第一章 侯爵家へ契約婚!?⑨

「奥様。奥様」

 揺り動かされるのを感じるが、まだ心地よい微睡まどろみの中にとどまっていたかった。

「母さん、もうちょっとだけ……」

 上掛けをひきあげて、むにゃむにゃと眠りにおちかけたところで、耳のそばであきれた声が聞こえた。

「もうすぐ、やかた様がご出発されてしまいますよ。お見送りに行かれた方がいいんじゃないですか?」

(あれ? 母さんより若い声だぞ。それに、御館様って誰だっけ?)

 目をつぶったまま、うーんとけんしわをよせて考えたあと、多恵ははっと目を覚ました。

「御館様!?」

 がばっと跳ね起きる。寝台の脇には部屋へと案内してくれた女中が仁王立ちしていた。腰に両手をあてて見下ろしている姿がなんとも勇ましい。

 一瞬、ここはどこだろうと視線をきょろきょろと辺りに巡らせた多恵だったが、頭がはっきりするにつれて契約結婚のことが思い出された。

 そこではたと気づく。

 夕飯になったら呼びにくると言っていたが、窓の外は鮮やかな陽の光がさんさんと差し込んでいた。多恵が寝台で眠りに落ちてからそれほど時間が経っていないのだろうか。それにしては、ぐっすりと深く寝た実感があった。

「あ、あの……いま、何時くらいでしょうか」

 おそるおそる、仁王立ちしたままの女中に尋ねると、彼女はハァッと露骨に大きないきをついて壁を指差した。

 その先に壁掛け時計が見える。時計の針は六時半を指していた。

「夕方の六時半?」

 小首をかしげる多恵に、女中ははっきりと強めの声で言った。

「朝の六時半にございます! 奥様はあのあとずっと寝てらっしゃったんですよ! 夕飯の時にお呼びに来ましたがまったく起きてくださらなかったんです!」

「ひゃっ!?」

 つまりいままで熟睡して、晩御飯をすっぽかしたあげく朝になってしまったわけだ。

 契約結婚とはいえ、夫の屋敷に来た初日の夜だというのに。

 それはまずい。いくら仮初の夫婦といえど、それでは周りに疑われかねないではないか。

「おやか……じゃ、なかった。えと、聖、さん? はいま、どちらに……?」

 ついうっかり他の使用人たちと同じように聖のことを御館様と呼びそうになったが、すんでのところで言い換えた。

(危ない危ない。奥様が御館様って呼んでたらおかしいものね)

 この契約結婚は大金が絡むのだ。多恵も他の者たちの前ではちゃんと妻然としてふるまわなければ。

「もう支度を済まされて出かけられるところです」

「わかった。ありがとう」

 初日に寝こけてしまったのは申し訳なさすぎるので、せめて見送りに行こう。幸い寝巻きに着替えることなく寝てしまったので、いまの着物のまま彼の前に出ても問題はないだろう。

 せめてぐしで髪を整えようとしたら、女中がすぐさま鏡台からブラシをとってきて、髪をとかしてくれた。

「えっと、すみません」

 庶民生まれの多恵はついつい自分でなんでもやってしまいたくなるが、こういうとき華族の奥様は当たり前のように女中に支度を手伝わせるものなのだろう。

「奥様の身だしなみを整えるのは私の責務にございます」

 女中は、さも当然のことのように言う。彼女が三つ編みをれいに結び直してくれて、ささっと顔に軽くおしろいもはたいてくれる。少し着崩れていた着物も帯を締め直してくれた。手際がとてもいい。

「お名前、なんて言うんですか?」

 なにげなくそう尋ねると、女中は意外そうな顔をする。

「……ささがわきよにございます。キヨとお呼びください」

「キヨさんですね。綺麗にしてくださってありがとうございます」

 多恵はぺこりとお辞儀をすると、ぱたぱたと部屋の外に駆け出す。だが、そこで足を止めた。右を見ても左を見ても、同じような廊下が続くばかりでどちらへ行っていいのかわからず戸惑う。

