敷金礼金の相場は家賃の2ヶ月分と言うが
15時。スーツ姿のサラリーマンが忙しく歩き回り、駅ナカの雑貨店からは中高生がキャッキャと騒ぐ声がする。麗らかな薫風は心地良い眠気を起こさせる。空を見上げると周囲の建物より一際高い25階建のタワーマンションに輝く西陽が降り注いでいる。この最上階に俺は住んでいる。そして、振り向くと……
「こんなに高い建物がありますの? え、ここがユウの家ですの? あ、あのオレンジ色の看板は何のお店ですの? すごく美味しそうな香り……よし、明日はあそこへ行くことに決めましたわ!」
と、小やかましいのがついて来ている。さっきから見るもの全てにコメントしている。「お前は3歳児なのか? しゃべれるようになったのが嬉しいのか?」と突っ込んだが完全に無視されてしまった。
(こいつ、家に来てどうするつもりだ? まさか住むなんて話に……いやいや、そんなことあるわけがない。転入初日で荷物が多いし単に観光の一時拠点くらいのことだろう)
「おい、入るぞ。こっちに来い」
「ちょっと、今いいところでしたのに! あの建物に張りついてる巨大ガニ、動きますわよ!」
そう駄々をこねるご令嬢の大きな鞄を掴みマンションのロビーに引きずり込む。駅内の百貨店でオモチャを買ってほしいと騒ぐ子どもの姿を思い出し、煌々と光るロビーの照明を見上げて全国のお母さんたちを心からねぎらった。
「何ですの!? この箱、どんどん上に吊り上げられているようですわよ!? 大丈夫ですの!?」
エレベーターに乗っただけでも例の縦ロールをぐわんぐわんと揺らして興奮するご令嬢を、思わず腕組みなんてして見てしまう。
(この反応……こいつ、まさか本当に……?)
俺の中に芽生えた疑念。そしてそれはすぐに確信へと変わるのだった。
「この箱、中に人がいますわ! 壁に貼り付いて……すぐに出してあげませんと!」
部屋に入るや否や探索を始めたレイは大きな鞄も持ったまま様々なものに興味を示した後、俺が習慣で点けたテレビに最も強く反応した。ああ、こういうの漫画で見たことあるぞ……。
(どうやらこいつ、本当に『転生令嬢』ってやつらしい……ガチの異世界出身者か? ってか家の中に入れちゃったよ、どうすんだこれ)
まあなるようになれ、と半ば投げやりになりつつ、俺はレイが興味を持ったものについて紹介してやった。
「これはIHコンロ。火を使わずに焼いたり揚げたりできる設備だ。ここを押すと……」
「本当に面白いものばかりですわ! このボタンを押すとどうなるんですの?」
人の話を聞かずに何でも触りたがるレイ。まるで漫画のように俺たちの手は同じボタンに向かって進んでいき、手が触れそうに……
「−−ッッ!!」
瞬間、胸の前に引っ込み合わせられたレイの両手。まん丸に見開かれた青い瞳には戸惑いがありありと映し出されていた。
(おいおい、ちょっと手が触れそうになっただけだろ……そんな大袈裟な)
少しの沈黙。俺がどうすれば良いかと思案していると、
「……で、こちらのボタンを押すとどうなりますの?」
と、レイがすぐに元通りの調子で文明の利器を物色し始めたのは助かった。女子と気まずくなったときの対処法について俺は全くの無知だからだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「ユウ、あなた中々博識ですわね。美味しいお食事も頂きましたし、お夕飯は
「はいはい……じゃあよろしくお願いしますよ、お嬢様。冷蔵庫にあるやつ何でも使っていいんで。あと何か欲しい道具があれば言ってくれ、持ってくから」
俺はソファに寝転びながらキッチンに向かってこう言った。
家に着いてから2時間ほど、レイの興味が向くままに説明を続けてきたせいか、この状況に慣れてきた自分がいる。何だか疲れたし、誰かが食べ物を用意してくれるのは正直助かる。
俺はそばにあったブランケットを畳んで枕にした。夕方になると肌寒かったのは1週間前まで、夕日が差し込むこの部屋はほどよく温められていて俺は思わずあくびする。今日は色んなことがある日だ……。
◇ ◇ ◇ ◇
どこからか漂ってきたミルキーな香りが鼻をくすぐり、俺は目を開けた。身体が硬い。寝てしまったみたいだ。身体を起こして伸びをすると少しずつ意識も覚醒する。どこからか鼻歌が聞こえてくる。
ゆっくりとソファから立ち上がり、今度は全身を上に引き伸ばす。そうだ、確かレイが何か作ってやる、とか言っていたんだ。
キッチンを覗くとレイが料理を器に盛り付けているところだった。あれは……シチューか?
