ルキウスとラウス

@aterui1104

第1話 ドナウは東へ向かう

       「皇帝アウレリアヌス」

                    城場 調布


 遥か西の彼方、ゲルマーニアの地に広がるシュヴァルツヴァルトの暗い森。その森深くに滲み出た雪解け水の一滴は一筋のせせらぎとなり、せせらぎとせせらぎが出会いを繰り返しながら、やがてドナウの大河となって東へ向かう。

 東に向かったドナウは、アクインクム(現ブダペスト)でほぼ直角に折れて南に向かい、更にローマ属州の遠パンノニアのシルミウム(現セルビア共和国スレムスカ・ミトロビナ)でもう一度直角に折れて、再び東を目指す。そしてポントス(黒海)の出迎えを受けて、ゲルマーニアの森の一滴の長い旅は、そこで終わる。

 のちのローマ帝国皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、西暦二一四年九月にこのシルミウムで生まれた。


 西暦二三〇年春、シルミウム郊外のドナウ河畔。

 ルキウスは、草むらに寝そべりながらドナウの流れを眺めている。その背後で、先月に三歳になったばかりの牡馬のネロが、のんびりと草を食んでいる。

 ……河を渡り終えたゲルマン族の騎馬集団をここで発見したら、こちらの騎兵をどう展開させるか……。

 強い日差しに目を細めながら、十六歳のルキウスは考えた。目の前を、ドナウの大河が五月の陽光を煌めかせ、時を刻むかのようにゆったりと流れていく。

 ルキウスは草むらから体を起こして立ち上がると、軽い身のこなしでヒラリとネロの背に跨った。十六歳とはいえ、ルキウスの身長は既に百八十センチを超えている。

 ……こちらの騎兵を奴等の正面にズラリと並べても、河岸からここまでのこの傾斜では、奴等もオイソレと駆け上っては来まい……。

 ルキウスは、馬上で顔を巡らせた。

 ……ならば、正面に五十騎ほどのこちらの騎兵の姿を見せてやって、そして驚き慌てた風に河上か河下に駆けさせるのだ。そうすれば、それを追って奴等は駆け上がって来る。斜めに駆け上がる事になるのだから傾斜も緩くなり、敵の集団はドッと動き出す。そして、敵の先頭集団が斜面を登り切る寸前で、隠しておいたこちらの騎兵を奴等にぶつけるのだ。こちらの騎兵集団は雪崩を打って一気に河岸まで突進し、敵の集団を河の流れの中に弾き落とす。……完勝だ!

 ルキウスは、空想を一巡りさせるとネロの脇腹を軽く蹴り、そして家路を辿った。

 このネロは、ルキウスの父親マクシミヌスがこれまでに育て上げてきた馬の中でも、足の速さも耐久力もそして知能も胆力も、抜群の牡馬だった。ネロという名に違わぬ漆黒の毛並を持つこの馬は、気性は激しかったが、ルキウスにはよくなついていた。

 ローマ軍の入隊適格年齢は十七歳以上で、ルキウスは来年で十七歳になる。その適格年齢に達すると同時に、ルキウスはローマ軍の入隊試験に応募する事に決めていた。それに合格すれば、取り敢えずは軍団の幹部候補として処遇してもらえる、という試験だった。希望する配属先は、ヴィンドボーナ(現ウィーン)にある第十ジェミナ軍団の、もちろん騎兵隊だ。

 父親のマクシミヌスは、この事を息子のルキウスから改めて相談された事はなかった。だが、農作業や馬の世話を手伝う傍らで、暇さえあればカエサルの「ガリア戦記」に読み耽っている、そんな我が息子の姿を見続けてきたのだ。ヒョロリと背ばかり伸びたこの息子が自分の将来にどんな夢を描いているのか、自ずと察しが付くというものだ。


