第2話 旅立ち

西暦二三一年。ローマ軍への入隊資格を満たす十七歳になったルキウスは、シルミウムの軍団基地に行って入隊の志願手続きをした。志望する配属先は第十ジェミナ軍団の、もちろん騎兵隊だ。

この当時にシルミウムにあったのは、軍団基地とは言っても、単なる軍の物資の補給基地だった。シルミウムというこの町の名前は、地域の要衝としてしばしばローマ史に登場する。だがそれは、ずっと後の時代になってからの事だ。

幹部隊員としての能力と適性をみるために、受験生には体格や様々な運動能力の測定のほかに歴史、地理、数学、ラテン語といった科目の試験が課された。だが、ルキウスの手応えでは、いずれも及第点を充分に超える成績だったはずだ。特にラテン語、地理、歴史の科目では、ルキウスはほぼ満点の成績だったと思っている。繰り返し読んだ「ガリア戦記」やその他のカエサルの著作には、当時のエウロペー(ヨーロッパ)やその周辺にある国名や地方名、都市名、河川名、山脈名、それらの土地一帯に居住している部族名や歴史的出来事などが事細かに、繰り返し述べられていた。だから、いちいち覚えるまでもなく、それ等の知識が知らぬ間にルキウスの頭の中に積もっていたのだ。

 最後の面接試験を終えると、面接官はルキウスの体格を一瞥して、ボソリと呟いた。

「まったく君は、騎兵になるために生まれてきたような体付きをしとるな」

 ルキウスの長い脚は馬の胴体を挟み込んで、自分の上半身をガッシリと馬上に固定させる事が出来る。長い腕は、馬上から眼下の敵の歩兵に向けて剣を振り下ろすのに有利だ。そしてほっそりとした体格は、自分の体重で馬に余分な負担を強いない。ルキウスの体は、騎兵の条件を三つとも備えていたのだ。


 近隣の町や村から入隊試験に応募してきた百五十名程の若者のうち、幹部候補としてはルキウスを含む十名が抜擢された。それから、他の一般の合格者達と一緒に講堂に集められ、試験官から入隊までの日程や手続きの説明を受けた。

 説明を聴き終えてルキウスが外に出ると、後ろから誰かが声を掛けてきた。ルキウスが振り返ると、長身の少年がニコニコしながら立っていた。……ひどく痩せていて狭い額が目立つこの少年は、確か試験の順番が自分より三つ後ろで、こちらの実技の様子をじっと見詰めていた人物だ。

「僕は、マルクス・クラウディウス。……ダルマチアからやってきたんだ」

 その少年は、そう言ってルキウスに自分を紹介した。

「……で、君は?」

「僕は、ルキウス・アウレリアヌス。この町に住んでいるんだ」

「もちろん、君は騎兵隊に入隊する積りなんだろう?」

 マルクスと名乗った少年は、ルキウスの頭から爪先までを見渡しながら尋ねた。

「うん。ヴィンドボーナの第十ジェミナ軍団の、騎兵隊を志願しているんだ」

「じゃあ、僕と一緒だ。入隊したら、宜しくね」

「僕の方こそ、宜しく」

 マルクスと名乗ったこの少年こそ、四十年ほどの後にルキウスの一代前のローマ皇帝となる、マルクス・クラウディウス・ゴティクスだった。


 間もなく、ルキウスは希望した第十ジェミナ軍団の騎兵隊への入隊を、正式に許可された。あらゆる庇護から離れて自らの力だけで生きてみるんだ、という多感な年頃にありがちな我が息子の向う見ずを、マクシミヌスは苦笑混じりに受け入れた。

 第十ジェミナ軍団といえば、マクシミヌスにとってもローマ軍兵士として大半の年月を送った、古巣だった。その古巣に、我が息子が幹部の一候補として入隊するというのだ。そんな息子を誇らしく思う気持ちが二分で、幹部として本当にこいつは人の上に立って指揮など執れるのか、という頼りなさが残りの八分だった。実際、軍人として部下を持つという事は、その部下達に向かって”お前達は今日、全員ここで死ねっ、死んでくれっ”と言わねばならない事もあるのだ。

 ルキウスが、ローマ皇帝カラカラの治世下に生まれて十七年。そのカラカラと次の皇帝のマクリヌス、そして更にその次の皇帝のヘリオガバルスの、いずれもが暗殺されてその治世を終えたという、騒然とした時代だった。

 一方、東では西暦二二六年にローマ帝国の宿敵であり続けてきたパルティアが滅び、ササーン朝ペルシアが勃興した。また北では、ユリウス・カエサルが構築しその後の歴代の皇帝が守り抜いて来たライン河・ドナウ河の防衛線が、蛮族によってしばしば打ち破られた。まさに、激動の時代に突入していたのだ。


