第5話 ギロー小隊

 ルキウスは、五日ほど遅れて訓練課程の新兵達に合流した。軍団基地に到着した日の夕刻、宿舎の大食堂でマルクスの顔を見付けた時、ルキウスはこれまでの緊張から漸く解放された気がした。

 二人は再会を喜び合うと、夕食を取りながらマルクスがこれまでの事をルキウスに説明してくれた。

「新兵の訓練と言っても、この四日間はローマ軍の軍規や軍団内での細かな規則の話ばかりだったから、あとでテキストをもらって読めば、それで済むよ」

 それよりも、と言って、マルクスは話題を変えてきた。マルクスの話では、彼はルキウスと別れると、月明かりの中を休憩を挟みながらも夜通し馬を走らせ、その翌日の夜にこの基地に入ったという。そして、クロディウス隊長から預かった伝令文を軍団司令部に届けると、即座に騎兵二千と歩兵五千の派遣隊が編成され、翌日の未明にドナウ下流域に向けて発ったというのだ。

 ルキウスがその隊と行き会わなかったのは、彼が川沿いではない山側の間道を使ったからだろう。

「その派遣隊からは、まだ情報はないのかい?」

 ルキウスは、やはりクロディウス隊の動静が気掛かりだった。

「いや、まだ何も……」


 派遣隊からの第一報は、その翌日の午後にもたらされた。そしてその報告を、ルキウス達新兵は先輩の軍団兵士達と一緒に、基地の大講堂で聴いた。

 その第一報によれば、今回ドナウを渡って来たのはやはり西ゴート族の集団で、一万騎が二手に分かれて渡河したという。

 コマロムを襲った方の集団を追っていたクロディウス隊二百騎は、後発の二千騎のローマ軍騎兵隊と、ドナウ河畔で合流した。そして、略奪品と捕虜にした三百人余りのコマロム住民を伴って対岸に引き揚げて行こうとしている、五千騎の西ゴート族を追った。

 捕虜や略奪品が隊列の中にあっては、進む速度は徒歩並みだ。クロディウス隊は、ドナウの対岸に戻ろうとしている敵を秘かに追いながら、攻撃の機会を窺った。

 やがて、西ゴート族がドナウを渡り始めるや、背後から二千二百騎のクロディウス隊が一斉に襲いかかった。背水の陣中に押し込められ、身動きの取れなくなった西ゴート族の五千騎は、そのうちの半数は早くもわれ先に、と対岸に逃げ込む態勢だ。そして、残りがクロディウス隊に立ち向かうだけだった。だが、河岸で動きを封じられた西ゴート族はグイグイと流れの中に押しやられ、やがて渡河中だった同族達と共に撃ち破られた。結局、対岸に逃げ延びることが出来たのは二百騎余りだったという。

 こうして、西ゴート族を打ち破り、略奪品と捕虜になっていた住民を取り戻したクロディウス隊は、反対に三百人余りの西ゴート族を捕虜にしたという。そしてそれ等三百余人の西ゴート族の捕虜達は、まず自分達が破壊したコマロムの街の修復工事に従事させられ、その後はローマ送りになるという。ローマの街中の道路工事現場から軍団に、相当の危険が伴う力仕事に従事させる労働力として、六百人ほどの捕虜の予約が入っているのだそうだ。

「だから、捕虜といえども、決して粗略に扱ってはならんのだぞ」

 報告者は、特に新兵達に向かってそう力説した。


 続報は、その三日後にもたらされた。それによると、ローマ軍の騎兵二千余騎は、残りのゴート族五千騎余りとドナウ河畔で対峙した。そして小競り合いを繰り返しながら、後発の五千のローマ軍歩兵を潜ませておいたドナウ河岸の葦原まで誘導し、一気に勝敗を決したという。

 草原を、風を巻いて駆け抜けていく騎馬集団も、背丈のある草木や密生する藪の中では、動きの鈍重な集団でしかない。そしてその鈍重な集団に、ローマ軍の身軽な歩兵集団が、まるで蝗の大群のように襲いかかっていったという。

 クロディウス隊長が派遣隊を伴ない、一千余りのゴート族捕虜を引き連れて基地に帰還したのは、更にその五日後の事だった。帰還して来たローマ兵の隊列の中にいるクロディウス隊長の姿を、ルキウスは遠くから眺めていた。


