第一章 侯爵家へ契約婚!?⑩

 その日から早速、花嫁教育が始まった。

 朝、聖を見送ってから夕方まで、みっちりと講義は続くので日が暮れたころにはくたくたになる。

 お常さんが講師となっての花嫁教育は多岐にわたる。

 読み書きそろばんは既に身に付けていた多恵だったが、侯爵夫人として聖とともに人前に出たり上流階級の皆様をもてなすのにはとても足りないとして、華道や茶道、時事や政治、それに鷹乃宮家の歴史と、現在の分家の家系図や主だった華族、政治家の名前などを覚えることも含まれていた。

 それをすべてお常さんが講師となって教えてくれたのだがら、彼女の教養の深さにはただただ舌を巻くばかりだ。

 なんでも、若いころは師範学校で教師をしていたこともあるという。どうりで、教師姿が堂に入っているわけだ。久々の講師役で気合がはいりまくっているのかもしれない。

 お常さんが一番時間を割いたのが、礼儀作法の時間だった。

 歩き方、座り方、しゃべり方。そのすべてに、鷹乃宮家の当主夫人としての品位がなくてはならないというのがお常さんの考えだった。

 それはよく理解できる。でもこの時間が、多恵にとって一番つらかった。

 和室に正座して頭の上に本を載せたまま、落とさないように一時間ひたすら耐えることもあった。頭がぐらついて本を落としてしまえば、もう一度初めからやりなおしになるのだからたまらない。

 お常さんいわく、『これは身体のしんをつくるために必要なのでございます。これができるようになれば、常に背筋を伸ばして生活できるようになるでしょう』なのだそうだ。

 そうこうするうちに、鷹乃宮家に多恵がやってきて早くも二週間が経っていた。

 この日も夕方まで頭の上に本を載せて一時間以上正座させられていたため、お常さんの『今日はここまでにしておきましょう』の言葉とともにぐったりと疲れてしまった。

 お常さんが多恵の部屋から出て行くのを正座のまま見送ったあと、彼女の姿が見えなくなったとたんに和室にばたんとあおけになった。

「足がじんじん。はぁぁぁぁぁ、疲れたぁぁぁぁ」

 足の感覚がなくて、しばらく立てそうな気がしない。

 このまま夕飯までごろごろしていよう。幸い、いま部屋には女中は一人もいない。寝っ転がっていたとてお常さんに告げ口されることもないだろう。

 日暮れ前には夕食を食べるのが常だが、冬場は日が暮れるのも早いため、その分夕食の時間も早くなる。きっともうすぐキヨが夕食の時間だと呼びにくるだろうから、それまでは精いっぱいごろごろしておきたい。

 そんなことをぼんやり考えていたら、トントンと部屋のドアをたたく音が聞こえた。

「は、はいっ! どうぞ!」

 お常さんが戻ってきたのかと思って、飛び起きて正座をする多恵だったが、静かにドアを開けて顔をだしたのは洋服姿の聖だった。

「いま、いいか」

「はい。あ、おかえりなさい。今日はおかえり早かったんですね」

「ああ。今日は学校に行ってきただけだから」

 彼は陸軍で職をもちながらも、陸軍大学校にも通っている大層なエリートなのだとお常さんからは教わった。そのため平日は大学校に通いつつ、それが終われば軍の仕事の方に従事したりしているらしい。ちゃんと寝ているのかな? と多恵が心配になるほどの働きっぷりなのだ。そのうえ、鷹乃宮家の本家当主として家のことや一族のこともそつなくこなしているようだ。まだ歳は二十四だというが、多恵がいままでみた誰よりも多忙で重責を背負っているように感じられた。

 聖は和室まで歩いてくると、多恵の前に正座する。

「少しは慣れたか?」

 真面目な顔で聞いてくる聖に、多恵は愛想よく笑顔を返した。

「はい、おかげさまで。みなさんもよくしてくれますし」

 疲れを隠して笑顔でこたえるなんて、なんでもないことだった。いつも笑顔でいることは商売人の基本だと母にはいつも言われていたし、そう心がけてきたのだから。疲れていたってそれを顔に出すなんてへまはするはずないと思っていた。

 でも、聖は多恵を見つめる。どうしたんだろう? と不思議に思っていると、聖が言った。

「少し疲れていそうだな。俺と二人きりでいるときは、取り繕う必要はない。好きに過ごせばいい。ずっと嫁を演じてくれているんだ。こんなときまで演じる必要はない」

 どきりとした。その黒いひとみに見つめられると、何も隠しごとなんかできないような、何もかも見透かされてしまうんじゃないかという気がして、彼の瞳から目が離せなくなってしまった。

