第3話 真昼の駅前商店街(2)

 人気の少ない商店街をぶらぶらする千紗の目の先に、花屋が見えた。

 千紗は、花屋が好きだ。花屋に来ると、いつもなぜかほっとするのだ。そこで、花や野菜の苗なんかを、ただ眺めるのが好きなのだ。


 一度、青じそが好きなので、その苗を買ってプランターで育ててみたら、我が家のベランダは日当たりがよすぎて、葉が硬くて食べられないくらい育ってしまったことがあった。それ以来、野菜の苗にはちょっと手を出せないでいる。大体、怠け者で忘れっぽい千紗には、毎日小まめに植物に水をやるという、ごく簡単なこともやり通せないのだ。


 それでも、夏が来るたびに、ナスやきゅうりやトマトの苗を見つけると、なんとなく寄って行ってしまう。


 そういえば、千紗が小学三年生の夏、何を思ったのか、父親が家庭菜園に凝ったことがあった。それはたったひと夏だけのことだったが、夕方、父親が取ってきたザルいっぱいの夏野菜を、母親が笑顔で受け取っていた光景を、なぜだか千紗は、今でも忘れることができないのだ。


 いつの日にか、自分の手で野菜を育ててみたい。そして、ザルいっぱいの野菜を、今度は自分が母のところに持って行くのだ。


 「あれ、権藤じゃん」

ふいに、背中で声がした。しゃがんだ姿勢のまま振り返った途端、正直な話、千紗は飛び上がりそうになった。

 ちょっと驚いたような顔で千紗を見下ろしていたのは、あの菊池ではないか。


「あれ? へ?」

ひどく間が抜けた声が出てしまった。菊池は顎で千紗の手元を示しながら、

「こんなところで、お前何してんの? 盗み食い?」

千紗は菊池の指し示す方を振り返り、がっちりナスの苗をつかんでいる自分に改めて気づいて、思わず笑い声を上げた。

「そっちこそ、こんなところで、何してんの」

「ばーか、俺んち、この近くなんだよ」


そういえば、菊池の家は、この辺の新しいマンション群の一つだと、聞いたことがある。

「ふ~ん。それにしても、何で休みだってのに、制服着てんの」

「何でって・・・、ばか、おま・・・」

そこまで言うと、菊池は空に向かって笑い声を上げた。

「お前、それ、ひょっとして、今日登校日だってこと、忘れてたってことか」


「げげ、今日って、登校日だったっけか」

千紗はぎょっとして立ち上がった。失敗した。すっかり忘れていたのだ。

「てことは、今、学校の帰りってこと? みんな来てた?」

千紗は、気の小ささ丸出しで、矢継ぎ早に菊池に質問した。

「いや、来てないやつも、結構いた。だって、別に義務じゃないぜ、今日は」

「そりゃまそうだ」

 胸をなでおろしながら、千紗は答えた。それでもやはり失敗だ。今日はやることがあったのだ。


「ねえ、あのさぁ、山本、あたしのことでなんか言ってなかった?」

山本とは、クラスの担任教師のことだ。真面目が服着て歩いているような地味な風貌で、痩せた肩が怒っているから、ハンガーマンなどと呼ばれている。ハングリーではなく、あの衣紋掛けのハンガーだ。


 菊池は、千紗をいささか皮肉のこもった目で見た。

「真面目なんですねー、権藤さんは。登校日ばっくれたくらいで、そんなに慌てて」

菊池の馬鹿にしたような皮肉な口調は、千紗の胸につんと針のような痛みを与えた。

「…そんなんじゃないよ…」

千紗は、菊池にわからないように、小さく一つため息をついた

 どうしてだろう。菊池と喋ると、いつも最後はとげとげしくなるのだ。これがもし、長岡くんだったら、そんなふうにはならないのに。


 長岡くんこと長岡博は、千紗がくん付けで呼ぶ数少ないクラスの男子で、千紗にとってはサルでもガキでもない唯一の男子なのだ。千紗と長岡は、時々噂になったりするけど、あまりにばかばかしい誤解なので、まともに取りあった事はない。

 けれど、あえて否定も肯定もしない事は、ますます誤解を招き、時々本人たちすらも、混乱しなくもなかった。


 でも、本当のことを言えば、長岡くんではなくて菊池とこんな風に仲がよかったらなぁと、胸の奥で、こっそり、千紗は思っているのだ。けれど、千紗の些細な言動は、しばしば菊池をとげとげしくさせるし、菊池の嫌みったらしい性格は、やはりしばしば千紗の戦闘本能を、刺激するのだった。


 それでも、せっかくお気に入りのワンピースを着ている今、千紗は、菊池と喧嘩なんかしたくなかった。

 千紗は、さっと麦藁帽子をとった。頭を振って、伸びかけた髪の毛に風を入れながら、千紗は心を決めた。とにかく、率直になること。菊池とうまくいく時は、いつもそうなのだ。でも、率直になるのに、エネルギーが要るときだってあるけれど。


「あたし、今日から苗字を変えるつもりだったんだ。親がさ、離婚したもんだから。それで、あたしは母親の苗字に代わることになってさ。山本と相談して、登校日から変えちゃおうって決めてたんだ。それなのに、忘れて行かなかったから、慌てたって、そういうこと。わかったか、このイヤミ男。菊池って、本当に憎ったらしいやつだね」


 千紗は、麦藁帽子を団扇がわりにしながら、なるべく淡々と説明した。菊池は、驚いたようにちょっと目を見張り、それから額にかかった前髪をさっとかき上げると、そのまま後頭部をぼりぼりかいた。


「そうか…、そうだったのか。いやぁ、あれだな。知らなかったとはいえ、なんか悪かったな」

「な~に、気にしなくてもいいよ。何代にもわたって呪ってやるから」

「そう怒るなって。謝るからさ」

「それなら、許してください、お嬢様と言え」

「許してください、おブタ様」

「なにぃ」


 千紗が目をむいて飛び掛ると、菊池はすばやく身をかわし、大通りに向かって走り出した。千紗も後から追いかけるけれど、何せ相手はスニーカー、自分はサンダル、とても追いつけるものではない。それでも千紗は、あきらめずに菊池を追いかけた。


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