「ごめん、寝てたみたいだ。何かやることはあるか?」
「あら、お目覚めですの? さっきまでぐうぐうと寝息を立てていましたのに。ちょうど今出来上がったところですわ。どうぞ、召し上がって」
テーブルにはどこかから持ってきたハンドタオルが置かれている。その上に運ばれてきたのは丸みを帯びた深皿。レイがしている我が家のミトンは赤いシンプルなものだが、薄茶のブレザーと上手くマッチしていてどこか上品に見える。
「寝てて悪かったな。ありがとう。じゃ、いただきます」
スプーンで混ぜると大きめのブロッコリーとにんじん、じゃがいもが現れる。ブロッコリーを頬張るとバターの香りが鼻を抜けていく。
これ……先に野菜だけ炒めてるのか?」
レイはミトンをしたままの手で腕を組む。返事はないがキュッと持ち上がった口角は「どうだ」とでも言いたげだ。
「さ、私もいただきますわ」
レイはふわふわの髪を揺らしながら軽やかなスキップでキッチンへと戻っていく。エプロンの肩紐を解く所作も丁寧で絵になる。俺は彼女が戻ってくるのを待って次の一口を頂いた。
(我が家にはシチューの素はなかったはずだ。このベシャメルソースも手作りなのか……レベル高いな。コンソメやバターだけじゃない、これは……味噌か?)
「美味い……」
「私、お料理が趣味ですの。冷蔵庫にあったものを色々と使ってみたのですが、お口に合ったようで何よりですわ」
誇らしげな表情を浮かべるレイは、ふぅーと長い息を吐いた。シチューを掬ったスプーンから湯気がふわりとたなびいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ごちそうさま。美味しかった、ありがとう」
シチューとバケットを食べ終え、感謝を伝える。レイはこくこくと首を振りながらハンドタオルで口元を整えている。
瞬間、真っ直ぐな目でこちらを見返すレイ。突然目が合い少し焦る。少しの沈黙、そして
「ユウ、お願いがありますの。私を……ここに住まわせてくださる? 私、帰るところがありませんの。置いてくださるなら……何でもいたしますわ」
と、しおらしく申し出た。彼女が『違う世界から転生してきた』と確信したときから、こうなるんじゃないかと予想はしていた。初めはどう断ろうかと考えていたが……。
(ここで追い出すのは簡単だが、もしかしたらここが俺の人生の分岐点なのかもしれない……このクソッタレな日常を変えるための)
俺たちはしばらく黙ったまま見つめ合っていたが、俺からこう切り出した。
「いいよ、別に。部屋ならたくさんあるから好きなところを使ってくれ。俺の両親、向こう一年は帰ってこないだろうから」
「本当に!?……ありがとうございます!」
レイは俺の言葉を聞いて、ゆっくりと立ち上がった。両手をヘソの前で合わせ深々と一礼する。頭を上げたレイの表情は驚き、喜び、安堵など様々な感情を湛えていた。
かく言う俺も同じように複雑な心境だった。不安、後悔、緊張。これからの生活を思うとそういう気持ちにならざるを得ない。しかし一足早くレイの方が気を取り直したようだ。
「さ、そうと決まれば私、先にお風呂をいただきますわ。案内していただいてもよろしくて?」
(全くコイツは……しおらしかったと思ったらすぐこれだ。はいはい風呂ね……ん? 風呂? 風呂だって!?)
俺の脳内を支配していた不安やら何やらは、綺麗さっぱり消えてしまった。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
お風呂に入ると言い出したレイ。俺はたっぷり湯を張る派だが、シャワー派だと言うレイのために風呂を準備していると、まっっったく邪心がないにも関わらず彼女のタオルをはだけさせ、見てしまったのだ。彼女のアレを……! その後もしつこく役得を狙う俺にあり得ない天罰、いや『呪い』が降りかかって……。
次回!『健康に悪いと分かっていても、熱めの湯に肩まで浸かりたい』
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