第4話 奇妙な友情

 山間の小さな村に投宿したルキウスは翌朝に宿代の支払いを済ませると、ネロを預けておいた馬屋に向かった。

 ルキウスが馬屋に行くと、ネロは既に馬屋から引き出されて外の柵に繋がれていた。そのネロを取り囲んで、三人の見知らぬ男達が何か話をしている。

 ルキウスがネロに近付いて行くと、三人が同時に振り向いた。一人は二十歳代で、豊かに髭を伸ばしたあとの二人は、いずれも三十歳台半ばのように見えた。

「これは、君の馬かね?」

 若者が、ネロの手綱に手を伸ばそうとするルキウスに尋ねてきた。きれいな、訛りのないラテン語だった。身長は、ルキウスよりも目一つほど高く、肌が白くて、頭髪も眉もまつ毛も、明るい金色だった。何よりも、鮮やかな緑色の瞳がルキウスの目を引いた。……さてはこいつ等、ずっと北の方からやって来た部族か? それにしては三人共、身なりはローマ風だが……。

「ああ、そうだ」

 ルキウスは、自分のパンノニア訛りを気にしながら、不愛想に一息で答えた。

「そうか、いい馬だな。……君は、この馬を売る気はあるかね?」

「いや、ない」

 ルキウスは、またも一息で不愛想に答えた。

「カネならいくらでも出すぞ。どうだ、試しに欲しいだけの値段を言ってみろ」

 若者の横に立っている男が、強い訛りのラテン語で訊いて来た。この男も金髪で、瞳は緑色だ。がっしりとした筋肉質の体格は、前に立たれただけでも威圧される。

「いや、売らない。これは、私の父親が一番大事にしていた馬だ。それを、私にくれたのだ」

「なるほど。……カネには代えられん、というわけだな?」

 若者は、そう言って目を悪戯っぽく細めると、残念そうにネロの背中をポンポン、と掌で叩いた。

「よし、この馬を手に入れるのは諦めた。その代り、少しの間私の馬と一緒に走ってくれないか」

「いや、断る。私は、今日は先を急ぐんだ」

 すると、もう一人の男が二人の会話に口を挟んできた。

「つい最近、この辺りに西ゴート族が現れたと言うぞ。一人旅よりは、連れがいた方が安心だとは思わんか?」

 男はそう言って、腰に吊るした剣の柄をガチャガチャと叩いた。若者の反対側に立つもう一人の男と、顔の表情が瓜二つだ。がっしりとした体格も、一緒だ。……こいつ等、双子か?

 真ん中で、若者が頷いた。

「今の話は、本当だ。……で、君はどこまで行く積りなのだ?」

 本当も嘘も、西ゴート族の侵入なら、自分がこの目で見て来た事だ。

 ルキウスは、若者の問い掛けに返答を躊躇した。長身に白い肌に金髪、そして緑色の瞳は、明らかに彼等が北からやって来た証拠だ。そして、自分がこれから向かう先のヴィンドボーナといえば、北から侵入して来る彼等を迎え撃つ軍団の、基地のある都市なのだ。

 だが、この連中は西ゴート族の侵入を、まるで他人事のように話している。……こいつ等、あの蛮族共の身内ではないのか?

「ヴィンドボーナだ」

 ルキウスが、不愛想に答えた。

「そうか、それはちょうどいい。……よし、途中まで一緒に行こう。我々も、今日はそちらの方角に行くんだ」

 若者は勝手にそう決めると、馬屋の奥に歩いて行った。そして間もなく、栗毛の馬を曳いて戻って来た。その体毛の艶の良さが、馬の健康を物語っている。大切に飼われている馬なのだろう。

 双子の二人も、それぞれ馬を曳いて戻って来た。


 朝日を真横から受けながら、四人は緩い坂道を馬でゆっくりと登って行った。

「君は、名は何というのだ?」

 若者が、ルキウスに訊いてきた。

「ルキウスだ。ルキウス・アウレリアヌス」

「そうか。私の名はラウスだ。で、君の生まれ故郷はどこかね?」

「シルミウムだ」

「ほう、トラキアの近くだな。その馬は、トラキア産か?」

「いや、パンノニア産だ」

 一時間ほどで緩い坂道を登り切ると、見晴らしの利く峠に出た。四人は、そこで小休止を取ることにした。眼下には森の濃い緑が広がり、そのどこかからカッコウの鳴き声が、のどかに聞こえてくる。

