第一章 侯爵家へ契約婚!?⑧
前にも同じような儚げな表情をしている客を見たことがあった。それは若い女性だったが、店で一番高い定食をいまにも泣きそうな顔で黙々と食べていたから妙に記憶に残ったのだ。その翌日、彼女は近くの川で変わり果てた姿で浮かんでいた。夜半に夜釣りをしていた釣り人の証言から身投げではないかと噂されていた。
もし彼女が定食を食べていたあのとき、声をかけていたら何か変わったのだろうか。何も変わらなかったかもしれない。でも何もできなかったことが、いまもチクリと胸の中に小さな
なぜだろう。あのときの彼女の表情と、目の前の聖の表情が重なった。
聖は静かに自分のことを語りだす。
「まずは俺のことから話すとするか。俺は鷹乃宮聖という。歳は二十四。現在は、帝国陸軍の近衛第四特殊師団に所属しつつ、陸軍大学校にも通っている。あの火事の現場には、特四が追っているとある怪異の仕業ではないかと思って駆けつけた。結果は違ったみたいだがな。母は俺が幼いときに他界した。父は二年前に
さらに聖は、この鷹乃宮家が平安時代から朝廷に使えていた
「侯爵様、なのですか……?」
「位だけはな。父が突然行方知れずになって、俺しか後継がいないためにそのまま引き継いだ。鷹乃宮家の直系は俺だけになってしまったが、分家の人間は沢山いる。そのほとんどが軍部や政治の中枢で職を得ている。……それで契約結婚の話に戻るが、その分家連中が早く跡取りを作れと再三言ってくるのを誤魔化すために、いまだけ婚姻している形にしたいんだ」
分家に跡取りを望まれるというが、それはそうだろうなと多恵も内心思う。これだけの屋敷があるということは、継いでいかなければならないものも沢山あるのだろう。商店街の町民たちですら、跡取りをどうするかと悩む話は多く耳にした。息子がしっかり跡を継いでくれたり、良い青年を跡取り息子に迎えられれば安泰だと喜んだものだ。
多恵の母もいずれは誰か良い青年と一緒になって店を守っていってほしいと言っていた。もうそれは
「実のところ、俺はもうこの血を次の世代に継がせるつもりはない。できれば鷹乃宮家自体を解体したいと思っている。でもまだそれには時間がかかる。だから、それまで世間と分家を欺くために形だけ結婚したということにしたい。期間は最長でも十年。おそらくそれより短くなるとは思う。契約のあかつきには、火事での損害金すべてを鷹乃宮家でみよう。そのうえ、離縁したあとは責任をもって良い縁談をさがすし、離縁金も払う」
聖はそこで、傍らに置いた書類
ゼロが沢山あって、数えきれなかったのだ。指で押さえながら声に出していく。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……
見間違いじゃないかと思って、もう一度ゼロから数えていくが何度数えても二萬円だった。多すぎて、実感がまったくわかない。多恵の店の定食はほとんどが十銭だ。
百銭が一円となるので、一円で十食食べられる。二萬円なら、
「定食、二十萬食分!?」
わけがわからないほどの大金だった。
「それだけあれば、生涯くらしていくのに不足はないだろう」
聖はあっさりと言う。
「火事の損害金、こんなに必要ないかもしれないじゃないですか!?」
てっきりこの離縁金の中から火事の損害金を払うのだと考えた多恵だったが、聖は「いや」と言葉を続ける。
「損害金は実費負担する。つまり、それとこの離縁金は別ということだ」
あまりの金額に多恵は頭がくらくらしそうだった。
「足りないならもっと出してもいいが?」
戸惑いのあまりそれ以上言葉が出ない多恵を聖は金額が不服だと思ったのか、さらにふっかけてきた。
「い、いえっ! これでももう過ぎるくらいですっ!」
「じゃあ、契約成立でいいんだな」
契約成立……ここで、婚姻届に名前を書けば、多恵は目の前の侯爵様と結婚することになる。そうなれば、仮にも侯爵夫人と呼ばれる立場になるのだ。それがどういうことなのか、実感としてはさっぱりわからなかった。
ただ、数時間前に出会ったばかりの単なる町娘にすぎない自分にそこまでして契約結婚を望んでくるだなんて、そこにはまだ何か多恵には
それに、この契約結婚の申し出を
「わかりました」
一言、短く言うと多恵は万年筆を取った。
そして婚姻届の新婦の欄にさらさらと自分の名前を書きつける。契約書の方にも名前を書いたあと、これでいいのかと聖を見る。
「すまない。この恩は一生忘れない」
聖は
二つ並んだ名前。これを役場に提出すれば、二人は正式な夫婦だ。
(母さん、どうしよう。私、この人の妻になっちゃったよ……)
