第一章 人殺しと呼ばないで

第1話

―――平成七年八月二十二日、正午前。


前を走っていた蒼斗あおとが、古いトンネルを抜けたところで、急にマウンテンバイクを止めた。真夏の乾燥している農道は、ロックされたタイヤにこすられて、白い砂埃を舞い上げた。


「どうした」

斜め後ろを走っていた長身のれんが、茶色い髪の蒼斗を少し追い越して、回り込むようにブレーキを掛けた。


「さっきのところに、空気入れを忘れてきた」

「さっきのとこって、……チェーンを直したとこか?」


「ああ」

本来なら小さな筒上の空気入れが固定されているサドルの下辺りをまさぐりながら、蒼斗が軽いため息をいた。


「戻って取ってくるから、蓮は何処かに隠れてろよ。お巡りさんでもきたらヤバイからさ」

蒼斗は、キョロキョロと周りを見渡した。すぐ先に石橋が架かっていて、その右手の林の奥を指差した。


「蓮、あそこに見える赤い木橋の辺りに隠れてろよ」

蓮はグリップから片手を離すと、背中越しに、蒼斗の指差す方向へ首を向けた。

いま抜けてきたトンネルの先に、アーチ状の欄干の、低い石橋が架かっている。その石橋を渡って、すぐの右手の川沿いに、雑木林へ続く細い脇道があり、その先に朱塗りの欄干の木橋が、林の中に覗いていた。


<周辺地図>

https://kakuyomu.jp/users/shin-freedomxx/news/16817330665882237849


「蒼斗ぉ~」蓮が、情けない顔で振り返った。


「心配すんなって。……すぐ取ってくるから、そうだな、一〇分位かな」

蒼斗は、後輪をスライドさせて弧を描くと、出てきたばかりのトンネルへ向かって走り出した。顔を上げると、トンネルの上のプレートに、消えかけた文字で『恩音おんねトンネル』と書いてあるのが見えた。


トンネルの中の道幅は狭く、大型車が一台通るのがやっとで、すれ違う事はできない。入り口から、向こうの出口が小さく見えている。

トンネル内は薄暗く、削り取った土の地肌がむき出しで、不気味な感じを醸し出していた。外は四〇度に近い炎天下でも、この中は、吐く息さえも白く感じるほど、芯から冷える。所々の天井からは、水滴が垂れていた。


蒼斗のマウンテンバイクにライトは無い。

古いトンネルの中にも照明らしきものはなく、出入口から差し込む僅かな光が、明るさの全てであった。


蒼斗は走りながら、何かイヤな感じがしていた。

トンネルに入ったときから、身体中が、何か異様な空気に纏わり憑かれているような気配を感じていた。それは決して、トンネルの暗さや、冷気のせいでは無いと思った。


不安と心細さの中で、横の壁面に目をやった。デコボコの壁面を走りながらずっと見ていると、壁面の凹凸の影が、人の顔に見えてくる。女の幽霊の顔にも見えてくる。そして、その顔がゆらゆらと動くようにも見える。自分を、追いかけてくるようにも見える。


蒼斗は、早くトンネルから抜け出したかった。全力でペダルを漕いだ。しかし、向こうに見える出口の穴が、なかなか大きくはならない。高々、四~五〇〇メートルのトンネルが、蒼斗には一〇キロにも二〇キロにも感じた。


(やっぱり、蓮も一緒に……)

(いや、だけどトンネルを抜けたところに、お巡りさんでもいたら……)

そんな事を考えているうちに、やっとトンネルの出口が近づいてきた。


蒼斗は力一杯にペダルを漕いで、一気にトンネルを抜け出した。

勢いよく外へ飛び出すと、またあのむせ返るような強い陽射しと茹だる空気に、蒼斗は一瞬目眩を感じた。

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