第一章 侯爵家へ契約婚!?②

 火が出る直前、多恵は厨房にいた。朝食で混む時間帯がすぎ、忙しくなる前に昼定食の下ごしらえをしているときだった。

 飛び散る油を避けようと多恵が鍋から離れた瞬間、火の玉は『イヒヒヒヒ』と身のすくむようなわらい声をあげて鍋をひっくりかえした。油がちゆうぼうの中にぶちまけられ、火がついた油はすぐに勢いよく燃えて、炎は天井近くまで達した。

 多恵はすぐに厨房を出て客席へと走っていく。頭の中に真っ先に浮かんだのは、客席にいる客たちのことだ。

「火の玉が……! みんな、逃げて!!」

 出せる限りの声で叫ぶ。その頃にはもう、厨房と客席をつなぐ戸口からも大蛇が何本もい出ようとするかのように荒れ狂う炎が客席にまで迫っていた。

 うわああああ、と声をあげて客たちが我先にと逃げ出す。最後の一人が逃げるのを確認してから多恵も定食屋の外に逃げ出した。

 そのころには騒ぎを聞きつけて近隣の店からも人々が駆けつけてきていた。すぐにみなと協力して井戸から水をくんで消火にあたったが、火の勢いは衰えるどころかますます盛んになるばかり。そのあとやってきた消防組の蒸気ポンプによる放水も歯が立たず、炎は定食屋を包み込んで近隣の店までをも覆いつくす大火となったのだ。

 それが多恵が見た出火の真相だった。しかし、それを言っても誰もまともに取り合ってはくれない。

「本当なんです。顔の付いた火の玉が厨房の中に転がり込んできて火をけたんです……!」

 多恵は幾度となく必死に訴えたが、他の者たちは誰も多恵の言葉を信じてくれなかった。

 逆に、

「でたらめ言うんじゃねぇぞ!」

「気でもおかしくなったのか?」

「自分の手違いで火を出したくせに、虚言で免れようとしてんだろ」

 と、責め立てられるばかりだった。

 やはりあの嗤う火の玉は多恵の見間違いだったのだろうか。

 しだいに、ほんとうにそんな異形のモノを見たのか自信もなくなっていた。

 本当は自分の手違いで油に火を点けてしまったのを、自分で誤魔化すためにあんな火の玉が見えたように錯覚してしまったんだろうか。

 多恵を取り囲む近隣の店の者たちは、なおも口々にきつい言葉を浴びせかけてくる。多恵がわざと失火したのでないことはみなもわかってはいるのだ。しかし、突然店や財産を燃やされた者たちは怒りの矛先を多恵に向けるしかなかった。

 駐在も火事の様子を見に来ていたが、野次馬たちに消防組の消火活動の邪魔にならないよう呼びかけるだけで、多恵たちのことは見て見ぬふりをしている。

「こうなったらもう、身売りでもなんでもするしかないんじゃないのかい? そうすりゃすぐにまとまった金が手に入るだろうよ」

 隣の八百屋のおかみさんが言う。

「ああ、それがいい。その金を店を焼かれた連中に配ればいいさ。もちろんこれだけの数の店を立て直すのにはちっとも足りんが、当座の生活資金にはなるだろ」

 履物屋の男が多恵を見下ろしながらにらむように言う。

「身売り……」

 その言葉が意味することを理解して、多恵は恐怖に身を固くした。

 いろんなことが次々と起こり過ぎて、多恵はもう限界だった。

 責め立てるなら責め立てればいい。きっと自分はそれだけのことをしたのだろう。

 いっそ腹いせに殺すなら殺してくれたってかまわない。

(ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……)

 そんなことを思いながらも、頭を抱えるようにして耳を押さえた。目もぎゅっとつぶってしまう。多恵を取り囲む人々のせいがしだいに遠くなる。

 何も聞きたくなかった。何も見たくなかった。すべて夢であってほしかった。

 このまま無の存在になってしまいたい。

 いやでも、定食屋が焼けたのも、厨房から出た大火が周りの店を焼き尽くしたのも夢なんかではない。現実だ。ちゃんと立ち向かわなきゃ申し訳が立たない。

 いままで親切にしてくれていた、家族ぐるみの付き合いだった店主やその家族からしんらつな言葉をかけられるのは身を切られるほどつらかった。

 だけど、自分はそれだけのことをしてしまったのだ。

 身売りだろうとなんだろうと、甘んじて受けるしかない。

 意を決して目を開け、耳をふさいでいた手をどける。すると、

(あれ? 静かになってる……??)

