一章 未だ知らぬ、世界と家族とジャムの味③

 ルイスは腹の底から激怒した。

 このボサボサ眉毛の魔術師は、ルイスが文字を読めないと思っているらしい。

事実、この村はさほど識字率が高くない。ルイスが読み書きできたのは、店主に「死ぬ気で覚えろ。できなきゃ、ドレス着せて店に出すぞ」と脅されたからだ。


(このジジイは、俺を舐めて、見下してる)


 腹が立ったルイスは、フラフラと立ち上がり、教本で覚えたばかりの詠唱を口にした。

 魔術師の男が目を剥く。その鼻っ面にルイスは指先を突きつけて、最後の一節を唱えた。

 指先から風が吹いて、男の短い白髪を揺らす。

 本当は火を起こして、男のボサボサ眉毛を焦がしてやりたかったのだが、属性の相性的に風が一番使いやすかったのだ。

 どうだジジイ、という気持ちを込めてルイスがフンと鼻を鳴らすと、男は硬い声で呻いた。


「……おい、坊主。今の魔術、誰に教わった?」

「その本に書いてあっただろうがよ」


 教本には、指導する側の書き込みが幾つもある。そのおかげで、内容を理解するのには、さほど苦労しなかった。

 ボサボサ眉毛の魔術師は、まだ驚いているらしく、目を見開いてルイスを凝視している。


「覚えただと? これを読んだだけで?」


 ルイスは痺れる体に鞭打ち、ふんぞり返って不敵に笑った。


「それがどうした」

「それは、ミネルヴァの生徒が半年かけて学ぶもんだぞ」


 ミネルヴァ。聞いたことがある。この国の魔術師養成機関の最高峰。

 魔術は元々貴族の特権だ。だから今でも魔術師養成機関に通うのは貴族の人間か、裕福な家の子どもだと聞いたことがある。田舎の娼館で下働きをしている自分とは、無縁の世界だ。

