所であった。
右手には川が流れているが雑草が邪魔をして、ここからでは良く見えない。四方から蛙や虫の鳴き声がする。
蒼斗は、橋まで来た。古びた木製の
「蓮!蓮!」
何度か呼んだが、蓮の返事は無い。橋の袂まで来て
(おかしいな?橋を間違えたかな)――蒼斗は、間違う筈は無いと思った。
橋の上から、さっき出てきた恩音トンネルの方を見た。生い茂った草木の間から、トンネルの穴の一部が見える。
(ん?)
その時、トンネルの入り口付近で、また何かが動いた。
(なんだ?)
蒼斗は目を凝らしてしばらく見ていたが、それからは何も動かなかった。
脇道は、この古い木橋を渡らずに川沿いに進むこともできるが、少し直進した先で車が通れなくなる。そして、その先は雑木林の中の、遊歩道へと繋がっていた。
蒼斗は考えた。蓮が、一人で先に進むとは思えない。
(あいつは無一文だしなぁ)と、蒼斗は自転車に跨ったままで、腕を組んだ。
(もう少し先に、同じように右に入る小道があって、木橋が架かっていたら、蓮は勘違いをして、ここを通り越して、もっと先で待っているのかもしれない)――蒼斗は決めた。
蒼斗は、木橋から降りると、元の笹塚街道に戻った。
(もう少し先へ行ってみよう)
蒼斗は、トンネルを背にして自転車を先へ進めた。
笹塚街道から、右側に入る小道が無いか、そして、その先に橋が架かってないかを、注意深く探しながら、先へ進んだ。
走りながら振り返ってみると、恩音トンネルを抜けたところからは、随分来てしまっていた。
しかし、右に入る小道すらない。延々と続く田園風景を見ながら、代わり映えのしない景色に、今いる場所すらも定かではない。一本道で無かったら、きっと迷子になっているかもしれない。
そんな事を考えながら、遥かに広がる田園の、パノラマの中を蒼斗はひたすら自転車を漕いでいた。
右側を気にしながら、何気なく前の道に視線を戻した。―――と、その瞬間、強烈な驚きに急ブレーキをかけた。その勢いで、ハンドルのグリップを握っていた右腕が外れ、自転車ごと前のめりに転びそうになった。
次の瞬間、凍り付くような恐怖が、蒼斗の全身を襲った。そこで見たものをとても信じられなかった。夢でも幻でも無い。確かに、それは目の前にある。
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