 ラウスは馬から降りると、ネロに寄って行って首筋を撫でた。

「うん、やはりいい馬だ。この坂道を登って来ても、汗もかいていないし、呼吸も静かだ」

 ラウスは、独り言のようにそう呟くと、草むらに腰を降ろしているルキウスの所にやって来て、隣に腰を降ろした。

「我々は、ドナウ河の対岸に居留している、ヴァンダル族だ」

 若者が、ルキウスにそう打ち明けた。

 ……ヴァンダル族? なぜ、ヴァンダル族がこんな所にいるんだ? しかも、たった三人だけで……。

 ルキウスは、ヴァンダルという名前の部族の事なら、少しは聞いて知っていた。大昔から、南に向かって移動を繰り返していると言われている、北方の部族だ。が、彼等なら今は、西ゴート族の住むダキアの、更にずっと北の辺りに居留しているのではなかったか? それがこんな所に、しかもたった三人で……。

「このラウスの父親は、ヴァンダル族を率いていたヴィスマール王だ。五年前に、ゴート族に殺されてしまったが、な」

 双子のうちの一人がやって来て、水の入った革袋をラウスに差し出しながら、その若者をルキウスにそう紹介した。

 ラウスは一口水を飲むと、革袋をルキウスに差し出した。それを受け取ったルキウスも一口飲んで、そしてその革袋を双子の一人に返した。

「それでは、今はあなたがヴァンダル族を率いているのですか?」

 ルキウスが、ラウスと名乗った若者に尋ねた。

「ああ。年寄り連中や、この者達に助けられながら、な」

「ヴァンダル族は、今の居留地に落ち着くのですか?」

 ルキウスは、立ち入った事を訊いてみた。

「いや。我々は、凍て付く北の故郷を出て、温暖な南の地を目指して来たんだ。ところが、我々が居留している今の土地ときたら、温暖というには程遠い。それに……」

「…………?」

「それにあの辺りには、狂暴な蛮族共が大勢で略奪にやって来るんだ。恐ろしくて、たまらん」

 そう言って、ローマから見れば自分だって蛮族の一人に違いないラウスが、ニヤリと笑って見せた。

「だから、我々の旅はまだまだ続く。我々三人は、一族が安全に旅を続けられるかどうか、先回りして道筋の状況を確かめているんだ」

「そんな事を、族長のあなたがわざわざするのですか?」

「ああ。万という数のヴァンダル族が、これから他の部族が暮らす土地を通り抜けようというのだから、な。そこの族長に、ヴァンダルの族長であるこの私が、挨拶に行って予告をし、承諾を得ておくのだ。でないと、揉めるから、な」

「旅は、あとどれくらい続くのですか?」

 分からん、とラウスは、吐き捨てるように答えた。

「我々の代では、目指す土地には辿り着けないかも知れん」

「…………」

「だが、これから何代かかろうとも、我々の子や孫達はこの旅を続けてくれるはずだ。目指す土地に辿り着くまでは、な」

 なぜなら、と言って、ラウスは編み紐を解いてサンダルを脱いだ。右足の小指が、付け根から欠けている。戦闘などではなく、自分の不注意で指を凍らせてしまい、それで失くしたのだと言う。

「足を濡らしたままで、うたた寝をしてしまったのだよ。それで、このザマだ。……まったく、極寒の地に暮らすというのは、こういう事だ」

「うっかりすると、命だって危ないんですね」

 ああ、と言って、ラウスはサンダルの紐を結び始めた。

「我々が故郷を出て、もう何百年にもなる。だが、部族の中で選ばれた男児達が、今でも五歳になると北の故郷に送られる。そして、いまだにそこに住み続けている同族達の許で、十五歳になるまで暮らすのだ。……私が足の小指を失くしたのは、そうやって私もそこに滞在していた時の事だ」