 それにしても、この程度のことを覚えるのに半年もかけるなんて、なんとぬるい世界なのか。

 死ぬ気で覚えろ、役立たずは野垂れ死ね――そういう世界で生きてきたルイスは失笑した。


「じゃあ、ミネルヴァってのは大したとこじゃねぇんだな。テメェの教え子どもは、田舎のクソガキ以下だ」


 ルイスはとびっきり蔑んだ目で、男を見た。少しでも挑発して、隙を見せたら殴ってやろうと思ったのだ。

 だが、男はルイスの挑発に乗らなかった。どころか、なにやら考え込むような顔をすると、取り上げた教本をルイスに差し出す。


「おい、クソガキ。俺は一週間、この村に滞在する。その間にこの教本に書いてある初級魔術を四つ覚えたら、この本より良いものをくれてやるぜ」


 なんで自分がそんなことしなくちゃいけないんだ、という気持ちと、この男を見返したいという気持ちが、ルイスの中でせめぎ合う。

 結論を出すのに、さほど時間はかからなかった。

 ルイスは、周りが呆れるほど負けん気が強い少年なのだ。


「その良いものとやらがくだらねぇ代物だったら、雪に埋めるぜ、ジジイ」


       * * *


 それから一週間、ルイスは仕事の合間を縫って、勉強に明け暮れた。

 蝋燭を節約したかったので、日の明るい内に教本を読んで中身を覚え、夜はひたすら実践の時間に充てる。

 役立たずは野垂れ死ね、という劣悪な環境で育ったルイスは、とにかく学習能力と集中力が高い。

 まず最初に、どういう順番で習得するのが最も効率が良いかを考え、自分の中で段取りを決める。

 段取りを決めた後も、ただがむしゃらに練習するのではなく、失敗したらその原因を追求し、別のアプローチを考える。それが他のことに応用できないかも、併せて考える。

 そうして一週間が経った日の夕方、ルイスは娼館の裏の薪割り場で、教本に書いてあった初級魔術を全て披露した。

 四つ覚えたら、という約束を無視し、ルイスは教本に載っていた全ての魔術を行使する。

 教本の最後に載っていた風の刃を操る術を使い、薪を真っ二つに叩き割ったところで、ルイスは鼻を鳴らした。


「見たか、ジジイ」


 切り株に座り、煙管を吸っていた魔術師の男は、懐から一枚の紙を取り出し、ルイスに差し出す。

 あの煙に麻痺させられたルイスは、顔をしかめて紫煙を避けながら、その紙を恐々受け取った。

 紙には、ルイスを魔術師養成機関ミネルヴァの特待生に推薦する旨が記されている。

 推薦者の名は、ミネルヴァ教授〈紫煙の魔術師〉ギディオン・ラザフォード。

 推薦状から顔を上げて、ルイスは真顔で言った。


「そうやって、人攫いに売ろうって腹か?」


 拳骨をくらった。

 ルイスが殴られた頭を押さえて呻いていると、ラザフォードは煙管を一口吸い、呟く。


「俺は明日の午前に発つぜ。それまでに、どうするか決めな」


 それだけ言って、ラザフォードは薪割り場を立ち去った。

 ルイスはもう一度推薦状を見下ろし、荒れた唇を噛み締める。

 魔術を覚えようと思ったのは、便利そうだから。そして、ラザフォードの鼻を明かしてやりたかったからだ。

 そこから先のことを、ルイスは何も考えていなかった。


(……俺が、ミネルヴァに?)


 不思議と、喜びよりも戸惑いが強い。

 ルイスには、野心とか野望というものがない。毎日、生きていくのに必死で、そんなことを考える余裕などなかったからだ。

 だから、具体的な願望が何も浮かんでこない。


「…………」


 ルイスはもう一度、推薦状を見下ろす。

 この村では滅多に手に入らない上質な紙に書かれた、推薦状。

 自分がこの娼館を出ていく未来を、想像したことがなかった。

 だから、何をしたいとか、何になりたいとか、そういう具体的なことが思いつかない。

 頭に浮かんでくるのは、そろそろ掃除をして、帳簿付けをしないと、また飯抜きにされる――そんなことばかりだ。

 飢えて死なないように。凍えて死なないように。生き延びることで精一杯の野良犬に、どうして大層な夢など抱けるだろう。

 ルイスは推薦状を折り畳んで、ポケットにしまうと、娼館に向かって歩きだす。

 店に入ったところで、店主のカーシュに話しかけられた。


「客と何かあったか?」

「なんも」


 きっとカーシュは、ルイスが出ていくことを許しはしないだろう。守銭奴のカーシュは、使い潰しの利く雑用を、ただで手放したりはしない。

 馬鹿正直にここを出て行くなどと言ったら、ここまで育ててやった恩を忘れたか、と殴られるに決まっている。

 自室に戻り、掃除用具を手に廊下に出ると、今度は年長の娼婦のヴィヴィアンに声をかけられた。


「ルイス、ショーナの部屋、もう一回掃除しといてくんない?」

「あ? なんでだよ?」


 ショーナ。客に心中を持ちかけられながら生き延び、冬を越えることなく、病で死んだ娼婦。不器用な彼女に編んでやった黒髪をボンヤリ思い出していると、ヴィヴィアンが素っ気なく言う。


「そのうち、新しい子が入るらしいから、少しは綺麗にしといた方がいいでしょ?」

「……ふぅん。分かった」


 新しい娘が来るなら、何かと準備があるから、ルイスも事前に知らされているはずだ。きっと、連絡ミスがあったのだろう。

 モップを担いでショーナの部屋に向かうルイスの背に、ヴィヴィアンが声をかける。


「ゆっくりでいいよ。カーシュには、アタシから言っとくからさ」


 どうやら自分は気を遣われているらしい。それほど酷い顔をしていたのだろうか。


(……してんだろうな。魔術の訓練で、寝てねぇし)


 ルイスは欠伸をしながら、ショーナの部屋の扉を開けた。この部屋は、たまにルイスが掃除をしているので、それほど埃っぽくはない。

 ヴィヴィアンが気を遣ってくれたことだし、少し昼寝でもしようか。

 皺一つないシーツにゴロリと寝そべり、ルイスは目を閉じる。

 ショーナがいた頃は、この部屋に入ると化粧と香水の匂いがしたのに、今は湿った空気の匂いがするだけだ。


(ショーナの香水、あれは何の香りだっけか…………そうだ、柑橘だ)


 南部生まれのショーナは、柑橘が好きだった。ルイスは柑橘なるものを、ショーナの香水の香りでしか知らない。


『ねぇ、ルイス。あんたはさぁ。ちゃんとこの店を出て、いつか家族を作りなよ』


 うつらうつらと微睡みながら、ショーナの言葉を思い出す。


『ここはあんたの家じゃないし、あたし達は家族じゃない。だから、あんたは……ちゃんと、ここを出て行くんだよ』


 そう言って、ショーナは窓の外を見ていた。

 何もない、ただ白一色の村を。


(ショーナ。俺は、家族が欲しいなんて思ったこと、一度もねぇんだよ)


 家族だなんて漠然としたものより、もっと明確に欲しいものがある。

 あぁ、そうだ。とりあえずは、これを目標にしよう――眠りに落ちる直前に、ルイスは決めた。

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