 数秒二人で見つめあって、お互いにハッとして目をらした。

「……すまない。ご婦人をじっと見るなんてしつけなこと……」

「い、いえっ、私の方こそ」

 その瞳に、ついれてしまったなんて言えなかった。それと同時に気づいてしまった。

 この人は、どこか自分に似ているんだ。

 物心つくころから定食屋で多くの大人客相手に働いてきた多恵には、相手をよく見て察して動くところがあった。相手が多恵に子どもらしくふるまってほしいと考えていれば幼いふるまいを、大人のように動いてほしいと思っていれば母や他の大人のような動きをするようにしていた。

 商店街の人々、常連客にいちげんさん、機嫌のいい客悪い客、酔った客や落ち込んだ客、母に対しても、どう思っているのか察して動くのが常になっていた。

(この人も同じなのかもしれない……)

 立場は全然違うけれど、聖もまた幼いころから周りのことをよく見て自ら察しながらふるまうすべを身に付けてしまったのかもしれない。

 若いながらも鷹乃宮家の当主として恥ずかしくないように、分家の人たちが彼にこうあってほしいと望むように、屋敷の使用人たちが当主としてこうあってほしいと願うように、沢山の期待を言われなくとも察して添うようにふるまってきたのだろう。

 はじめて彼のことを、なんだかとても身近に感じられた気がした。

「聖さんも……同じです」

 聖はきょとんと不思議そうに多恵を見返す。

「同じ?」

 多恵はこくりと大きくうなずいた。

「私と二人でいるときは、ふるまいを気にしたり取り繕う必要なんてありません。好きなように過ごしてください」

 聖の目が、はっと大きく見開かれる。

「……そんなこと言われたのは初めてだ」

 聖は決まりが悪そうに頰を指でく。

 多恵の顔に自然と笑みがこぼれた。

 和やかな雰囲気になったところで、聖が話を切り出す。

「それで一つ相談があってこちらに来たんだ」

「相談、ですか?」

「ああ。一応、夫婦としての体裁を保つ以上、ずっとお互いの部屋が別々というのも周りからいらぬ憶測を抱かれるかもしない」

 たしかにそうだ。こんな大きなお屋敷にすむ華族の方々の常識はいまだによくわからないけれど、庶民の感覚からすると結婚した新婚の夫婦がずっと別室で過ごすというのもおかしな話だ。

「それで、夜だけでも一緒に過ごした方がいいんじゃないかと思うんだが、どうだろう」

 言いづらかったのか、いつもは冷静な彼の口調がこのときばかりは早口になった。

(夜? 夜っていうと、もしかして……)

 いままで考えないようにしていたことが、現実の問題として目の前につきつけられた気がした。夜をともに過ごすということは、つまり、夫婦としての営みとか、どうきんとか、そういうことを暗に言っているにちがいない。

 聖は前に『もうこの血を次の世代に継がせるつもりはない』と言っていた。子どもをつくるつもりはないが、世継ぎを望む分家の目を欺くために結んだのがこの契約結婚だ。

 でもだからといって、夜の夫婦生活を望まないとまでは言ってはいなかった。

(夜を一緒に過ごすって、そういうこともありえるってことだよね?)

 不安と、妙な胸の高鳴りがいっきに多恵の中で渦を巻く。

 妙に彼のことを意識してしまって顔が急に熱くなった。

(で、でも、それも契約のうちだから、避けるわけにもいかないし……)

 夫婦の営みを拒めば契約違反として屋敷を放り出されてしまうかもしれない。そうなったら、天涯孤独の身の上の多恵に行き場なんてあるはずもない。

 多恵はひざの上のこぶしをぎゅっと握ると、意を決して彼を見る。

「わ、わかりました。今夜から夜は聖さんの部屋にいけばいいんですね」

「……いいのか?」

 こくこくと大真面目に頷くと、聖は目をぱちくりさせたあと小さく笑った。

「じゃあ、待ってる」

 ゆっくりと立ち上がって部屋を立ち去る聖をドアまで見送りにいく。廊下にキヨが控えていた。ついでにキヨにも夜のことを伝えたら、キヨはぱっと顔を輝かせた。

「今夜から一緒にすごされるのですね」

 どこかほっとしたような言い方だった。

(これはもしかして、……いや、もしかしなくても期待されているんだろうなぁ。お世継ぎができること)

 彼女の期待のこもったまなしが内心とても心苦しい。屋敷の人たちと親しくなればなるほど、契約結婚で彼らを欺いている事実に胸が痛くなるものの、割り切るしかないと思い直す。

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