第9話

―――それにしても暑い。

焦げるような陽射しに、蒼斗は額から流れ出る汗をシャツの右肩の袖で拭き上げた。


風のない茹だるような一日である。

もう太陽は真上にあるようで、自転車に乗った自分の影が、小さくデコボコの地面に揺れている。

身体中の水分が沸騰して、蒸発しそうな感じがする。遠くで蝉が鳴いていて、田圃に張った水面みなもが、太陽光を浴びてキラキラと輝いている。


「たしかこの辺だったよな」

蒼斗は止まって足を着くと、先ほど自分の自転車の、外れたチェーンを直していた辺りを見渡した。

道の右端に、膝程の高さの石のお地蔵様が一体あったので目印になった。お地蔵様は赤い頭巾と前掛けをしていた。石で出来た袴のようなものから覗いている足元には、萎れた花が束ねておいてある。それは何の変哲もない、田舎の地蔵であった。


蒼斗が、自転車のスタンドを立てて、お地蔵様の方へ近づいて行くと、脇の草むらの中で、銀色に反射するものが見えた。


「あった!」

蒼斗は草をかき分けて、それを拾うと、自転車の所定位置に固定した。

自転車に跨って、ペダルに右足を掛けた時、またイヤな気配を感じた。それは、トンネルの中で包まれた、異様な空気にも似ていた。


蒼斗は、何か気配を背中に感じて、振り返った。

振り返った肩越しには、あの小さなお地蔵様があった。何事も無かったかのような素知らぬ表情で、お地蔵様は目を閉じていた。


蒼斗は、気のせいかと思った。……が、前に向き直そうとした時に、そのお地蔵様の赤い前掛けが、。その瞬間に、蒼斗の背中の産毛が、全て逆立った。


(何だったんだ。今のは、……真昼の幽霊。……まさか)

まるで何かが、お地蔵様の前を横切ったような感じであった。

蒼斗は、気になったが二度と振り返らなかった。薄気味の悪さと心細さとで、蓮が待っている木橋へと、ペダルを漕ぎ出した。


自転車を走らせながら、蒼斗はさっきの不思議な光景を思い浮かべていた。

(たしかに首にかけてある赤い布は、風もないのに揺れていた)

(……いや、その前に俺は何かを感じた)

(誰かに、後ろから見られているような気もした)

(あれは一体、何だったのだろうか)

(お地蔵様の横に、何かが立っていたような気もする)


そんな事を考えながら、蒼斗は自転車を漕いでいた。

先ほどの異様な気配は、今もまだ続いている。


蒼斗は自分のすぐ後ろ、背中の当たりに何かを感じていた。何かが自分と同じスピードで、後ろから付いて来ている気配がする。

まるで、自転車の後ろに乗ってでもいるかのような感じであった。しかし、そのものは空中に浮いてでもいるのか、体重が無いもので、重さはまったく感じない。気配だけしか感じないのである。

蒼斗は走りながら、何度か後ろを振り向いた。しかし、そこには何もいなかった。


(真っ暗な夜道の車の中であれば、運転手がルームミラーを覗くと、薄暗い後部シートにずぶ濡れの、髪の長い女の幽霊が俯いて座っていて、その女がいきなり顔をあげて、自分と目が合う)……なんて、怪談話は聞いたことがあるが、ここは長閑のどかな田園の広がる道の上で、頭の上にはカンカンに照りつける太陽がある。


そんなところで幽霊が、自分の自転車で二人乗りをしているとは到底思えなかった。それに蒼斗には、確固たる自信があった。幽霊が、自分の自転車の後ろには、絶対に乗っていないという自信が。……なぜならば、蒼斗のマウンテンバイクには後部座席が無いからである。


(でも待てよ。後輪の軸に付けてあるペグに、両足を乗せて立っているとしたら)……その自信も、あまり当てにはならなかった。


自転車の足下に揺れている蒼斗の影の、背後にもう一人分多く盛り上がっていたことに、全く気がついていなかった。

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