 そう言うと、ラウスは双子達の方を顎でしゃくった。

「あの二人も、私と一緒にそこで十年間暮らした。……それはそれは、厳しい土地だった。農作物の種を撒こうと地面を掘れば、下から出てくるのは凍った土だ。掘っても掘っても、どこを掘っても、出て来るのは凍った土ばかりだ」

「…………」

「だから、ゲルマンやスラブの無知な連中共は、地下には悪霊が棲み着いているのだ、などと呪術師の言う事を、本気で信じている。地面に浸み込んだ水が、地下で凍っているだけなのに、な」

 信じられるか? とでも言いたげに、ラウスはルキウスの顔を緑の瞳で見詰め、そして小さく肩をすくめた。

「いずれにせよ、あの土地で我々の口に入る物と言ったら、滅多に獲れない鹿とか猪とか兎とかの肉か、川で捕った鮭や鱒くらいのものだ。そして、獲ったそれ等の獲物を頭から尻尾まで、内臓から血の一滴までを、残らずしゃぶり尽くすのだ」

「…………」

「野天で、雨が降り続いて火が使えなければ、生でかぶり付く。そして、誰もが思うようになる……」

 そう言って、ラウスは足元の小石を拾い、ポイと草むらに放り投げた。

「自分達は、一体どういう生き物なのか、とな。……森をうろつく狼共と、一体何が、どう違うのか、とな」

 サンダルの紐を結び終えると、ラウスは立ち上がった。そして腕組みをして、遠くの山並みを見渡しながら、続けた。

「そして十年が経ち、子供達が青年となって戻って来るわけだ。……もう、絶対にあんな土地には戻るまい、一族を率いて南に行くのだ、自分はその先頭に立とう、という決意と共に、な」

「今も、何人かの子供達がそこで暮らしているのですか?」

「ああ、三十人程が、な。これも、我等一族の未来のためだ。……我々と他のゲルマン族、スラブ族の連中との違いは、そこだ」

「…………」

「奴等は、腹が減れば略奪だ。そして、また腹が減れば、また略奪だ。これを奴等は、もう何百年も繰り返してきた。楽だし、それ以外に腹を満たす方法など知らんのだから、止められんのだ。まさに“凶暴野蛮なゲルマーニー人”としか、言いようのない連中だ」

 ラウスはそう言って、足元にペッと唾を吐いた。

「そうなのだ。悲しくも、みじめな境遇だ。……そんなみじめな境遇に陥らぬために、我々は自ら耕し、収穫したいのだ。奪う事もなく、誰かから施しを受ける事もなく、だ。だが、それが出来るのは、南の地だ。他人からの施し、助けなど当てにはせぬが、自然の助けだけは欠かせぬから、な。……だから、我々は南に行くのだ」

 そう言い切るラウスの声は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。

 そして、と言って、ラウスが続けた。

「そして、その我々の前にこれから立ちはだかるのが、ローマだ」

「…………」

「我々は、ローマ帝国に取って代わろう、滅ぼしてやろうという気など、毛頭ない。ただ、奴等の土地を通り抜けたいだけだ。南に行くために、な」

「…………」

「それでも、もしローマが我々の前に立ちはだかるのなら、あとは力で通り抜けるだけだ」

「でも、ローマ帝国の領内に部族ごと入植したいというのなら、方法だって前例だって、いくらでもあるはずですが……」

 と、ラウスがルキウスに向き直った。

「我々がローマにひれ伏して、奴等の神も法も習慣も税金も、すべて受け入れるというならば、な」

「お互いの流血が、それで避けられるなら、……」

「我が友、ルキウスよ……」

 ラウスが、穏やかな声で遮った。

「それは、ローマの理屈だ」


 坂を下り切った所で、ルキウスは三人と別れた。別れ際に、ラウスがルキウスに一枚の小さな布切れを手渡した。両掌を合わせたほどの大きさの白い四角い布で、真ん中に奇妙な図柄が黒い糸で縫い込まれている。くっきりとした黒い十字で、四方に伸びた軸の先が、それぞれ二つに割れている。そして割れた八つの先端は鋭く尖り、まさに何かを掴み取ろうとしている、指のようだ。