 騎兵隊幹部としての基礎的な訓練は、一年で終了する。訓練の大半の時間は、乗馬や剣や弓などの武術よりも、作戦理論や戦闘指揮術、築城術などの習得に多く費やされた。いずれも実戦を前提にした内容で、つまり一つ一つが自分や部隊の兵士達の生命に直接関わってくる事ばかりで、指導も厳しかった。

 だが戦史、とりわけアレクサンドロス大王やカエサル、ハンニバル、スキピオなどが指揮し、騎兵の働きによって勝敗が決した会戦の講義には、ルキウスもマルクスも身を乗り出して耳を傾けた。

 そして、それ等の講義に刺激されて、ルキウスは久し振りにカエサルの「ガリア戦記」を読み直してみた。すると、武人としてのカエサルに、ルキウスはもう一人の人物を見出したような気がした。

 ガリアの戦いでは、ローマ軍を散々に苦しめ続けた敵の猛将ウェルキンゲトリクスが、結局はカエサルに降伏した。ローマ人にしてみれば憎んで余りある、敵将ウェルキンゲトリクスの降伏だった。

 だがカエサルは、自分の目の前で彼が武器を投げ出して投降する場面で、この歴史的著作の記述を終えている。ローマ人ならずとも、この著作の読者なら誰もが知りたがるに違いない敵将の最期の模様を、カエサルは素通りしているのだ。

 生かしておいたら危険極まりないこの人物が、死罪を免れたはずがない。斬罪か磔刑か火刑かあるいは撲殺等の、いずれかに処されたはずだ。だが、いかに読み手を失望させようとも、カエサルは敢えてそこには一言も触れなかったのだ。武人としての道を歩み始めていたルキウスには、そう思えた。投降した者に対して、重ねて鞭を振るうかのような行為は勝者のする事ではないし、ましてや死んだ者の墓を暴いて亡骸を披歴するかのような行為は、誇りある武人のする事では、断じてないのだ。

 剣を振るって命を奪い合う武人同士にも、それを超えてやってはならぬ、一線というものがあるのだぞ。……カエサルは、自分達にそう教えているのだ。そう気付いた時、ルキウスにはカエサルという人物が、ますます大きく見えてきた。

 ……いや待てよ、とルキウスは思った。カエサルの真意は、それで終いではないぞ。早晩、ガリアはローマの領土に組み込まれ、そしてそこに住むガリア人達は、すべてローマ市民となるのだ。一方、戦いに敗れてローマ側に囚われの身となったウェルキンゲトリクスだが、ガリア人達の間での人望は、今なお天を衝くほどだった。

 彼は、ガリアの他部族を斬り従えてその指導者の地位に就いたのではない。全部族から推挙され懇願されてなった、ガリア民族の指導者だったのだ。そんな人物の刑死の模様、恐らくは惨たらしい場面を事細かに語ろうものなら、収まりつつあったガリア人達の反ローマ気運の火に、再び油を注ぐ事になってしまう。カエサルは、それを恐れたに違いない。

 いくら力で相手を打ち破って領土を拡大しても、新たに手に入れたその領土には、何百年も前から住み続けてきた人達がいるのだ。そして、昨日までのその敵に、自分達の息子や兄弟や夫を殺された者達と殺した者達に、今日からは同じ国の同じ屋根の下で暮らせ、というのだから、そんな社会の平穏や安寧など長続きするはずがない。その反目は静かに、だが深く潜行し続けるのだ。何の事はない。領土の拡大が、新たな混乱と反目の種を自国内に招き入れてしまう事になるのだ。そしてそんな事例なら、この世界の何処の、何時の歴史を覗いても、星の数ほど散らばっているのだ。そして、そんな事態を招き入れてしまったのは、広い領土を欲しがった権力者とそれをせがんだ国民達なのだ。カエサルは、それを充分に理解していたに違いないのだ。

 軍人としての華々しい戦果にばかりに目を向けられがちだが、カエサルという人物は怜悧に先を読む事のできる、第一級の“政治家”でもあったのだ。……カエサルは、やはり他の英雄達とは違う、全く違う。


 蛮族との戦いでは、今や戦闘員の数ならローマ軍など、彼等の敵ではなかった。これまで静かだった蛮族達が略奪の旨味を聞き知るようになり、北の果てから東の奥地から、続々と略奪行に加わって来ているのだ。折しも、古代ギリシャ人が“エウロペー(ヨーロッパ)”と呼んでいた広大な地域一帯には、かなり以前から強い寒気が居座り、それが寒冷の北辺から温暖な南部の地へと、人口を押し出していたのだ。

