一章 未だ知らぬ、世界と家族とジャムの味②

 ショーナの死から四ヶ月が経ち、リディル王国は春起月ウィドルの初週を迎えた。

 この時期は精霊が春の風を届ける季節、などと言われているが、ダングローツは今日も雪景色だ。

 雪が降りだす前に水仕事を終えたルイスは、かじかむ手を擦りながら、自分の部屋に戻った。

 ルイスの部屋は藁布団と、ほんの少しの私物を入れる木箱があるだけで、あとは半分以上掃除用具に占領されている。元々は物置なのだ。

 ルイスは藁布団の藁に手を突っ込み、中に隠した小瓶を取り出す。

 ショーナに貰ったジャムの空き瓶は、へそくり入れとして活用していた。ポケットに放り込んでいた駄賃を、ルイスは小瓶の中に落とす。


(腹一杯のジャムを食べるには、あと、どんだけ貯めたらいいんだろうな)


 ジャムの瓶を揺らして僅かばかりの銅貨をチャリチャリ鳴らし、その音を楽しんでから、ルイスは瓶を藁布団の中に戻した。

 そして、藁布団に隠していた本を引っ張り出す。

 それは、今朝ルイスが廊下で拾った本だ。おそらくは客の落とし物なのだろう。ここ数日は、雪崩で足止めをくらった者達が、複数滞在している。

 拾った本の持ち主を探すなんて発想、ルイスにはない。落とし物は拾った人間の物だ。

 おまけにこの本、ただの本ではない。表紙に記されているタイトルは『実践魔術初級』。

 これは、魔術の教本――いわゆる魔術書というものなのだ。

 魔術は、かつて貴族が独占していた、詠唱によって魔力を行使し、奇跡を起こす術だ。

 現代では魔術師養成機関も増え、庶民にも多少の門戸は開かれたが、それでも魔術師養成機関に入学するには、金か才能――或いはその両方が必要になる。

 そのため魔術師の数は少なく、こんな田舎村で見かけることはまずなかった。


(朝読んだとこの、続きは……っと。ここだな。魔力操作技術について……)


 拾った魔術書は、余白に細かな字で書き込みがされていた。書き込みの内容を見るに、おそらくこれは教える側の人間の本なのだ。おかげで内容が理解しやすい。

 こんな田舎では本というだけで貴重だ。まして魔術書なんて、絶対にルイスの手に届くようなものじゃない。

 ルイスは次の仕事の時間まで夢中で本を読み、本を服の中に隠して次の仕事に向かった。次の仕事は薪割りだから、早めに終わらせれば、薪の陰に隠れて読書ができる。


       * * *


 ダングローツの娼館の廊下を、一人の男が早足で歩いていた。年齢は五〇代後半、短い白髪にボサボサ眉毛が特徴の、煙管を咥えた男だ。

 男の名は〈紫煙の魔術師〉ギディオン・ラザフォード。今は魔術師の杖とローブを置いてきているが、上級魔術師であり、魔術師養成機関ミネルヴァの教授である。

 仕事の都合でこの地を訪れたラザフォードは、乗っていた馬車が雪崩で立ち往生してしまったため、やむをえずこの村に滞在していた。宿ではなく娼館を選んだのは、宿が満室だったからだ。

 滞在三日目の今、彼は落とし物の本を探していた。


(試験問題作るために、持ってきたのが間違いだったな……くそっ)