 どうしたことだろう。あれだけ騒がしかった周囲が、すとんと静まり返っていた。

 多恵の周りを取り囲んでいた店主たちの姿も見えなくなっている。消火のために走り回っていた消防組の人たちの姿もない。通りを塞ぐほどだった沢山の野次馬たちもいつの間にかいなくなっていた。日中に人の往来が絶えたことなんて一度もない商店街の通りに、人々の姿がなくなっている。人がいなくてがらんとした通りは、いつも以上に広く感じた。こんな商店街を見るのは初めてのことで多恵は戸惑った。

 その代わりに。

(誰……?)

 すぐそばに誰かが立っている。

(軍人さん……いえ、将校さん……?)

 陸軍の軍服を着た青年だった。腰から長い軍刀を下げている。一瞬、ついに自分を捕まえるために軍人さんまできたのかと多恵は身構えた。

 しかし、彼は多恵を見てはいなかった。彼の視線は燃える定食屋の屋根に向けられている。その意志の強そうな黒いひとみには、らんらんと燃え盛る炎が映りこんでいた。

(美しい方……)

 多恵は、つい彼の横顔にきつけられた。

 火の粉が散る中に立つ姿は、幻想的ですらある。

 すらりと伸びた鼻筋に、引き結ばれた口元。あまりに整った顔立ちはどこか冷たい雰囲気すら感じさせる。

 定食屋にも多くの客がやってきていたが、ここまで美しい顔立ちの男性を多恵はいままで見たことがなかった。

 青年は燃え盛る定食屋を鋭く見つめたまま、何か言葉を発した。

 多恵は彼の姿に見とれていて、彼が何といったのか聞き取れなかった。

 彼は、鋭い視線を多恵に向ける。

「火元はこの店か? と聞いている。お前は店のものか?」

 驚いて、多恵は慌てて立ち上がると返事をする。

「は、はいっ、そうです。私がやっている店です!」

 彼はいぶかしげに尋ねる。

「お前が? 随分若いな。ほかの従業員はいないのか?」

「はい。つい先月まで母と二人で切り盛りしていましたが、母が亡くなったので一人で店をやっておりました。でも、火を出してしまってこんなことに……」

 彼の視線はまっすぐ多恵に向けられていた。

 突然、彼の手が頭上にのびてきて多恵は殴られるのかと身体をびくつかせたが、彼はただ多恵の肩にポンと手を置いただけだった。彼は多恵を頭から足先までざっと眺めると、すぐに手を離す。

「そうか。それで、囲まれて詰め寄られていたのか。とりあえず、怪我などはなさそうだな。あのまま放っておいたら、エスカレートしそうだったから、とりあえずお前も結界の中に取り込んでおいたが正解だったようだ」

「え、エスカ?」

 何を言われたのか分からず多恵は繰り返す。

「大変なことになっていた、ということだ。さて、この火事だが、普通の火ではないな。あやかしの気配を強く感じる。捜している怪異が出没したのかと駆けつけてみたが、どうやら違うようだ。お前、火が起こる前に何か見なかったか?」

 言われて、脳裏に浮かんだのは厨房の窓から転がり込んできた、火の玉のことだ。火の玉の真ん中にあった不吉な老女の顔を思い出しただけで、ぞっと背筋が寒くなる。

「あ、あのっ……」

 言おうとしたところで、のどから出そうになった言葉をみ込んだ。

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