「ネロの顔が、だんだんお前に似て来たぞ」

 滅多に冗談など言わないマクシミヌスだったが、そんな事を言って、ネロの世話で夕食に遅れて来たルキウスをからかった。

「僕は、顔が父さんにそっくりだと、よく皆から言われるんですよ」

「ほほう。それじゃあ、我が家には似たような顔が三つもあって、我が家を訪ねてくれた客人達には、見分けがつかんじゃないか。……困った事だぞ」

 日頃は、声をあげて笑い合うなど余りない二人だったが、そんな事を言い合って大笑いをした。


 父親のマクシミヌス・アウレリアヌスはローマ軍歩兵部隊の百人隊長まで勤めた男で、代々ローマ元老院議員の家柄であるアウレリウス家の領地の出身だ。左顎に残る深くて大きな刀傷は、ゲルマン族と四半世紀にもわたって戦い続けた、マクシミヌスの経歴そのものだった。そしてその傷跡は、そんな父親を敬愛して止まないルキウスの、密かな誇りでもあった。

「お父さん。その顎の傷、どうして出来たの?」

 十歳の頃に、ルキウスは思い切って父親に訊いてみた事があった。ルキウスの、以前からの疑問だったのだ。

 その傷については、マクシミヌス本人はルキウスにも、そして他の誰にも何も語った事がなかった。だからルキウスは、その傷の事は本人に訊いてはいけないのだろうと思っていたのだ。

 だが、ルキウスの遊び友達もそして周りの大人達も、マクシミヌスの顎の傷跡の訳を知りたがった。それで、皆がルキウスにその訳を訊いて来るのだ。

 この村の出身で、ローマ軍の百人隊長まで勤め上げた人物といえば、これまでにマクシミヌスだけだった。そして戦闘での武勇を称える月桂冠を、マクシミヌスが軍団から何度も受けていたというのも、村ではよく知られていた。だから、マクシミヌスのあの顎の大きな傷跡の裏には、一体どんな武勇伝があったのだろう、とは、誰もが興味をそそられる謎だったのだ。

 だが、元々マクシミヌスは無口だったし、顔にそんな大きな刀傷があるのだから、決して人相がいいとも言えなかった。だから、気軽に本人に傷の訳を訊くのも、何となく憚られたようだ。それで皆はその訳を、ルキウスに訊いて来るのだ。

「この傷の事か? ……父さんが、今でもこうして生きているのは、顎に出来たこの傷のお蔭なのさ」

 マクシミヌスは、別に気分を害した風でもなく、気軽な口調で幼い息子の疑問に答えてやった。

「じゃあ、その傷が顎に出来なかったら、お父さんは死んじゃっていたの?」

「ああ、そういう事になるな。そしてそうすると、お前もこの世に生まれて来る事ができなかった、という事になるのだぞ」

 そう言って、マクシミヌスはニヤリと笑ってみせた。

 マクシミヌスの話では、若い頃にゴート族と戦っていた時に、敵に押し倒された新兵の部下を助けようと両者の間に割って入り、その時に負った傷だという。

「いいか。人間の頭部で、剣の刃を受けても命に別条がないのは、ここの顎の所だけだ」

 そう言って、マクシミヌスは顎の古傷を撫でてみせた。

「脳天はもちろん、額も目も鼻もこめかみも、そして後頭部も、一撃であの世行きだ。だが顎だけは、剣の刃を受けても直ちに命に別状があるわけではない。ただ、あの時はたくさん血が出て、結構痛かったがなあ」

 そう言ってマクシミヌスは、その時の痛さを思い出したように顔を歪めてみせた。それに釣られて、ルキウスの小さな顔も歪んだ。

「だから父さんは、痛いのを我慢して顎で敵の剣を受けたのだ。そしてその隙に、父さんの剣が敵の心臓を、……」

「…………」

「それで、その敵が死んで、代わりに父さんが生き残った。そして、やがてお前が生まれて来る事ができた、というわけだ。……めでたし、めでたしっ!」


 マクシミヌスは四十二歳でローマ軍を退き、故郷のシルミウムに戻って来た。そして農業の傍らで、軍馬の飼育にも勤しんできた。

 この地方は、古来より良馬の産地だ。その昔、アレクサンドロス大王が引き連れて西アジア一帯を駆け巡った騎兵隊は、兵も馬もトラキア産だ。そして、そのトラキアの山岳地帯を北に下った一帯に、遠パンノニアの平地が広がる。

