第一章 侯爵家へ契約婚!?⑦

 なにがなんだかわからない。その間にも多恵の三つ編みはきれいにほどかれる。泥がついて固まってしまったところも、椿油をつけたくしでやわらかくほぐしたあと風呂場へと連れていかれた。

(これが、お風呂ですか!?)

 目を見張った。風呂屋をやっているのかと疑いたくなるほど大きな湯船には、真新しい湯がたっぷりと張られている。しかもその大きな浴槽はすべて新しい木材でつくられており、なんともさわやかな香りが漂っていた。

 そこで多恵はあれよあれよと三人の女中たちに丁寧に洗われて、磨かれた。何やらいい香りのする乳液を身体に塗られ、清潔なじゆばんを着させられる。

 それで終わりかと思えば、今度は脱衣所の端に置かれた鏡台の前に座らされて髪をかれ再び三つ編みに編み上げてもらった。

 そのうえ薄く化粧を施され、さらに別の女中がどこからともなく持ってきた薄桃色の上等な着物を襦袢の上に着させられる。

 そのころになるともう多恵の頭の中は疑問符ばかりになっていた。

 なぜ女中の身にすぎない自分、それも多額の借金のカタとして働くことになった一番身分の低い女中になるはずの自分が、こんなにも手をかけて綺麗にしてもらい、そのうえ値段の見当もつかないほど上等な着物に着替えさせられているのだろう。

 混乱しているうちにもどんどん身づくろいが整っていく。気がつけば鏡の中の多恵はまるで良いとこのお嬢様のような姿に生まれ変わっていた。

「可愛くなられましたよ」

「ええ、とっても」

 女中たちもなぜか得意げだ。

「ささっ、やかた様がお待ちです」

 再び女中たちについて長い廊下を歩き、くねくねと幾度も曲がって自分がどこにいるのかわからなくなってきたころ、とある部屋の前にたどり着いた。

 女中の一人がトントンとノックをする。

「お連れしました」

 声をかけると、中から「入れ」と男性の声が返ってきた。

 ドアを開けてもらい中に入ると、そこは洋間だった。

 大きな窓から冬のせいひつが差し込んでいる。室内には、低い卓ローテーブルを囲む形で両側に長椅子が置かれていた。その長椅子の奥の席に、白い立襟シャツに紺のズボンを穿いた洋装の男性が座っている。

 一瞬遅れて、それが聖だとわかった。初対面が軍服姿だったため、すぐにはわからなかったのだ。

「こっちへ座ってくれ」

 反対の席を手で示され、多恵はぺこりとお辞儀をすると長椅子へ近寄る。

 そのとき、彼の傍らにあの軍刀が置かれているのに気づいて、一瞬どきりとして足が止まった。

 定食屋には軍人さんもときたま来ていたし、中には軍刀を持っている人もいたのだが、いまのように恐ろしさを感じることなどなかった。それなのに、なぜか彼の持つあの軍刀だけはどうにも苦手だった。

「どうした?」

 いぶかしげにする聖に、まさかその刀が怖いですなんて言えず、すぐに長椅子へと腰を下ろす。

 座るとすぐに、聖はすっと一枚の白い紙を差し出した。そこには何やら枠がいくつも印刷されている。見たことのない書類に多恵は目をぱちくりとさせたが、一番上のところに書かれていた文字を見て目を見張った。

『婚姻届』

 はて。一体誰が結婚するのだろう。不思議に思っていると、聖は紙の横に万年筆を置いた。持ち手は多恵の方を向いている。

「これに署名をしてほしい。それが、火事の損害金をすべて肩代わりする条件だ」

 聖はまったく表情を動かさず、相変わらず抑揚が薄く冷たさすら感じられる声で告げる。

 多恵は、喉の奥にもちでもつまったかのような苦しさを覚えた。驚きのあまり、数秒息をするのを忘れていたのかもしれない。

 ごくりとつばを飲み込んで、ようやく声が出せた。

「こ、婚姻届って、どういうことでございますかっ!?」

 多恵が声を荒らげると、今度は聖が目を見開いた。

「お前、字が読めるのか?」

 町娘だと侮られていたことに気づき、かっと顔が熱くなる。多恵は、キッと強いひとみを聖に向けた。

「母が、商売人は読み書きそろばんができないとだめだと言って、幼いころから仕込んでくれました。わからないと思って、勝手に誰かと結婚させようとしたのですか!? 身売りなのだと知っていれば、ついてきたりしなかったのに!」