 戦場で蛮族と向き合って、彼等の兵員がこちらの倍ほどなら隊長達は胸を撫で下ろすべきで、四倍やそれ以上ということも珍しくはないという。

「こんな状況下では、敵を打ち負かそうとすれば、こちらの犠牲者を増やすだけだ。まともにぶつかって戦うのではなく、肝要なのは敵の攻撃をいなす、やり過ごす事だ」

 講師はそう力説して、血気に逸りがちなルキウス達新兵の顔を見回した。

「肝心なのは、負けない事だ。負けずに蛮族共を北に追い払う事が出来れば、それで上々なのだ。そのためには、こちらの弱点となる所を徹底的に洗い出し、潰しておく事だ」


 ルキウスと共に、ネロも成長していった。基本的には、騎兵の馬は国家から支給される。しかし、自前の馬を用意する場合は、軍団ではそれも許された。騎兵にとって、戦場では馬は生死を共にする戦友なのだ。それに人間と馬との間とはいえ、時には相性の良し悪しの問題もあるのだ。

 騎兵同士の白兵戦の訓練では、ネロは突き出される剣や槍に尻込みする事もなく、手綱一つでルキウスの思う通りに動いた。それどころか、時々相手の馬を威嚇し、前脚を挙げて挑みかかる素振りさえ見せるのだ。それで驚くのは、相手の馬よりもむしろその乗り手の方で、どうやらネロの狙いも、乗り手の方を驚かせ慌てさせる事のようだった。敵は馬ではなく、その乗り手の方である事を知っているのだ。そうやって、自分の乗り手に加勢している積りなのだろう。まったく、この馬はどこまで気が強いのか……。ルキウスは、そんな場面に出会うたびに感心させられた。


 訓練課程が修了すると、新兵百名は二十余りの小隊に分かれて配属された。ルキウスとマルクスは他の三人の新兵と一緒に、ギロー小隊に配属された。ギロー小隊長がクロディウス隊長に談判して、髭も生え揃わないくせに蛮族が出没するドナウ流域を、馬で六百キロも旅してきたという向う見ずな二人を、強引に配属してもらったのだ。

 配属の翌日から、ギロー小隊長による苛酷な訓練が始まった。訓練とはいっても、もはや新兵としての訓練課程は修了している。苛酷な訓練は、小隊として日々の任務を遂行する中で行われた。

 まず、受け持ち地域の巡回に出た時には、通常のルートなどは使わない。出来るだけ急峻な坂道、あるいは湿地帯や藪の中を、わざわざ選んで進んだ。そしてその合間にも、迷い谷やけもの道に踏み入らないための知識や、風や雲の動きで天候の変化を予測する方法など、ギロー小隊長の二十年もの経験のすべてが、新兵五人の頭と体の中に叩き込まれた。

 ある時などは、森で猪を捕獲してそれを解体し、その肉を調理してそれを夕食にした。まさに生き延びるための、生きて戦場から帰還するための、技術の訓練と習得だった。

 真夜中に、隊員達がギロー小隊長に叩き起こされた事があった。ドナウの支流の近くで、野営していた時だ。間もなく雨が降り出すので、その前に川を渡るというのだ。

 隊員達は眠い目を擦りながら、荷物をまとめてゾロゾロと馬を曳いて渡河を開始した。川幅は、二十メートルほどだ。だが、一向に雨が降り出す気配がない。そして、東の空が微かに白み始めた頃に、全員が向こう岸に渡り終えた。だが、それでも雨は降り出しては来なかった。

 何だ、夜明けを待って川を渡ってもよかったじゃないか……。誰も口には出さなかったが、そんな事を言いたそうな、不満気な顔ばかりだった。

「いいか。明日の天気を予測するのは、何も明日が快適な一日かどうかを占うためではないのだぞ」

 隊員達の空気を読み取ったギロー小隊長は、全員を集めてこう諭した。

「これから起きる事を予測し、そしてそれがもたらす最悪の事態に備える。それが、我々の責務なのだ」

「…………」

「…………」

「…………」

「こんな、たった二十メートルばかりの幅の川だが、雨が降って川が増水すれば、我々はそこで何日も足止めを食らう事になる。もし友軍が、我々の到着を今か今かと待っていたら、……どうなる?」