 そんな多恵のことをキヨは呆れたように見ていたが、深くため息をついた。

「奥様、おそらく御館様はもうお部屋を出られて玄関の方に行かれているかもしれません。先にそちらの方に行ってみましょう。急ぎますがいいですか?」

 そう声をかけてくれたキヨの口調は、最初よりいくぶん柔らかく聞こえた。

「はいっ」

 笑顔で多恵は返事をすると、言葉通りに小走りのキヨのあとについていく。足の長いキヨの小走りは、多恵にとってはほとんど走っているのと同じだ。

 くねくねと複雑に曲がる廊下を進んで、キヨがすっと足を緩めた。

 ほのぐらい廊下の先が、ぼんやりと明るく光っている。見覚えのある表玄関へと到着した。

 しかも、そこには数人の人影が見える。いままさに玄関から出ようとしている軍服姿の二人の背中。大柄の方が大悟で、細身が聖だと気付いた多恵は、その背中に向かって大きな声音で言葉をかけた。

「ひ、聖さん。いってらっしゃいませ!」

 多恵の声に、見送りに出ていた家の者たちも驚いた様子で振り返る。

 聖も足を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。

「ああ、起きたのか。寝ててくれて構わないぞ」

 聖はそう言うが、朝寝坊していては使用人たちの心象も悪くなるばかりだろう。

 多恵はキヨが差し出してくれた草履を履いて聖のそばまでいくと深くお辞儀をする。

「昨日は早く寝てしまってもうしわけありませんでした」

 本当になくて穴があったらすっぽり頭まで入り込んでしまいたいくらいだ。

 しかし聖は怒ることもなく、淡々とした口調で応じた。

「いや、いい。疲れていただろうから。そうだ、ひとつ知らせておくことがあった」

「はい、なんでございましょう」

「昨晩家のものたちに散々言われた。君の振る舞いがどうにも侯爵家の奥方らしくないということで……」

 そのことについては多恵も重々わかってはいた。この屋敷では当主の聖だけでなく、使用人や女中たちの振る舞いも上品で洗練されているように感じる。

 昨日まで定食屋の町娘にすぎなかった多恵にとって、華族の振る舞いやしきたりなんてわかるはずもない。だから、なんだか自分がすごく場違いな場所にいるように思えてならなかった。

 聖は続ける。

「それでもう少し侯爵家にふさわしくなるようにと、花嫁教育を受けてはどうかと言われた。俺は、そんなもの徐々に慣れていけばいいとも思ったんだが」

「はなよめきょういく……ですか?」

「主に、お常がはりきってる」

「お常さんが!?」

 聖の視線が多恵から外れてあががまちの方へと向けられる。多恵も振り向いてそちらに目をやると、お常さんがにっこりと微笑んでいた。

「女中頭のお常にお任せくださいませ。奥様をりっぱな侯爵夫人にしてさしあげます」

 全身から、『逃がしませんよ?』という圧がみなぎっている。

「ひっ……」

「あまり負担をかけたくはなかったんだが、すまないな」

 聖は淡々とした口調で言うので、本当にすまないと思っているかどうかは微妙なところだ。だが、考えてみれば女中として働くのでなければ、この家にいて何をすればいいのか多恵には何も思いつかなかった。

 朝から日が暮れるまで休みなく働き詰めの生活が普通だと思っていままで生きてきたのだ。何もせずただ部屋にこもっているのもつらいにちがいない。

 それならいっそ、花嫁教育でもなんでもいいからやることができるのは多恵にとっても都合がいいのではないか。

 そう思ったからこそ、多恵は笑顔を作って聖に返す。

「いいえ。この家にいさせてもらう以上、恥ずかしくないふるまいを身に着けたいですから」

「そうか。無理するなよ」

 聖は、すっと目を細めた。

「じゃあ、いってくる」

 玄関を出る聖に、大悟が続く。

「多恵ちゃん、またな」

「はい。聖さんも、大悟さんも、いってらっしゃいませ」

 使用人たちに交ざって、二人を見送った。彼らの姿が見えなくなったとたん、お常さんが着物を腕まくりしだす。

「さぁ、私らも参りましょうか」

「ど、どちらへ……?」

「多恵さまのお部屋にございます。あちらのお部屋は和室もございますのでちょうど良いでしょう」

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