第一章 侯爵家へ契約婚!?⑪
そのあと夕食が終わって寝る支度を済ませると、キヨに案内されて聖の部屋へと向かった。
屋敷が広すぎてまだ中の構造を覚えきれていない多恵だったが、聖の部屋は多恵の部屋からさほど遠くない場所にあった。
キヨがドアを軽く叩くと中から短い返事が聞こえる。キヨは多恵にそっとお辞儀をするとその場をあとにした。あとに残された多恵は、小さく深呼吸してからドアを開ける。
形の上での夫とはいえ男性の部屋に入るなんてはじめてのことだったから、少しの緊張と小さな胸の高鳴りでトクトクと心臓がうるさくなった。
開いたドアの隙間から、ふわりと温かな空気が流れ出してきて多恵の身体を包み込む。
最初に目に飛び込んできたのは洋室の奥にある大きな焦茶色の机だった。その机で分厚い本を読んでいた聖が顔を上げる。
「ああ、来たか。その辺に適当に座っててくれ」
机の前には二人掛けの背もたれのある長椅子が二脚向かい合わせに置かれ、その間に
「茶でももってこさせようか?」
というので、
「い、いえっ」
多恵はぶんぶんと首を振った。忙しそうな彼にそんなに気を遣わせるわけにもいかない。邪魔にならないようにと、長椅子に浅く腰掛ける。
自然と目の前の壁に目が行った。天井までとどくほど高い本棚が壁を覆っていて、難しそうな本がぎっしりと詰まっている。
(うわぁ、すごい……。外国語の本まである……)
雑誌や文庫なら多恵も買ったことはあるが、
つい見とれていたら、ぎしりと長椅子の右側が沈み込んだ。
みると、いつの間にか聖がそばにきていて隣に腰かけている。
「あっちに布団を敷いてもらった。もう遅いから休むといい」
聖は後ろを指さす。本棚と反対側の壁は障子がぴたりと閉じられていた。あちらにもう一部屋、和室があるようだ。こちらの洋室には布団も寝台の
どきどきしながら、
「聖さんはまだ休まれないんですか?」
彼に尋ねると、聖は軽く肩をすくめた。
「まだやることがあるからな。軍の仕事と、大学校の学生の二足のわらじをしているせいで、なかなか学校の課題を終わらせる暇が無い。それでどうしても、夜遅くまでかかってしまうんだ。ああ、あっちの部屋には俺の分の布団も敷かれているが、俺はこっちで寝るから安心してくれ」
と、多恵が気になっていたことを先んじて教えてくれた。
「……え? こっちで? 一緒に寝なくていいんですか?」
きょとんとして尋ねる多恵に、聖は
「いや、別に、一緒に寝る必要はないだろう?」
「え、で、でも、夫婦の営みとか、そういう……えっと……」
はっきりとは言いづらく、でも言わずにはいられなくてもじもじする多恵を見て、聖もようやく多恵が何をいわんとしているかに気づいたようだった。
聖は、どこか気恥ずかしそうに多恵から目を逸らす。
「そのことか。前に、子どもをつくるつもりはないと言っておいただろう。つくらないのだから、そういう行為をする必要もないと伝えたつもりだった。第一、あくまで契約結婚なのだから、そこまでしてもらおうなんて思ってはいない」
「そ、そうだったんですかぁぁぁぁぁぁ」
気の抜けたため息とともに声が漏れる。
ほっとするものの、ほんのちょっぴり寂しさも感じた。
(……え、あれ? なんで……?)