 それから間もなく、雨が降り出した。そして、川はみるみる水嵩を増し、その水は二日間引かなかった。

 ただの天気の予測だが、自分達の任務の中では誰かの命が掛かっている事もあるのだ。すべてを予測し最悪に備える、それが自分達の責務なのだ。……増水した川の流れを見詰めながら、ルキウスはそう思った。

 後日にルキウスはギロー小隊長から聞いたのだが、あの日の真夜中に雷鳴こそ聞こえなかったものの、上流の空では稲妻が何度も光っていたという。


 ある日、夕食を終えたルキウスとマルクスは、その夜の野営地の丘から眼下を流れるドナウを眺めていた。空が薄いバラ色に染まり始めた時刻で、何処からか虫のか細い鳴き声が聞こえてくる。

「ヴァンダルという部族の名前を、君は聞いた事があるかい?」

 ルキウスが、ふとマルクスに尋ねた。

「ああ。西ゴート族の住む辺りの、更にずっと北に居留しているという蛮族だろ?」

「うん。それが半年ほど前に、三人のヴァンダル族と出会ったんだ。ドナウのこちら側で、あのコマロムの一件の後でね」

「ふうん。まさか、略奪の下見に来たんじゃないだろうね」

「いや。自分達ヴァンダル族がこれから移動していく進路が、安全かどうか下見をしているんだと言っていた」

「ヴァンダルは移動する部族だとは聞いているけど、まだ彼等は旅を続ける積りなのかい?」

「うん、そう言っていた。で、三人のうちの一人は名前をラウスといって、若いけれどヴァンダル族の族長だって……。あとの二人は、彼の側近のようだった」

 まさか、と言って、マルクスがルキウスを振り向いた。

「蛮族の族長ともあろう人物が、たった二人のお伴を連れただけで、しかもドナウのこちら側にやって来るなんて、……信じられないよ」

 ルキウスは、ポケットから白い布を取り出して、それをマルクスの目の前にかざして見せた。

「これはヴァンダル族の象徴で、『神の手』というんだって……」

「『神の手』? ……何だか、恐ろし気な図柄だな」

 マルクスは、白い布切れをしげしげと見詰めながら呟いた。

「これを、君はそのヴァンダル族の若い族長とやらから、その時にもらったのかい?」

「うん。で、少し話をしたんだけど、彼等はこれまで話に聞いていた蛮族とは、随分違うような気がするんだ」

「蛮族は、蛮族だろ? 河の向こう側からこちらの収穫作業を見ていて、こちらの収穫が終わったら略奪にやって来るという……」

「いや。彼等は、自分達の手で作物を育てて、そして自分達の手で収穫をしたいんだと、そう言っていた。そのために、自分達一族は南に行くんだって……」

「まさかっ! ローマ帝国の領土を、一族揃って通り抜けて行く積りなのかい?」

 信じられない、という顔付きで、マルクスはルキウスを振り向いた。

「うん、そう言っていた」

「じゃあ、僕達はそのラウスとやらと、いつか戦う事になるね」

 ルキウスも、そういう事になるかも知れないと思いながらも、ラウス達が望むのならローマは領内を通してやればいいのに、と思っていた。あのラウスが率いる集団なら、通り抜けていく地域の住民達と揉め事を起こすなどとは、とても思えなかったのだ。

「それから、こうも言っていた。……お前は、ローマに征服された属州民で、お前の体には北方の血も流れているようだが、そのお前がなぜローマのために戦うんだ、ってね」

「それは、ドナウのこちら側と向こう側に住む者達の、暮らしの差を見れば分かる事じゃないか。こちら側に住めば、飢えで死ぬ心配をする必要はないし、冬の凍てつく夜には身に纏う物もある。市民みんながそんな生活が出来るようにと、ローマは助けてくれている」

「うん。確かに、ね」

「ドナウの向こうでだって、ローマの属州になったあのダキアに住む連中は、ローマと別れて昔の暮らしに戻りたいなんて、もう誰も思うまい。そして、この生活を護るために、我々は戦うんだ。違うかい?」

「うん。……でも、ローマは大きくなり過ぎた。国境線が長くなれば、向き合う敵の数も増えてくる。賢いローマ人達がそんな事に気付かないはずはないのに……。一体ローマ人の誰が、こんなに大きなローマを望んだんだろうね」

「国が大きいという事は、強いという事さ。強い国に住んでいれば、みんなは安心して暮らせる。そうだろ?」

 大人達も、みんなそう言う。だけど、本当にそうなのだろうか……。星空の下をゆったりと流れるドナウを見詰めながら、ルキウスはそう思った。

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