第一章 侯爵家へ契約婚!?⑥

 馬に揺られているといつしか二人は大きな屋敷が並ぶかいわいにきていた。

 ほとんど下町から出たことがない多恵は、周りの屋敷の大きさに驚いていた。

 しかも、聖はなんの迷いもなく、一際大きな屋敷の前までやってくる。

 馬車が並んで通っても支障ないほどの立派な門構え。門にがわらがふいてあるのを多恵は初めて見た。門の周りには、純白の壁がずっと遠くまで続いている。

 そういえば、聖は自らの名字を『鷹乃宮』と名乗っていたのを思い出す。まず庶民ではなさそうな名字からしてもきっと立派なお家柄なんだろうなと思っていたが、まさかここまでとは想像だにしていなかった。

 その大きな門を、聖は馬に乗ったままくぐり抜けた。門番らしき男が恭しく頭を下げている。

 門を抜けても玉砂利を敷いた道が続き、両側によく手入れされた植木が林のように連なっている。

 玉砂利の道の先には、堂々とした日本家屋がたたずんでいた。その表玄関の前に、十人ほどが並んでお辞儀をしている。男女半々くらいだ。みな和服姿で女性たちはこの屋敷の女中、男たちは下男のようだった。

 聖は表玄関の前までくると馬を下り、次に多恵を支えて下ろした。

 すぐに先頭にいた白髪の女性が聖の前に進み出る。薄緑色の無地のつむぎを着たかなり年配のご婦人だったが、背筋がピンと伸びて身のこなしに気品が漂う。

「聖様……いえ、やかた様、大悟さんから話はお聞きしました。いったいこれはどういうことなのでございますか!?」

 女性は明らかに動揺している様子で聖に言い募る。そして、聖の後ろで小さくなって控えている多恵へ目をやると、露骨にまゆをひそめた。

(女中の中でも一番位の高い方かな。今日からこの屋敷で働く予定の私があまりにみすぼらしいので嫌になったんだろうな)

 今の多恵は、消火の水でぬかるんだ地面に土下座したせいで無惨な程に泥で汚れており、着物もどろどろだ。

 顔も何度か泥のついた手でぬぐってしまったので、きっとひどい有様だろう。

 しかし聖は多くは語らず、

「大悟が伝えた通りだ。おつね。彼女をに入れてやってくれないか」

 表情ひとつ変えずに彼女に言った。

 お常と呼ばれた女性はもう一度多恵のことをまじまじと上から下まで見ると、

「わかりました。いま、みの準備をさせます。さあ、みんな自分の持ち場にもどって」

 パンパンと手をたたいた。他の者たちは聖に一礼してその場を去っていく。

 なんとなく多恵にも一礼していたようにも見えたが気のせいにちがいない。

「さあ、こちらにいらっしゃいませ」

「は、はいっ」

 お常さんに連れられて表玄関から屋敷へと入る。

(あれ? なんでこっちから?)

 てっきり裏の勝手口へまわるのだとばかり思っていたのに、お常さんは表玄関のよく磨き上げられたあががまちをあがって、そのままスススと長い廊下を進んでいく。

 遅れをとって見失っては大変とばかりに多恵は急いで草履を脱いであり框にあがりかけて、足を止める。

も泥まみれだった! ど、どうしよう……ううん、𠮟られてもしかたないか。泥で汚すよりましよ、うん)

 急いで足袋をぬぐと、手に持ってお常さんを追いかけた。

 しばらく小走りになってようやく彼女の背中をみつけてほっと息をつく。

 この屋敷にはいくつも部屋や廊下があって、すぐに迷ってしまいそうだ。

 廊下には高価な窓硝子ガラスがふんだんに使われている。窓硝子なんてほとんどお目にかかったことのない多恵には、室内にいるのに外の景色が見えることがなんとも不思議な心地だった。

 その硝子戸から外に目をやると優美で広大な庭が見渡せた。手前に池があり、池の周りには様々な樹木が植えられていて、そのすべてがれいせんていされている。さらに奥には蔵のようなものもいくつか見えた。どれだけの庭師が日々手をかけて整えているのだろう。

 この屋敷にしたって、表玄関で見たときも随分大きな屋敷だと感じたが、中に入ってみると予想をはるかに超えて奥行きもあった。

 時折すれ違う使用人の数も多い。この屋敷だけで一体どれだけの人間が働いているのか、多恵には想像すらつかなかった。

(これは働きがありそう)

 ぼんやり考えていたら、突然お常さんがぴたりと足を止めたため多恵も慌てて立ち止まる。思わずお常さんの背中に鼻づらがぶつかりそうになったところで、彼女がくるりとこちらを向いたので、ひっとのどから変な声がでてしまった。

「もう湯は沸いておりますゆえ、こちらでお脱ぎください。いま、他の者も呼んでまいります」

 至近距離なうえに真顔で言われたので、多恵の声もひきつったまま、

「ひゃ、ひゃいっ」

 なんとか返すのが精いっぱいだった。お常さんが恭しく引き戸を開けてくれる。

 中に一歩はいると、そこは脱衣所のようだった。服を脱ぐためだけの場所なのに、多恵が母と一緒に住んでいた部屋よりはるかに広い。

 町にある銭湯の脱衣所なら人でごったがえすのだろうが、いまはぽつんと多恵一人しかいないのがなんとも心細かった。こうもだだっ広いと、どこにいていいのかわからなくなってしまう。脱衣所のすみっこで、着ているそでの帯に手をかけてするりとほどいたときだった。

 トントンという音とともに「失礼します」という声が聞こえた。

「へ?」

 帯がほどけてぱらりと着物の前が開くのと、脱衣所の引き戸が開けられるのが同時だった。

 たすき掛けをして袖をまくった女中たちが四人、どやどやと入ってくるのを見て、多恵は慌てて前を隠す。

 だが女中たちは気にした様子もなく、揃ってぺこりと頭を下げた。

「私たちが湯あみのお手伝いをさせていただきます」

 その言葉に、多恵は目をぱちくりさせた。

「え……えと、お風呂なら一人で入れます……が……」

 なにゆえにこんなに人が集まってきたのかわからなかった。しかも、十八になったばかりの多恵とさほど歳の変わらない者たちばかり。手伝ってもらうのも気恥ずかしい。できれば、というか、断固一人で入りたかったのだが、女中たちはかたくなに譲らなかった。

「それでは御館様に𠮟られてしまいます。徹底的に綺麗にするようにと仰せつかっておりますから」

 多恵もそこまで言われればそれ以上拒否することもできなかった。

 脱ぐのを手伝ってもらうと、泥まみれの多恵の着物を女中の一人がどこかへ持っていこうとした。

「あ、あの! それは捨てないでほしいんです!」

 あまりの汚さに捨てられてしまうのかと心配になったが、女中は着物を大事そうに胸に抱えて軽く頭を下げると柔らかく微笑んだ。

「心得ております。洗濯して干しておきますね」

「え、で、でも、自分でできますからっ」

 まさか先輩にあたる女中に自分の古着を洗わせるなんてもってのほかだ。しかし、彼女はそのまま有無を言わせぬ笑みをたたえて、フフフとその場を去ってしまった。

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