帝都契約嫁のまかない祓い

飛野猶/角川文庫 キャラクター文芸

第一章 侯爵家へ契約婚!?①

 女手一つで育ててくれた母が、切り盛りしていた定食屋。一階に店とちゆうぼうがあり、二階の小さな一間が母とが寝起きする生活の場となっていた。

 思い出がたくさん詰まったその店が、いま目の前で真っ赤な炎に包まれている。

 多恵は、燃える店を前にただぼうぜんと眺めるしかなかった。たすき掛けをした山吹色のそでの袖が、逃げるときに少し焦げてしまった。

 母が繕ってくれた古着の着物も、小さいころよく一緒に寝た布団も、母のはいもすべてが炎の中だ。

 風が強い日だったことも災いした。吹きつける冷たいからっ風が、炎をふいごのように大きくしていったのだ。

 母と多恵とで守ってきた大事な店は、いま火柱のようになっていた。

 火が出てから、炎が定食屋をみ込み、周り数軒までも巻き込むほどの大きな火に膨れ上がるまでほんの半刻とかからなかった。

 ここまで炎が大きくなってしまえば、なすすべもない。近隣の者たちも、集まった野次馬たちもただ荒れ狂う炎に圧倒されて立ち尽くすしかなかった。

 消防組の男たちが蒸気ポンプで水を吹きかけているが、火の勢いが収まる様子はない。

 燃え盛る定食屋を前にしてほうけたように眺める多恵の胸元を、突然、中年の男が勢いよくつかんだ。

「おい! どうしてくれんだ! お前の店が火を出したせいで、俺らの店まで燃えちまったじゃねぇかよ!」

 多恵の定食屋の二軒となりで履物屋を営んでいる男だ。彼の店も、この火事の火が移って勢いよく燃えていた。

「どう責任とってくれんだって言ってんだよ!」

 炎が映りこむひとみで男は多恵を憎々しげににらみ、激しく揺さぶる。

 そのたびに多恵の頭はがくがくとなり、一つ結びの三つ編みが大きく揺れた。

「……す、すみません。すみません」

 謝罪の言葉が多恵の口からこぼれ落ちた。ただもう謝り倒すしかできない。この大火事の火元が、多恵の定食屋であることは明らかなのだから。

 ここは帝都の東側に位置する、下町にある商店街の一角。

 未舗装の道の両側に店が連なり、普段は人や馬車が多く行き交う場所だ。

 そこにいまは多くの野次馬が集まり、人だかりができていた。

 多恵と母はここで十数年前から定食屋を営んできた。母と娘二人きりでなんとか生きてこれたのは、この店があったからだ。

 母の作る料理はとても評判が良く、昼時ともなれば外に並ぶ人まででるほどだった。

 定食屋にははつらつとした母の明るい声が響き、うまいうまいとうれしそうに定食を頰張る客たちであふれていた。

 多恵も物心ついたときから、仕込みや料理、給仕を手伝ってきた。笑顔があふれる定食屋は、多恵にとって自慢の宝物だった。

 年ごろの娘に成長した多恵に母は最近よく、「あんたももう十八だね。そろそろ良い相手をみつけなきゃ。一緒に店を継いでくれる相手ならなおいいんだけどね」なんて話していた。店の常連に「いい人いないかね」なんて相談することすらあった。

 その話を聞くたびに、そんなことまだ考えられないと多恵は笑って誤魔化した。

 いずれ結婚して家を出る日がくることを予感しつつも、いまはまだ母と二人支えあって暮らしていきたいと考えていたのだ。

 しかしそんなささやかな幸せは突然終わりを迎える。

 母が買い物帰りに通り雨に合い、身体をらして帰ってきたのがひとつきまえ。その晩から母は風邪をひいて寝込んでしまった。それから、あんなに元気だった母は坂を転がるように体調を崩していき、数日でパタリと亡くなってしまったのだ。

 きょうだいはなく、父の存在もしらず、親類縁者もいない多恵は突如、天涯孤独の身となってしまった。

 定食屋を続けられなくなった多恵は店を閉め、母と暮らした二階の小さな一間にこもって布団をかぶって泣き暮れた。

 でも、そのままでは生きていけない。だれも多恵のことを養ってくれるわけでもない。泣いていても腹はへる。働かなければたちゆかない。

 これからはひとりで生きていくしかないのだ。幸い、母が残してくれた定食屋がある。料理なら幼いころから母に仕込まれてきた。母とまったく同じとはいかなくとも、近い味なら出せるはずだ。

(よし、定食屋を再開させよう。このまま店をつぶしてしまったら、母さんに顔向けできないもの)

 そう決心して、ひとりで店を再開させた。幸い、以前からのみ客たちが少しずつ戻ってきてくれて、母の生前とは比べ物にならないまでもそれなりに定食屋をやっていけそうな気がしていた。

 その矢先に起こったのが、この大火事だ。

 これから守っていこうと心に決めた大事な店が燃えている。周りの数軒を巻き込んで大火となっている。

 履物屋の男は、呆けたように無抵抗な多恵を「くそっ」と忌々しげに突き放した。

 よろけた多恵は地面に倒れこむ。あたりは消火活動のために水浸しだ。

 泥水が着物を濡らし、身体の中にまでしみこんできた。

 身を起こしてにじんだ涙を汚れた手でぬぐうと、顔もすすと泥にまみれた。

 そんな多恵をさらに多くの人たちが取り囲み、口々にきつい言葉を浴びせかけてくる。

「なんてことしてくれたんだい!」

「いつか、こんなことになるんじゃないかと思ってたよ。さんが生きてたら、絶対火なんて出さなかったにちがいないんだ。だから、あたしゃあんたが一人で店を開けるなんて反対だったんだよ」

「弁償しろよ! 店と家財道具と商品と、全部お前が償え!」

 みな昔からよく知っている周りの店の者たちだ。彼らの店も、この火事でなくなってしまった。怒るのも当然だ。

「すみません……すみません、すみません……このおびはしますから……すみません」

 頭を下げてひたすら謝るしかできない。

 この火事でいったいどれほどの損害が出たのか想像するだけでもおそろしかった。

 でも、多恵の店が火元ならば、どれだけ年月がかかったとしても償っていくしか道はない。一生かけても償いきれるかどうかわからないけど、少しずつでも返していくしかないのだ。申し訳なさとあきらめが心を覆った。

 しかし、ただ一つ、に落ちないことがあった。

 それは火が出る直前のこと。多恵は不可解なものを見たのだ。

(あの炎の塊はなんだったんだろう)

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