 店主に確認したところ、心当たりはないと言うので、ちょいとばかし金を握らせてやったら、「雑用のルイスってガキが、コソコソ何かやってた」と白状した。

 そのクソガキは今、店の裏で薪割りをしているらしい。

 店の外に出たラザフォードは、短縮詠唱で煙管に火を点け、一口吸った。

 雪はやんでいるが風が冷たく、耳がチリチリする。

 手袋をした手を開閉しながら店の裏に回ると、薪割りをしている子どもの背中が見えた。大人の古着を重ねて着込んでいる、栗色の髪の少年だ。

 パサパサの短い髪は艶がなく、肌は細かな傷だらけ。重ね着をしていても、栄養状態が良くないのは一目で分かる。

 それは、この辺りでは珍しいことではなかった。リディル王国の中でも特に北部は、貧しい地域が多いのだ。

 ただ、栄養状態が悪いわりに、薪割りをする少年の動きはしっかりしていた。重たい斧を軽々と持ち上げて、慣れた手つきで薪を割っていく。


「おい、坊主」


 ラザフォードが声をかけると、少年は薪割りをする手を止めて、ラザフォードを見る。

 どちらかというと、線が細く、少女めいた顔立ちの少年だ。

 そのくせ、威嚇するように下唇を突き出し、「あん?」と返す態度が、やけに様になっている。

 これは一筋縄ではいかないタイプのクソガキだ、とラザフォードは即座に判断した。


「お前がルイスだな。俺の本を知らないか。『実践魔術初級』ってぇ本だ」

「知らね」


 素っ気なく返し、ルイスは薪割りを再開する。

 ラザフォードは煙管を一口吸い、思案した。

 長年教師をやっていると、子どもの隠しごとに聡くなる。こいつは何か知ってるな、とラザフォードは確信していた。

 こんな田舎の子どもに、あの教本が理解できるとは思えないし、どこぞに売り払って小遣い稼ぎをしたと考えるのが妥当だろう。

 だとしたら、とっとと買い戻すのが手っ取り早い。


「おい、クソガキ。俺の本をどこに売ったか言え。正直に言えば、今なら拳骨一発で許してやる」


 ラザフォードの恫喝に、ルイスは呆れたような顔で「はぁ?」と声をあげる。


「あんなイイモン売るとか、馬鹿だろ………………あ」


 己の失言に気づいたルイスは、薪割り斧を手放し、踵を返した。雪の上を走っているとは思えない素早さだ。

 ラザフォードは詠唱をし、煙管の煙をフゥッと吐き出す。周囲にフワリと漂って消えるはずの煙が、今は意思を持っているかのように、風向きとは反対方向――ルイスの方に向かう。

 その煙を吸ってしまったルイスは、それでもしばらく走り続けていたが、次第に足がもつれ始め、やがて膝をついた。


「……あ? んだ、これぇ……っ」

「煙に、麻痺成分を付与したんだよ」


 ラザフォードはゆったりとした足取りでルイスに近づき、手の中で煙管をクルリと回す。

〈紫煙の魔術師〉ギディオン・ラザフォードは、煙草の煙に特殊効果を付与できる稀有な魔術の使い手なのだ。

 麻痺成分が全身に回ったらしく、ルイスはパタリとうつ伏せに倒れる。

 ラザフォードは少年の前に回り込み、しゃがんで顔を覗き込んだ。


「さぁ、クソガキ。俺の本を返しな」


 うつ伏せに倒れるルイスは、両手で地面をかきむしりながら頭を持ち上げ、べぇっと舌を出す。


「うっせぇ、ジジイ。この土地じゃ、落とし物は懐に入れた奴のモンなんだよ」

「そんな道理が通るか、クソガキっ!」

「はんっ、恨むんなら、てめぇの間抜けさを恨みな!」


 驚くことに、ルイスはふらつきながらも体を起こして、殴りかかってきた。


(ガキだからと、手加減しすぎたか)


 ラザフォードはルイスの拳をかわすと、ボロボロの古着の胸ぐらを掴み、容赦なくその頬をひっ叩いた。

 その拍子に、ルイスの服の中から何かがボトリと落ちる。ラザフォードが落とした教本だ。どうやら、服の中に隠し持っていたらしい。

 痩せた少年の体をポイと地面に打ち捨て、ラザフォードが教本を拾い上げると、尻餅をついたルイスが声をあげた。


「あっ、返せっ、まだ半分しか読んでないのに!」

「……あぁ? 半分読んだ? こいつぁ魔術の教本だぞ。ふかしこくのも大概にしろ、クソガキ」

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