母も草葉の陰で驚いていることだろう。いい人と結婚できればと願っていた母だったが、まさか帝国軍人で侯爵なんていう雲の上の人と結婚するなんて思ってもみなかったことだろう。多恵自身も、数時間前まで自分がこんなことになるとは想像すらしていなかった。
聖は書類を確認すると、人を呼んだ。すぐに、三つ揃いをきっちり着込んだ中年の男性がやってくる。聖は婚姻届は役場へ、契約書は弁護士に渡すように彼へと命じた。彼は聖の秘書か執事のようだ。書類を受け取ると、聖と多恵に軽くお辞儀をして部屋を出て行く。
それを見届けて、聖はふぅと小さく息を吐きだした。肩の力が抜けて、心底
改めて見てみると、本当に男前な人だなとしみじみ感じる。
ひきしまった
きっと和服姿も
「家の使用人たちには結婚のことは伝えてある。何かあったらすぐに俺に知らせてくれ。鷹乃宮家の当主の嫁になったからには、不自由はさせない。ほしいものがあれば、なんでも言ってくれてかまわない」
少し考えてみたが、ほしいものなんて思いつかない。望みを言うならば、もう一度定食屋を再開させてみたかったが、侯爵夫人の立場的にそれは叶いそうにないことくらい多恵にもわかっていた。
「夜露がしのげれば充分です。それより、その……これからよろしくお願いします。ふつつかものですが、精いっぱい契約嫁をつとめさせていただきます」
大真面目に言ったつもりなのだが、聖はわずかに苦笑を浮かべた。
「こちらこそ。祝言は、いずれはあげることになるだろうが、分家やあちこちとの調整があるからな。まだしばらく先になるだろう。焼け出されて私物はなにもないだろうから、すぐに一通りそろえさせる。ひとまず部屋に案内させよう。晩飯まで休め」
「は、はいっ」
ぺこりとお辞儀をすると、聖が呼んでくれた女中とともに部屋をでた。
迎えに来てくれた女中は、すらりと背が高く、黒髪を粋に結っているキリリとした美人だった。身分の高いお屋敷は使用人まで高水準らしい。
(それはそうか。これだけのお屋敷だもの。普通は使用人になるのだって大変よね)
きっと女中たちですら多恵よりも
「こちらが、奥様のお部屋になります。どうぞおくつろぎください」
女中はにこりともせず、こちらと目を合わせようともせずに必要事項だけを簡潔に述べる。その態度にはどことなく
聖は多恵が彼の妻になることを屋敷の人たちに知らせてあるとは言っていたが、納得なんてできないだろう。当主様のご乱心か!? と思いたくなっても、その気持ちは充分よくわかる。多恵自身だって、いまだにわけがわからないのだ。この屋敷にだって、女中として働くつもりでやってきたはずだったのだから。
「ありがとうございます」
多恵は丁寧に礼を言ってお辞儀をすると、ドアに手をかけて押し開けた。
そして、部屋の中を見て、すぐさまパタンとドアを閉めた。
「あ、あの……本当にこの部屋であってるんでしょうか」
女中は、何を言っているんだ? この小娘はという目で多恵を見た。
「間違いありません」
「そ、そうですか……」
再び、そっとドアを開けて隙間から中を
目の前に広がるのは定食屋がそのまますっぽり入ってしまうのでは!? というほどの広い洋室だったのだ。
驚いたのは、その洋室の奥には畳が敷かれた和室まであるのだ。
「え、えと、ここに何人くらい寝起きするんですか?」
念のため後ろに控えている女中に聞いてみるが、彼女は冷たく答える。
「奥様ひとりでございます」
(や、やっぱり……)
こんなに
多恵はそっと部屋の中に足を踏み入れる。きょろきょろとお上りさんのようにあたりを見回していると、
「それでは、夕食の際にまたお呼びに参ります」
そう告げて女中は部屋から出て行った。
一人で広い部屋に残されると、どこにいればいいのかわからなくなってしまう。
寝台に腰かけたら、想像以上に柔らかくてびっくりした。
そのまま、ぽすっと寝台に背中から倒れこむ。急にどっと疲れを感じて起き上がれなくなった。
(なんで、こんなことになっちゃったんだろうなぁ)
ようやく一人になれたことで、急に寂しさが募ってきた。
(母さん、ごめんなさい。私たちの店、なくなっちゃった)
物心ついてからずっと自分を
あんなことになった以上、もう二度とあの商店街に戻ることもできないだろう。
しかし、次から次へと予想外のことが続いて精神的にも身体的にも疲れていたのだろう。気が付くと多恵は泥の沼に沈み込むように深い眠りに落ちていた。
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