一章 未だ知らぬ、世界と家族とジャムの味④

 一眠りしたルイスは、ショーナが使っていたベッドのシーツを直すと、自室に戻り、藁布団に手を突っ込んだ。

 まず引っ張り出したのは、斜めがけの鞄。それから、ラザフォードの教本、推薦状。

 それと、へそくりを貯めたジャムの小瓶も忘れずに持っていこうと、藁布団に手を突っ込んだルイスは、小瓶の不自然な重みに眉をひそめる。


「……あ」


 引っ張り出した小瓶には、大銀貨が詰め込まれていた。それが一二枚――丁度、この店の娼婦の人数と同じだ。

 大銀貨が一枚あれば、ルイスなら切り詰めて一ヶ月半は食っていける。

 まじまじと瓶を眺めたルイスは、ジャムのラベルに文字が書き込まれていることに気がついた。


『帰ってくんなよ!』


 少し癖のあるその字は、年長の娼婦ヴィヴィアンのものだ。


「……っはは」


 ルイスは短い髪をグシャリとかき乱して笑う。

 ショーナは、自分達は家族にはなれないと言った。それでもルイスは、寄り添い合うだけの他人も悪くないと思うのだ。


       * * *


〈紫煙の魔術師〉ギディオン・ラザフォードは、厚い雲に覆われた空を見上げながら、村の外れの馬車乗り場に向かう。

 予定よりも随分と長く滞在してしまった。その理由は言わずもがな。


(さて、あのクソガキは来るだろうか)


 推薦状を渡してやった時、ルイスが喜ぶでもなく戸惑っていたのが、ラザフォードには気になった。

 自分に自信がないのとは違う。あれは、今まで将来のことなんて考えたことがない、という顔だった。

 ラザフォードは足を止め、雪に覆われたダングローツの村を振り返る。

 貧しい村だ。凍死しないように、餓死しないように、毎日生きていくだけで精一杯の世界では、将来の展望など考えている余裕もないのだろう。

 中には、聞きかじった成功譚に夢を抱く者もいるのかもしれない。だが、あの賢い少年は、どこまでも冷たい現実だけを見据えていた。


(……来ねぇかも、しれねぇなぁ)


 やがて馬車が見えてきた。まだ早い時間だったので、他の乗客の姿はない。御者は手綱を握って、うつらうつらしている。

 出発前に一服するかと煙管を取り出そうとした時、馬車の中から妙な声がした。


「ぺくちっ」


 なんだ今の声は、とラザフォードは幌馬車の中を覗き込む。

 馬車の奥の方に積荷らしき木箱が幾つかあった。その隙間に縮こまり、ボロ切れに包まって震えているのは、あのクソガキではないか。

 ルイスは何か言いかけて、「ぷしっ」とクシャミをした。

 ラザフォードは何食わぬ顔で幌馬車に乗り込み、座席に腰掛ける。


「よぉ、クソガキ。いつからここにいた」


 ルイスはズズッと洟をすすり、「夜明け前」と小声で返す。それはさぞ冷えたことだろう。

 ラザフォードは懐から煙管を取り出し、火は点けずに手の中でクルリクルリと回した。


「お前は魔術師になって、何をしたい? ルイス・ミラー」


 冷たい現実だけを見据えていた少年が、どんな大志を抱いてここにやって来たのか、ラザフォードには興味があった。

 ルイスは灰色がかった紫の目でラザフォードを見上げ、宣言する。


「金を稼いで、マーマレードってのを食う」

「……あ? マーマレード?」


 なんだそりゃ、と呆れるラザフォードに、ルイスは八重歯を見せてニヤリと笑う。


「曖昧な目標より、ずっといいだろうがよ」

「マーマレードを食った後の目標も、考えとけよ」

「そのうちな」


 冷たい風が吹き込む幌馬車の中、ボロ切れに包まった少年は目を閉じた。



 野望も大志もなく、寒村の少年は村を出る。

 その手に、僅かな荷物とジャムの小瓶を握りしめて。

 ルイス・ミラー一一歳。この時の彼は、自分が七賢人を目指すことになるなんて、これっぽっちも思っていなかったのだ。

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