三章 気になるあの娘と初土産①
ミネルヴァは本校舎と学生寮の他に、研究棟、図書館、大講堂という建物があった。
本校舎は生徒達が授業を受ける場所、研究棟は高等部卒業後もミネルヴァに残る研究生が出入りする場所で、図書館と大講堂は、魔術師組合に所属する魔術師が利用することもある。
時に著名な魔術師が大講堂で講演をしたり、貴重な研究資料や魔術書を、図書館へ寄贈することもあった。
そんなミネルヴァ図書館のロビーに、ルイスは足を踏み入れる。
図書館は常に静寂が保たれている空間だ。だが、ルイスが足を踏み入れた途端、図書館を使っていた生徒達の間で、ヒソヒソ声がさざ波のように広がっていく。
ルイスが適当な席に座ると、そのテーブルで勉強していた生徒達が性別年齢問わず、ガタガタと立ち上がり、違う席に移っていった。
どうやら、ルイスの悪評は男子寮だけでなく女子寮にまで広まっているらしい。
(まぁ、別にいいけどよ)
ルイスは特に気にせず勉強道具を広げ、課題に取り組む。
ミネルヴァの学生寮に入寮して一週間、ルイスはまだ正式に入学はしていないが、入学予定生という扱いで、図書館の使用を許可されていた。
ルームメイトのオーエン・ライトの協力で、課題を難易度順に並び終えたルイスは、その順番に沿って、黙々と課題を片付けていた。
課題は、正直それほど難しくはない。きちんと教本を読めば、問題の解き方は分かる。
ただ、王国史は記述問題が多く、解答には別に資料が必要な場合も多い。そのため、ルイスは一日の半分以上をこの図書館で過ごしていた。
朝起きたら、身支度をして図書館で勉強。
昼前に一度敷地を抜け出し、近くの街の食堂で働く。客足が落ち着いた昼過ぎに賄いを食べたら、また図書館で勉強。
夕食の時間になったら寮の食堂で夕食を食べ、昼と同じ食堂で夜遅くまで働く。
そして、日付が変わる手前ぐらいで寮に戻り、誰もいない浴場でサッと汗を流して就寝。
それが、ルイスの一日の流れだ。
特待生であるルイスは、授業料や教材費は免除されているが、羽根ペンやインク、筆記帳といった消耗品は自分で購入する必要がある。それと、学生寮以外の食事――主に平日の昼食は、本校舎の学生食堂で食べるにしろ金がかかるのだ。
それ以外にも、嗜好品だの肌着だの、細々と必要な物は出てくるから、金があって困ることはない。
故郷を出た時に、ジャムの瓶に詰めてもらった大銀貨は、大事なへそくりなのだ。急な出費でもない限り、極力手をつけないでおきたかった。
勉強と労働の両立は、ルームメイトのオーエンに言わせたら多忙に見えるらしいが、娼館で雑用係をしていた頃に比べたら、ずっと楽だ。
なんといっても、自分の勉強のために時間をとれるというのは、ルイスにとって非常に贅沢なことであった。
(今日は、王国史の課題を集中して片付けるか)
ルイスは教本のページを捲りながら、ゴキゴキと首を鳴らす。その音だけで、別テーブルの女子生徒達が、ひぃっと恐怖の声を漏らした。
耳を澄まさずとも、「不良よ」「不良だわ」「やだ、怖い」という少女達の囁きが、微かに聞こえてくる。中には涙目になっている娘もいた。
(繊細なお嬢様は大変だなぁ)
強かな娼館の女に囲まれて育ったルイスは、思わず失笑した。
* * *
「おぅい、ルー坊。注文聞きに行ってくれ!」
「もう聞いた。四番テーブルに鶏の煮込みとハムの盛り合わせ、エール二つ。七番テーブル、塩漬け豚と豆のスープとパン三つ」
「ルイス君、ごめーん、洗い物おねがーい!」
「あいよ」
ルイスが働いている食堂は、ゴアの店と呼ばれており、昼は食事、夜は酒を提供する大衆食堂だ。
ルイスのことをルー坊と呼ぶ、大柄な髭親父が店主のゴア。ヒョロリと痩せた腰の低い中年親父がロウだ。店は大体この二人と、ゴアの娘のサリーの三人で回している。
ただ、一三歳のサリーは街の学校に行っているので、昼は人手不足で苦労していたらしい。そこで採用されたのが、ルイスというわけだ。
安くて美味いゴアの店は、そこそこ繁盛しており、昼飯時ともなれば、ひっきりなしに客が来る。
制服のケープとベストを脱ぎ、シャツの上にエプロンを着けたルイスは、流し場に入ると、おっかなびっくり蛇口に手を伸ばした。
その様子を見ていたロウが、食器を拭きながら目を丸くする。
「ルイス君、まだ、水道に抵抗があるのかい?」
「仕方ねぇだろ、故郷に水道なんてなかったんだから。なぁ、この水、本当に大丈夫かよ? 腹下さねぇ?」
故郷にいた頃、川の水で腹を下したことがあるルイスは、唇を尖らせながら、恐る恐る蛇口を捻る。ロウは痩けた頬を震わせて笑った。
「ルイス君、賄い食べてケロッとしてたじゃない」
「そうだけどよぉ……」
「魔術師志望が、水道なんかにビビってんじゃねぇよ! おい、ルー坊、こいつを二番テーブルだ!」
店内は騒がしいので、働いていると自然と大声になる。
ルイスはゴアに大声で「あいよ!」と怒鳴り返し、洗い物を後回しにして、客席へ向かった。
昼飯時が過ぎて、客足が落ち着いてきた頃、ルイスはカウンターの奥で賄いを食べる。賄いは大体店の残り物で、今日は塩漬け豚と豆のスープだった。
勢いよくスープをかきこむルイスに、店主のゴアは夜の仕込みをしながら満足そうに笑う。
「いい食いっぷりだ。若者はそうでなくちゃいけねぇ」
「あぁ、ゴアの飯はマジで美味いからな。仕上げにジャムがあれば完璧だ」
「最後の一言で台無しだ馬鹿野郎! ミネルヴァ卒業したら、サリーの婿にしてやろうと思ったのによ!」
「サリーは年下の男はタイプじゃないんだとよ」
この場にいないゴアの娘は、年上で足の長いハンサムが好みのタイプらしい。
なお、ルイスは身長こそ人並みだが、栄養状態が良くなかったせいで痩せているし、ハンサムとは程遠い、少女めいた顔をしている。育ててくれた娼婦達曰く、母親似らしい。
この顔のせいで、娼館時代はまぁまぁ舐められて苦労したのだ。娼館の店主は、事あるごとに「役に立たなきゃドレスを着せて店に出すぞ」と言って、ルイスを脅した。
娼館の店主を思い出し、ゲンナリしているルイスに、痩せた中年のロウが、テーブルを拭きながら言う。
「ルイス君、学校ではモテるんじゃないの? ちゃんと身だしなみ整えたら、カッコいいよ」
「生憎だが、男女問わずビビられてるぜ。この一週間でついた通り名が、ジャム狩りのミラーだ」
途端にゴアが野太い声でゲラゲラ笑った。
「だっせぇ!」
「うっせぇな! 俺だって、だせぇって思ってんだよ畜生っ!」
怒鳴り返し、ルイスは残りのスープをかきこむ。
これを食べたら、また図書館に戻って勉強の続きだ。
きっとまた、図書館の生徒達は、ルイスを遠巻きにするのだろう。
それは別に構わないのだが、ジャム狩りというダサい呼び名を撤回するにはどうしたものかと、ルイスは密かに頭を悩ませた。
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