 マクシミヌスは、退職金の一部で何頭かの馬を買い求めた。そして、戦闘に向きそうな運動能力と気質を併せ持つ血統をかけ合わせながら、軍馬を飼育して来た。そして、これまでに三十頭余りを、ローマ軍の騎兵隊に納めてきた。

 もちろん、これまでにマクシミヌスが育て上げた馬なら、その数倍の頭数だ。だが、戦場では兵士の命を預かるにも等しい軍馬であれば、滅多な馬ではローマ軍に引き渡せるものではなかった。

 マクシミヌスは、北方から押し寄せて来るゲルマン諸族の騎馬集団と剣を交えながら、もはや歩兵の時代ではない事を悟った。重装歩兵を中核とするローマ軍が負け続けたなどというわけでは、もちろんない。だが、歩兵の働きが勝利を決定付けたという戦闘の話は、各地に展開する全ローマ軍団の間でも、久しく聞かれなくなっていたのだ。


 男盛りも過ぎ、四十二歳で故郷のシルミウムに戻って来たマクシミヌスは、十五歳年下の村の娘と所帯を持った。だが、その娘はルキウスを生んで間もなく、疫病に罹って死んでしまった。疫病とは、当時この地方で流行った、ペストだったという。  

 だから、ルキウスは母親の顔を知らないし、夫婦生活が短かったせいか、マクシミヌスが亡き妻との思い出話を語る事も、滅多になかった。

 しかし、ルキウスは、自分の体には母親を通して三分の一か四分の一くらいは、ゴート族の血が流れているのだろうと思っていた。

 父親マクシミヌスの肩幅の広いガッシリした体格は、典型的な地中海人のものだ。一方、色白で長身の自分には、北方から南下して来てこの辺りに住み着いた、ゴート族の血が混じっているのだろう、とルキウスは思っていた。

 元々この地方のドナウ河を挟んだ対岸は、ダキアと呼ばれるゴート族の土地だった。トライアヌス帝によって、このダキアが属州としてローマ領に組み込まれたのは百六十年以上も前の事で、この一帯では民族間の血の融合も、ある程度までは進んでいたのだ。

 もしかしたら、異民族との混血をさかんに奨励して来たローマ帝国の方針に従って、マクシミヌスも異民族の血が混じって流れる娘を妻にしたのかも知れない。退役後もローマ戦士たらんとしてきたこの男なら、あり得た事だ。

 マクシミヌスは後添えを取る事もせず、ルキウスを男手一つで育ててきた。軍団に入ったばかりの頃は、炊事を始めとする雑用も随分やらされた。だからマクシミヌスにとって、育児はともかく、それ以外の炊事や洗濯や裁縫などは、お手のものだった。ルキウスには雑草にしか見えない奇妙な香りの植物や、あるいは木の枝か根っこにしか見えないようなキノコなどを採って来ては、それ等を手際よく調理した。本人は“ローマ軍の野営飯”などと呼んでいたが、ルキウスは不味いと思った事は一度もなかった。

 寡黙なマクシミヌスは、軍隊での自分の武勇伝などを他人に語り聞かせるなどという事はなかった。幼いルキウスに、彼の父親がどんなローマ軍戦士だったのかを聞かせてくれたのは、アウレリアヌス家の後見人ともいうべき、ローマ元老院議員の老アウレリウスだった。


 老アウレリウスは数年に一度、ローマからシルミウムの領地に帰省した。そしてその折には、必ず村人達全員に何がしかの手土産を携えてきた。特に、ローマで流行っている装身具や布地などは、村の女性達を夢中にさせずにはおかなかった。大人の男達には、“グラッパ”という強い蒸留酒を一瓶、と決まっていた。

