第一章 侯爵家へ契約婚!?⑤

 一体何が起こったのか、多恵自身さっぱりわかっていなかった。

(お屋敷に来てくれって、どういうことだろう……。もしかして、女中として働けってことなのかな)

 きっと、賠償金を働いて返せと言うことなのだろう。だとしたら、身を粉にして働くしかない。そう心に決めた。いや、決心する以外に選択肢などなかった。

 聖が黙って手を差し出してきたので、多恵は少ししゆんじゆんしたあと、彼の手を取った。ひっぱりあげられるようにして立ち上がる。

「さあ、いくか。もうここには用はないだろう」

 聖に言われ、多恵はあらためて定食屋に目を向ける。火の玉の化け物を聖が成敗してくれたおかげか、それまでの業火が噓のように消火作業は順調に進んでいる。定食屋の建物は、もはや炭化した骨組みが残るのみになっていた。

 母との思い出のつまった調理器具も、店も、数少ない雑貨も、母がつくろってくれた古着もみな燃えてしまった。

 残っているのは、多恵の身一つだけだ。でも、母との思い出はいまも多恵の心の中にぎゅうぎゅうに詰まっている。

 多恵は胸に手を当てて自分が育ったこの場所に「いままで、ありがとう」と心の中で別れを告げると、聖に視線をもどしてこくんと頷いた。

 そのとき、通りの向こうから大悟が聖の刀を手にして戻ってくるのが見えた。しかも驚いたことに、自らも黒毛の馬に乗りつつ、器用にもう一頭白馬の手綱も引いている。

 大悟は多恵たちのところまでくると、刀を手に持ったままひょいっと馬から降りた。

「そろそろ撤収やろ? 馬もつれてきたで」

「ああ、助かる」

 大悟が聖へ刀を渡すと、受け取った聖はするりとさやに戻した。とてもれいな所作だ。

 多恵は、刀身が鞘に納まるまで無意識に刀を目で追っていた。あの刀を見ているとなぜか落ち着かない気持ちになる。ぞわぞわと底知れぬ怖さが湧いてきてしまって、目をらしたいのについそちらに視線がいってしまうのだ。刀がチャリと音を立てて鞘に納まるのを見届け、ほっとあんした。

 一方、刀を仕舞った聖は大悟に顔を近づけると、そっと何かを耳打ちした。

 多恵には聖が何を言ったのか聞こえなかったが、次の瞬間、大悟はとても驚いた顔をした。そして、ぎょっとしたように多恵をまじまじと見たのだ。

「え、ほ、ほんまに!?」

 大悟がぜんとした様子で聖に問うが、聖はすました顔で「ああ」と返すだけだった。

 多恵は、なぜ彼がそんなに驚いているのかわからず、とりあえず愛想笑いを浮かべて小首をかしげる。もしかして、多恵の損害金を肩代わりしてくれるという話を彼にしたのだろうか。そのため聖の屋敷で奉公することになった多恵をいぶかしく思っているのかもしれない。

(……当然だよね)

 どれだけ身を粉にして働いたとて、一生かかっても返せるかわからない金額を肩代わりしてもらうことになったのだ。多恵は肩身を狭くしながら、うつむいた。

「ほんまにほんまなん!? 冗談じゃのうて!? いや、お前はそんな冗談言うやつちゃうか。そやけど、ほんまに、それでいいん!?」

 大声で聖に問いただす大悟だったが、聖は静かに、けれど強い意志のこもった声で返す。

「いいんだ。もう決めた。それより、俺は彼女と戻るから。お前は先に屋敷に戻ってうちの者たちにいろいろ整えるように言っておいてくれ」

 大悟はまだ何か言いたそうに多恵を見ていたが、

「わかった。聖がこうと言い出したら、変えるわけないもんな。先、帰っとくわ。聖、それと、ええと、なんっちゅう名前やったっけ」

 大悟に聞かれ、多恵はまだ二人に名前を言ってなかったことを思い出す。

「多恵です! なおらいって言います! よろしくお願いします!」

 ぺこりとお辞儀をする。あわただしく三つ編みが揺れた。

「多恵ちゃんか。これからもよろしゅうな」

 大悟はにっこりと笑顔で多恵に言うと、

「ほな、オレは先に戻ってんな」

 聖に短く言葉をかけ、再び黒馬にのって通りを去っていった。すでに火事の炎はほとんど鎮火しつつあったが、まだ野次馬はどんどんやってくる。

 その混み合う通りを大悟は巧みなづなさばきで駆け抜けていく。すぐにあの大きな背中が見えなくなってしまった。

「俺たちも戻るか」

 聖はそう言うと多恵の後ろにまわり、背後から不意に多恵の腰のあたりを両手で挟むように摑んだ。

「きゃっ!?」

 そのうえそのまま抱き上げられて足が浮きそうになり、慌てた多恵は思わず両手をばたつかせる。

「暴れるな。馬に乗せるだけだ」

 肩越しに聖の冷たい声が聞こえる。

 そこではじめて、彼は多恵を馬に乗せようとしているのだと気づいた。

 白馬もお行儀良く、二人の真横で人が乗るのを待っている。

 てっきり、自分は馬の後について歩いていくものだと思っていた多恵は狼狽うろたえた。

「え? う、うま!? で、でも私、馬にのったことなんてありません!」

 こんな背の高い生き物に乗るだなんて想像するだけでもおっかなかった。

「お前だけ徒歩で連れていくわけにもいかないだろう。乗せるぞ」

 有無を言わせない聖の言葉に、多恵はひっと首をすくめる。抵抗が止まったことで了承ととったのか、聖は多恵の腰をつかんだままひょいっと高く持ち上げた。多恵の視線がぐっと高くなる。

「ほら、馬の背に両手をついてまたがるんだ」

「ひやっ」

 視線が高いだけでもおっかないのに、目の前の馬に跨れと聖は言うのだ。

 多恵は泣きそうになりながらも、必死に馬の背に手をついて、よじのぼるように跨った。

 なんとか馬の背に乗ると、すぐにその後ろへ聖が乗ってくる。

 足がぶらつく不安定さを心細く思っていたら、聖がさりげなく多恵の腰に手を回した。

 さっきから腰のあたりを持たれてばっかりだ。

 支えてくれているのだ、そうわかっていても心が落ち着かない。

「行くか」

「は、はいっ」

 大悟とはちがい、聖は馬をゆっくりと進ませる。通りにまだ人が多く出ているせいかと考えるものの、ふと、もしかして多恵を不安がらせないようにするためかもしれないと思い立つ。しかし、すぐに心の中で否定した。

(まさか、そんな……ね……)

 さっきまで大事な定食屋が燃えてしまって絶望のふちにいたというのに、いまは軍人さんに支えられて白馬にのっていることに、なんとも現実感がなくて心がふわふわしてしまう。

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