 夏の終わりを迎える頃、ルキウスがシルミウムを後にして、いよいよヴィンドボーナに旅立つ日がやって来た。

 出発の前夜。夕食を終えたマクシミヌスはふと立ち上がると、納屋に入って行った。そして、戻って来たマクシミヌスが手にしていたのは、一振りの剣だった。

「これを、持って行け」

 マクシミヌスはそう言って、その剣を食卓の上にガラリと置いた。ルキウスは、恐る恐るその剣に手を伸ばした。

 ルキウスは、数年前からオークの枝を削って作った木剣で、マクシミヌスから護身術の手ほどきを受けていた。だが本物の剣を手にするのは、これが初めてだった。

 我が身を護り相手を傷付け、時には命さえも奪うという武器のズシリとした重さを、ルキウスは自らの手で確かめた。そして、恐る恐る鞘から剣を抜いてみた。……食卓の蝋燭の光が、ギラリと刀身を走った。

「それは、父さんが実際に戦場で使っていた、歩兵用の剣だ」

「はい」

「騎兵が持つ剣は馬上で使うので、歩兵が持つ剣よりも長いのだが、その分重い。一方、お前の腕は人並み以上に長いが、細くて少しばかり非力だ」

「……はい」

「そこで、その剣の短い分は、お前のその腕の長さにモノを言わせろ。それと……」

「…………?」

「それと、白兵戦で敵と向き合ったら、お前は敵に向かって一歩前に大きく足を踏み出せ。その一歩を前に踏み出す勇気があれば、お前の勝ちだ」

「…………?」

「敵と味方が密集して戦う白兵戦では、剣などは短い方が有利に決まっている。……分かるな?」

「はいっ、分かります」

「一方、お前は脚も長い。その脚を、一歩大きく前に踏み出すだけで、お前の敵はすぐ目の前だ。たった一歩で、お前は敵を白兵戦に巻き込む事が出来るのだ」

「……はい」

「あとはその白兵戦を、有利なその短い剣で戦うのだから、お前は負けようが、ない」

 ルキウスは生涯、この剣を手放す事はなかった。のちに、“常に剣の柄に手を掛けている男”と異名を取る事になる、ルキウスの剣だ。


 ルキウスは、街道まで見送りに来てくれたマクシミヌスに別れを告げ、ドナウ河沿いの街道を北へと遡って行った。彼と旅を伴にするのはネロで、これもマクシミヌスからの贈り物だった。

 ネロはその年の春に、初めて自分の子供を持った。真っ黒な毛並みを持つその牡の仔馬はまさに、血は受け継いだぞっ、と誇るかのようだった。そして、人間と馬の二組の父子が別れを迎えたその朝、その仔馬は父馬から「ネロ」という名も受け継いだ。


 旅の同伴者が、もう一人いた。ルキウスと同じく、第十ジェミナ軍団の騎兵隊に入隊を許可されたマルクス・クラウディウスで、彼とは途中の村で落ち合う事になっていた。

 マルクスは、シルミウムの西五十キロ程の、ダルマチアの山間部の村の出身だ。子供の頃から馬に慣れ親しんできたのは、ルキウスと同じだった。色白で、長身でほっそりとした体付きも、ルキウスと同じ“北方の血”を思わせた。ただ、急峻な山岳地帯で羊を追いながら育ったという彼のその下半身は、見るからに頑健そうだった。

 街道筋のとある村で落ち合った二人は、そのままドナウ沿いの街道を北へと向かった。

「今日の僕は、何だか東方遠征に出発する時の、アレクサンドロス大王のような気分だよ」

 そう言って、マルクスは雲一つない空を見渡した。遠征に出発する時の気分などとは、この日が来るのを心待ちしていた、マルクスの率直な気持ちなのだろう。

「大王も、きっと空から君の事を見守ってくれているよ」

 そう言いながら、ルキウスも顔を巡らせ、秋の訪れも間近な高い空を見渡た。

 マルクスはアレクサンドロス大王に心酔していて、ルキウスは道中、マルクスから何度もその逸話を聞かされた。大王が、マルクスの故郷から山一つ越えただけのマケドニアの出身だった事も、マルクスに親近感を抱かせている理由の一つのようだった。

 ルキウスにとってのそれは、ユリウス・カエサルだった。ルキウスは、老アウレリウスから借りて、結局はもらう事になってしまったカエサル著作の『ガリア戦記』を、何十回も読み返した。

 ルキウスに、この本を読むようにと勧めてくれたのは、老アウレリウスだった。文章の記述が正確で論理的だし、しかも読み手を飽きさせない内容だったから、ラテン語の学習には最適だと思ったのだろうか。もしかしたら、将来この子は父親の跡を継いでローマ軍団に入隊するのではないか、などと老アウレリウスは薄々感付いていたのかも知れない。

 それにしても、自分が夢中になって読んだ蛮族との数々の戦いを、当事者であったはずのこのカエサルという人は、どうして他人事のように淡々と書けたのか……。ルキウスは、不思議に思ったものだ。

 元々この著作は、ローマの元老院に宛てたカエサル自身の業務報告のようなものだったというから、淡々とした記述は当然なのかも知れない。戦闘が一段落すると、巡回裁判に出かけた、などという記述が出て来たりするのだ。