 土産は、村の子供達にも用意されていた。七年ほど前に老アウレリウスが帰省した時、ルキウスは学習用の算盤と石板をもらった。

 お礼を言って帰ろうとするルキウスに、老アウレリウスが声を掛けて来た。

「ルキウスや。ヴィンドボーナの司令官誘拐事件というのを、知っとるかね?」

「い、いいえ。……ア、ア、アウレリウス様」

 元老院議員に初めて声を掛けられて、ルキウスはドギマギした。

「何だ、知らんのか?」

 呆れたような声が、年老いた元老院議員の口から洩れ出た。

「自分の手柄話を、実の息子にも話して聞かせてやらぬとは……。いやはや、お前の父さんも筋金入りの、へそ曲りの偏屈男だわい」

 そう言って禿げ上がった頭をツルリと撫でると、老アウレリウスは長椅子に座っている自分の腰をずらして、ルキウスを隣に座らせた。

「いいかね、お前の父さんは、な。軍団から名誉の月桂冠を八回も贈られたという、軍団屈指の勇士だったのだぞ」

 で、ヴィンドボーナの司令官誘拐事件とはな、と言って、老アウレリウスは口元をツルリと一撫でして、そしてニヤリと笑った。

「軍団のある司令官が、ある晩に一人でコッソリと、基地の外に住んでいる友人を訪ねたんじゃよ。友人といっても、……ま、その、何だ、……いわゆる、若い女性だったんじゃが、な」

「…………?」

「ところが、司令官はその女友達の家で、忍び込んできた蛮族に誘拐されてしまって、な。ドナウの向こう側に、連れ去られたんじゃよ」

「で、その司令官は、どうなったんですか?」

「さあ、そこでお前の偏屈、へそ曲り父さんの登場だ。……事件を知った軍団のお偉方は、軍団一の強心臓マクシミヌスに、司令官の身柄の奪還を命じたんじゃ。内密に、な。……分かるか?」

「内密に、ですか? みんなで、大勢で行けばいいのに……」

「ま、ま、ま、それはそうなんじゃが……。で、司令官の奪還を命じられたマクシミヌスは、ドナウの対岸に泳ぎ渡って、三日後に戻って来たんじゃよ。一人の男を連れて、な」

「その男って、誘拐された司令官ですか?」

「いやいや。何と、それは蛮族の族長だったんじゃ! で、マクシミヌスが言うには、夜中にその族長が女友達の家にいるところを、誘拐してきたんじゃそうだ。……そして、二人の人質の交換、という事になったわけだ」

「また夜中に、また女友達の家で、ですか? ……やる事が、二人ともおんなじですね」

 突然、ルキウスの頭上で、老アウレリウスの笑いが爆発した。

「ワッハッハッハッ、……そ、そ、その通りだ。ま、ま、全く同じだ。……わ、わしは、これをローマで聞いたんじゃが、あの時はもう、笑い過ぎて顎が外れてしまったぞ」

 で、と言って老アウレリウスが続けて語るには、その司令官が別の基地に配置換えになった時に、隊長の地位を用意するから一緒に来ないか、とマクシミヌスを誘ったそうだ。だが、マクシミヌスはそれを断ってしまったという。

「あの時に、はい、と一言言っておったら、なあ。お前の父さんも、歩兵部隊の大隊長くらいには出世していたに違いないんじゃが……。まったくもう、欲もないし融通の利かない、へそ曲がりの偏屈男だったわい」

「でも、間抜けな二人ですね」

「そうだ、その通りだっ! 人の上に立つ者は、間抜けではいかん。まず、賢くなければならんのだぞ」

 そう言って老アウレリウスは、皺の刻まれた手でルキウスの頭を、優しく撫でた。

「だから、ルキウスも賢くならねばならん。そのためにも、その石板と算盤で、今日からしっかりと勉強を、おし」

「はいっ、アウレリウス様!」

「んっ! ……文字が読めて、書ける事。数を数えられて、足したり引いたり出来る事。それが、まず一番目じゃっ!」

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