「それを、たった今生まれたばかりの君と私の、奇妙な友情のその証として君にやろう」

 ラウスは、奇妙な友情のその証をしげしげと見詰めた。

「それはヴァンダル族の象徴で、我々はそれを『神の手』と呼んでいる」

 そう言うとラウスは、ふと改まった顔でルキウスに向き直った。

「そういえば、君はこれからヴィンドボーナに行くと言っていたな」

「…………」

「君は、一体何のためにそこに行くのだ?」

「…………」

「…………?」

「……ローマ軍に、入隊するためです」

 ほほう、と言って、ラウスは細い、形のいい眉を大きく開いた。

「すると君は、これからローマのために戦うというのか?」

「…………」

「君は、確かパンノニア生まれと言ったな。その君が、なぜローマのために戦うのだ?」

「…………」

「パンノニアはローマ軍に征服され、ローマの属州に成り下がったのだろう。……君は、ローマが憎くはないのか?」

 ……なぜ、ローマのために戦うのだ? ローマが憎くはないのか? 十七歳のルキウスには、考えた事もない問い掛けだった。

「見たところ、君の体には我々と同じ、北方の血が流れているようだな。その君が一体、なぜローマのために戦うと決めたのか……」

 そう言って、ラウスはルキウスの体付きを確かめている視線を、ルキウスの顔に戻した。

「私も、これからその訳を、じっくりと考えてみる事にしよう。多分、そこにローマの強さがあるのだ」

 うん、やはりいい馬だ、と言って、またラウスはネロの首筋をポンポン、と叩いた。

「そのうちにこの馬に子が出来たら、一頭を私に譲ってくれないか。黄金なら、いくらでも出すぞ」

 それと、と言って、ラウスがルキウスに向き直った。

「君とは、出来れば戦場では出会いたくないものだ。が、もし戦場でその『神の手』の旗を見掛けたら、その下には必ず私がいる」

「…………」

「その時には、我々の奇妙な友情と再会を祝って酒を酌み交わすも良し、剣を交えるも良し。……君次第だ」

 それと、と言って、ラウスが付け加えた。

「これからローマ軍に入隊するという若者に、一つだけ忠告しておこう」

「…………?」

「戦闘になれば、ヴァンダル族は強いぞ」

「…………」

「ゴート族やマルコマンニ族の連中を相手にするのは、楽なものだ。食い物さえ見せてやれば、奴等は剣など放り投げて食い物の方に飛び付いてくるから、な」

「…………」

「だが、我々は違う。我々は一時の欲望などでではなく、怒りで戦うからだ」

「…………」

「欲望などは、簡単に手なづけられてしまう。だが、怒りはそうはゆかぬ」

「…………」

「怒りが胸に満ちた時、我々は剣を執る。そして、その怒りが収まらない限り、我々は絶対に剣を収めない。戦う事を止めない」

「…………」

「ま、怒らせさえしなければ、ヴァンダルほど善良で友好的で、礼儀正しい部族はいない。……そういう事だ」

 そう言って、ラウスはもう一度ニヤリと笑ってみせた。


 蛮族といっても、ヴァンダルのような部族もいるのか……。ルキウスは、遠ざかる三人の後ろ姿を見送りながら、思った。ルキウスがこれまで大人達から聞かされて来た蛮族像を完全に打ち砕いた、ラウスとの出会いだった。

 それとルキウスは、ラウスがカエサルの『ガリア戦記』を読んでいるのには、驚いた。さっき、ラウスが口にした“凶暴野蛮なゲルマーニー人”とは、『ガリア戦記』の中に何度か出て来る、カエサル特有の言い回しなのだ。

 それにしても、ヴァンダルとは何と明快な、そして強い意志を持った部族か。しかも強いその意志とて、そのままでは決して持続しない事も知っている。……賢い部族だ。

 ルキウスは、ラウスから貰った小さな布切れを、改めて見詰めた。

 『神の手』か……。

 虚仮脅しの、獅子でもなく鷲でも蛇でもなく、余計な色も飾りも一切省いた単純な図柄に、ルキウスはヴァンダル族の強い意志を読み取った。戦闘になれば、ヴァンダルは強いぞ、か……。確かに、その通りかも知れない。



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