 だが、淡々とした記述は、それだけのせいではないような気もした。この人は、決して熱狂したりなどしない、いつも冷静だったのだ。ルキウスはまだ海など見た事はなかったが、広くて深いのが海だというのなら、カエサルははまさに、海のような人ではなかったか……。

 もちろん、そんな事はマルクスには言わなかったが、アレクサンドロス大王やハンニバル、スッラなどとは、カエサルは種類の異なる人物だったと、ルキウスは思っていた。だから、マルクスがアレクサンドロス大王を語るようには、ルキウスはカエサルを語る事ができなかった。カエサルを正確に語る事など、自分にはとても出来ないと思っていたのだ。

 せめて、ザマの会戦で騎兵隊を縦横に駆使してあのハンニバルを降した、スキピオ・アフリカヌスのような働きがしたいものだ、というのが、若き日のルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスの夢だった。

 

 シルミウムからヴィンドボーナまで、ドナウ河沿いを遡って行くと約六百キロの道程だ。二人が入隊すれば、いずれはこの辺り一帯を、騎兵隊を引き連れて駆け巡る事になるのだ……。これが、もう騎兵隊長になった気分の二人の、一致した意見だった。

 対岸の河原で半裸の蛮族が一人、のんびりと馬の体を洗っている。それに目を遣りながら、ルキウスが呟いた。

「しかし、蛮族との戦いって、永遠に続くのだろうか」

「蛮族共が、こちらに略奪に来るのを止めない限り、いつまでだって続くさ」

 マルクスが、吐き捨てるように言った。

「でも戦闘のたびに、敵のローマ軍より自分達の方が、はるかに多くの犠牲者を出しているというのに、それでも略奪にやって来る。……馬鹿みたいじゃないか」

 そう言って首を傾げるルキウスに、マルクスが一言で答えた。

「それが、蛮族さ」

 こうして、二人の騎兵隊隊長候補は、戦闘の時に要所となりそうな場所の地形をスケッチしたり、その際の戦法を議論したりしながら旅を続けていった。街道筋に点在する町や村の名前や住居数、その住居数から見積もった人口などを地図に書き込んだりしながら、二人はゆっくりとドナウを遡って行った。

 対岸は、鬱蒼とした森また森の連続だ。時折、森の中から白い煙が、細く立ち昇っているのが見えた。


 馬を曳いた三人の男達が、早朝のアクインクム(現ブダペスト)の街の目抜き通りを抜けて、ドナウの河岸にやって来た。いずれも金髪で、身長なら二メートルはあろうかという、屈強そうな大男達だった。

 そのうちの一人は二十歳代半ばの若者で、名をラウスといった。ヴァンダル族のヴィスマール王の息子だが、そのヴィスマール王は五年前にゴート族に殺されている。

 顔の下半分を金色の豊かな髭で覆った、三十歳台半ばと思われるあとの二人は、ビョルンとヨーランという名の、双子の兄弟だ。二人はラウスの側近で、瀕死のヴィスマール王から息子を託されたのだ。

 三人とも身なりはローマ市民と同じで、蛮族らしいところと言えば、透き通るほどに白い肌と金色の毛髪と緑の瞳、そしてその体格だ。

 ヴァンダル族の故郷はスカーディナーヴィア(スカンジナビア)半島と言われ、紀元前二世紀頃にバルテウム(バルト)の海を渡ったらしい。対岸の、現在のポーランド近辺に上陸した彼等は、先住のブルグンド族やゲピド族、ゴート族をはじめとするゲルマンやスラブ系の諸族の住む土地を通り抜け、南下を繰り返してきた。そして、今ではアクインクムの北百キロの辺りにまで移動していた。

 ローマ側から見たいわゆる蛮族の中では、総勢五万ほどで移動中のヴァンダル族は、それほど大きな集団ではない。この当時は、時々ローマ人の口の端に上る程度の部族で、地中海世界にその部族名を轟かせるのは、ずっと後になってからの事だ。


「この辺りまで来れば、少しはイチジクは採れますかな?」

 ビョルンがそう言って、河岸で枝を広げている木々を見まわした。

「ビョルンは、何かと言えばすぐにイチジクの話だ」

 ヨーランが、呆れたように隣で応じた。

「ふん、いいではないか。あのローマ人でさえ、イチジクの実り豊かなカルタゴに嫉妬したというではないか。そのイチジクを、わしは一度でいいから喰ってみたいのだよ。腹一杯に、な」

 ラウスが、二人の掛け合いを聞いて、クスリと笑った。

「ヴァンダル族は、イチジクを求めて南に向かう、か。……なかなか、良いではないか」

「ちっとも、良くありませんなっ!」

 すかさず、ヨーランが真面目腐った顔で反論した。

「腹ぺこビョルン一人のせいで、ヴァンダル族全員がいつも腹を空かしているようで……」

「いずれにせよ、ビョルンの腹を満たすほどのイチジクが実る土地は、もっともっと南だ」

 そう言って、ラウスはヒラリと馬に跨った。二人もそれに続くと、三騎はドナウ河畔を後にして街道に向かって馬を進めて行った。

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