 両目に涙がにじんだ。悔しかった。何も知らない小娘だと思われて、この届に名前を書かせて勝手にどこかへ売り飛ばそうという魂胆なのだろう。

 やっぱりうまい話なんてない。安易に、ひょいひょいと知らない相手についてきてはだめだったのだ。損害金は自分で働いて返そう。それしかない。

 多恵は右腕で涙を乱暴にぬぐうと、すくっと立ち上がる。

「お貸してくださって、ありがとうございました。失礼します」

 そのまま部屋から出ていこうとしたが、後ろから聖の声が引き留める。

「どこへ行く? 行くあてはあるのか?」

 ぎくりとして多恵は足を止めた。

 本当のことを言うと、まったくない。母からは親類縁者がいるという話も聞いたことがないし、父の存在は生まれたときから知らない。母も父についてはほとんど話したことがなかったから、多恵の方からも聞くことはないまま母は亡くなってしまった。

 唯一母が残してくれた定食屋もいまは炭と化している。少ないながらもめていた売上金も燃えてしまった。つまり、今日寝る場所もないし、一銭すら手元にはないのだ。

 後ろから聞こえる聖の声が、とても冷たく思えた。

「町の人たちへの賠償はどうするんだ。お前一人で払えるのか?」

 払えるわけがない。一生かかったって到底払える金額ではないだろう。それがわかってて、この人はあえて聞いてくるのだ。現実を突きつけて、多恵の心をくじくために。

(逃げるつもりなんてないもの……)

 町の人たちの顔が脳裏に浮かんだ。火事があったあと激しく詰め寄られたが、みな多恵が幼いときから付き合いのあった人たちだ。多恵たちの店の料理を美味おいしいと言ってよく食べに来ては、雑談に花を咲かせる気安い間柄だった。

 そんな彼らの家も店も家財道具も、多恵の店から出た火事により失わせてしまった。そのことが何より、多恵の心に痛みとなって突き刺さっている。

 彼らのことを思うと、たとえどんな未来が待っていようが逃げ出すことなんてできなかった。

 多恵はぐっとこぶしを握ると、腹を決める。一度は、女衒ぜげんに売られることも覚悟した身だ。たいして変わりはしないじゃないか。

 多恵はかたい表情のまま、再び長椅子に座った。

「わかりました。どこの誰ともしれませんが、婚姻を結べばいいんでしょう!? それで町のみんなの生活は保障してもらえるんですよね!」

 不安に押しつぶされそうになる気持ちをなんとか奮い立たせようと、自然と声が大きくなる。

 しかし多恵の剣幕をよそに、聖の態度は淡々としたものだった。

「別にお前を身売りさせるつもりはない。これは確かに婚姻届だが、夫となるのはこの俺だ。俺と仮の契約結婚をしてほしくてお前をこの屋敷に呼んだんだ」

「……へ?」

 聖の話が聞こえているのに、頭の理解がついていかない。なぜ、こんな巨大な屋敷を構えて多くの使用人をかしずかせている、お金も地位もありそうな目の前の青年が、自分のような天涯孤独の町娘と結婚しようというのだろうか。

 しかも、聞きなれない言葉に思わず多恵は聞き返す。

「契約結婚、ですか?」

「ああ。俺と形だけ夫婦だということにしてほしい。十年でいい。もしかしたらそれよりもっと短く済むかもしれない」

「十年……?」

「長くてもだ。それと、これから俺が話すことは他言無用で願いたい」

 彼の表情が、わずかにゆがむ。店の手伝いで沢山の客を見てきた多恵は、それがとても気になった。

 それまでかんぺきなまでの無表情で鋭さや冷たさすら感じさせていた彼が、急にどこかひどはかなげに見えた。

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