第一章 侯爵家へ契約婚!?③

 店主たちからはでたらめだと言われ、火を点けた責任から逃れたいがためのたわごとだとなじられた。彼も、きっと同じだろう。あんな化け物、言ったところで信じてもらえるはずなどない。多恵自身も、本当に見たのかと自分の記憶を怪しみたくなるくらいなのだから。

 しかし、青年はじっと多恵を見つめていた。

「見たものをそのまま言ってくれるだけでいい」

 その声はへいたんで、多恵を責めたり疑う調子は感じられない。ただ、真実を知りたくて尋ねているだけのようにも聞こえた。

 ごくりとつばを飲み込むと、多恵は思い切って話し出す。

「火の玉を、見ました。ちゆうぼうで昼定食の準備をしていたら、窓から転がるように入ってきたんです。真ん中に老女のような顔があって、ニタニタとわらっていました」

 彼は多恵の言葉を否定することもあざけることもなく、ただ、「そうか」とうなずいて視線を燃える定食屋に移した。

 そのとき、燃え盛っていた定食屋の建物がついに原形を保てなくなったのか、道路側へぐらりと大きく傾いた。客席のあった一階部分が大きく崩れたのだ。

 支柱の一部を失った定食屋の建物は二階部分を支えきれなくなり、二階にあった住居部屋がそのまま道路の方へと転がるように落ちてきた。

 多恵は定食屋から十尺ばかり約3メートルのところに座り込んでいた。その多恵のところにまるで狙いすましたように二階部分が落ちてくる。

 どこからか『イヒヒヒヒ』と嗤う声が聞こえた気がした。老女の顔のついた火の玉の声だ。あいつの仕業にちがいない、多恵を狙っているのだととつに感じる。

 しかし、多恵は動くこともできず、ただ目を見開いて固まるしかできなかった。

 まるで時間が遅くなったかのように周りの情景がゆっくりと動いて見えた。

 母と過ごした思い出の部屋が燃え盛る炎の巨大な塊となって多恵の前に迫ってくる。

(母さん……!)

 こんなに早く母の下に逝くことになるとは思いもしなかったけれど、死を覚悟した。

 その直後、目の前がふさがれ、誰かに抱きしめられたような感触があった。

 それと同時に、すぐ頭の上を何か巨大なものがブンと風音を立てて横切る影が見える。

 次いで起こった、すさまじいごうおんと舞い上がる火花交じりのすなぼこり

 思わず目を閉じ何度かせきをし、多恵は自分がまだ生きていることに気づく。

 ゆっくりと目を開けると、目の前にさらさらの黒髪が見えた。

 あの軍服の青年だった。彼の腕の中に抱き留められるようにして多恵は地面に座り込んでいた。

 顔を上げた彼と目が合う。彼の切れ長の目が多恵をみつめている。

「大丈夫だったか?」

「……は、はいっ」

「そうか」

 彼が身をていして助けてくれたようだ。

 礼を言わなければと思うのに、顔の近さにどぎまぎしてしまって上手うまく言葉が出てこない。

 そこに、あわただしい足音がひとつ聞こえてきた。音の方へ目を向ければ、背の丈が六尺は軽くありそうな大柄の男がこちらに駆け寄ってくる。彼も軍人のようで、年の頃は目の前の青年と同じくらいに見えた。

 大男はあきれた口調で言い放つ。

「なにちんたらやってんねん。危うく燃えた建物の下敷きになるところやったやんか」

 関西弁とともに彼が指さした先を見て、多恵はヒッと喉を鳴らした。

 多恵のすぐ近くに、ぐしゃぐしゃに壊れた二階部分とおぼしきざんがいが落ちていたのだ。ほとんどが炭化して黒くなり、まだあちこちに火が残っている。

 建物の崩壊に巻き込まれずに済んだのは、奇跡に思えた。

 その壊れた建物の残骸の中に、赤く塗られた鉄の塊のようなものも見えた。

「何を投げた?」

 抑揚のない声で尋ねる青年に、大男は肩をすくめた。

「そこにあった蒸気ポンプ。あれくらいの重量がないと、家なんて吹き飛ばせへんからな。あー、難儀やったわ」

 大男は疲れた様子で片腕を回した。

 どうやら、多恵と青年の上に倒れ掛かってきた定食屋の二階部分を、大男はあの蒸気ポンプを投げてはじき飛ばしたらしい。

 人間技とは思えない。わけがわからなかったが、実際に多恵は無事だし、傍らにはぐしゃぐしゃになった二階部分と蒸気ポンプが一体となって落ちているのだ。

 定食屋はというと、二階部分がなくなり、一階も道路側は半壊してしまっていた。辛うじて一階の奥側だけが燃えながら建っている状態だ。

 青年は多恵の身体を離すと、燃え盛る定食屋に向かい合うように立つ。

 胸ポケットから何やら紙切れを取り出した。見慣れない文字がたくさん書きつけられた縦長の紙だ。青年はその紙を細かく千切りながら何かブツブツとつぶやいたあと、ぱっと投げた。辺りに、紙切れが舞う。その紙切れが多恵の視界を遮るように落ちていき、全て落ち切ったとき、定食屋の屋根を転がる炎の塊が見えた。定食屋に火をけたあの火の玉だ。

「……え? え!?」

 驚く多恵に、

「隠れていたからな。顕現させた」

 青年がこともなげにいう。

 火の玉の真ん中にある老女の顔が『イヒヒヒヒヒ』と不吉な声をあげて嗤っていた。

「……あ、あれ! あれが、うちの店に火を点けたんです!……やっぱり、幻なんかじゃなかったんだ……」

 思わず声をあげた多恵。信じてもらえるだろうかと一抹の不安が胸をよぎるが、青年と大男は驚きもせずに火の玉を見上げていた。

「やっぱりアイツちゃうかったな。そんならよ片付けて、とっとと帰ろうや」

 大男はポキポキと指を鳴らした。

「ああ、あれはテンのようだな。それならすぐに討伐出来る」

 青年は右手を前につきだし、何かを唱えながら次々に指を組み替えていく。

「ノウボ バギャバトウ ウシュニシャ オン ロロ ソボロ ジンバラチシュタ シッタロシャニ サラバラタ サダニエイソワカ」

 彼の声にきつけられる。決して大きな声ではないのに、耳が彼の声を少しでも拾おうとする。意識を向けたくなる。

 すると、今日は雪など降っていなかったはずなのに、どこからともなく雪がちらつき、空っ風に乗って辺りを舞いはじめた。よく見ると雪にしては軽やかで、うっすらと桃色がかっている。

 着物のそでについたソレを見て、多恵は驚いた。

(……桜?)

 袖についていたのは桜の花びらだったのだ。

 いまは冬。しかも寒さ厳しい日が続く真冬で、桜が狂い咲くようなぽかぽかした陽気の日などここしばらく覚えがない。

 だが、間違いなく桜の花びらが辺りを舞っていた。まるで青年の声に合わせて踊るように。

 すると、どこからともなく声が聞こえてくる。

『なんであの店だけ、あんなに繁盛してるんだ』

『あの店のせいで、うちの商売あがったりだ』

うらやましい。憎らしい。なんであの店だけ』

『あの店さえなければ……』

 えんこもった声だった。男に女、老人に若者、いろいろな声がある。どこかで聞いたことのある声も多かった。

 だがどれだけ辺りを見回しても、見えるのは青年と大男と自分の三人だけ。

 声はまるで桜吹雪とともに遠くなったり近くなったりしながら聞こえてきた。

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