「こっちで寝るって……こちらにお布団をおもちしましょうか?」
「いや、この長椅子で寝るからいい」
「え、ここでですか!?」
「そうだ」
聖はなんでもないことのようにあっさり頷くが、この屋敷の当主たる彼をこんな狭い長椅子で寝かせていいものだろうか。いや、いいはずがない。もし、うっかり屋敷の使用人たちが見たらびっくりすることだろう。
「それでしたら、私がこちらで寝ますから、聖さんはあちらのお布団でお休みになってください」
彼のシャツの
彼はじっと多恵の左手をみていたが、多恵に視線を戻すとふわりと笑った。
彼がそんな風に無防備に笑う姿を見たのは初めてだった。トクンと多恵の胸がひとつ大きく鳴った。
「二人でいるときは、気を遣わなくていいと言っただろう。それに俺はまだしばらく寝られそうにないからな。こっちの部屋の方が都合が良い。ほら、おいで」
聖はパッと多恵の左手首を摑むと立ち上がった。つられて多恵も立ち上がる。ぎゅっと握られた手首が妙に熱く感じた。彼に導かれるようにして障子の方へと行くと、彼は障子を開ける。
暗い部屋には予想通り二組の布団がくっついた状態で敷かれている。
照明は枕元に置かれたランプの
聖は布団の前に多恵を連れて行くと手を離した。次いで、多恵の頭にポンと手を置いてさらりと優しく
「好きな方を使うといい。じゃあ、また
彼はそれだけ言い残すと、和室を出て後ろ手に障子を閉める。外の明かり越しに彼の影が遠ざかって行くのが見えた。
多恵はぼんやりとしながら、さっき彼に撫でられた頭に手で触れる。そんな風に撫でられたのは、母以来のことだ。でも、母に撫でられたとき感じたほんわかとしたあたたかさだけじゃなく、トクトクと心臓が早く鳴っているのが自分でも感じられた。
(なんだろう。この感じ)
戸惑いながらも、自分の中に生まれたこの不思議な感覚の正体を確かめるように多恵は静かに障子に近寄ると、そっとわずかに障子をあけた。
そこから、机の前に座って本を
(私、どうしたんだろう……)
いままでこんな風に自分のことがわからなくなるなんて一度も無かったのに。思えば、この屋敷に来てからだ。それも聖を目の前にするときばかり、自分のことがわからなくなってしまう。
聖にはとてもよくしてもらっていると思う。彼は一見とっつきにくそうだが、実際は多恵がいままで会ったことがあるどの男性よりも紳士的だ。
いまだってこうして、和室の布団を使わせてくれている。
お常さんに教えてもらって、はじめて華族の序列というモノを知った。
鷹乃宮家は、侯爵。これは華族の中でも公爵に次ぐ地位で、自動的に貴族院議員の身分もついてくるというかなり上位の身分なのだそうだ。
町娘にすぎない多恵からしたら天上の存在といってもいい。
(本当なら私なんて床で寝ろと言われたっておかしくないくらいなのに)
聖は偉ぶるところもなく、いまだって布団を譲ってくれている。
(そういえば私、聖さんに気をつかわせてばっかりだよね……)
せめて何か自分も彼のためにできることがあったらいいのに。
布団に入って、ぼんやりと薄暗い天井を眺めながらそんなことを考える。
(私にできることって、なんだろう)
女中として働くこともできない。かといって、侯爵夫人として彼を支えるなんてこともまだほど遠い。日々、お常さんの花嫁教育を受けながら、いかに自分が何も知らないかを思い知らされる毎日だ。
ほんの二週間前まで、まさかこんな日々を送ることになるなんて想像だにしなかった。定食屋として生きて、定食屋として老いて死んでいく未来を疑ったことなんてなかったのに。
(……そうだ。私は、定食屋なんだから、ご飯をつくることならできるかも)
母に仕込まれた料理の腕は、店を訪れる客たちにも好評だった。
(彼にも、私の料理を食べてもらえたらいいな)
聖の口ぶりからすると、彼は毎晩課題などに追われて夜遅くまで起きているようだ。
日が暮れるのが早い今の季節、その分夕飯の時間も早くなる。
遅くまで起きていると、きっと小腹もすくだろう。
(夜遅くまで頑張ってる聖さんのために、何か夜食を作れたらいいんだけどな)
朝昼晩は屋敷に雇われている専属料理人たちが料理を作っているが、夕食の片付けが終われば料理人たちは屋敷の敷地内にある使用人寮へ帰ってしまう。
できることなら、彼らがいなくなったあと少し
明日、厨房長に頼んでみよう。
布団を口元まで引っ張り上げる。
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