一章 未だ知らぬ、世界と家族とジャムの味①
屋根から雪が落ちるくぐもった音に、腹を殴られた男が倒れる音が混じる。
寂れた娼館の扉から転がり出て、雪に埋もれるように倒れたのは、帝国風の服を着た三〇歳ほどの男だ。
男は国境警備の仕事の合間に、娼館に通っていた客だった。
最初は息抜きで通っていたが、とある娼婦に入れ込み、身請けをする金もないから一緒に死んでくれと迫ったら、こうなった。
男を殴り飛ばしたのは、娼館で雑用をしている少年だ。年齢は一〇代前半。適当に短くした栗色の髪は毛先がパサパサしている。
少年は積もった雪をズモッ、ズモッと踏み締めながら男に近づき、帝国語でワァワァ喚き散らしている口に、容赦なくブーツの底を叩き込んだ。
「何言ってっか、分かんねぇよ」
少年の言葉は、北部訛りのリディル王国語だ。客商売をしている娼館勤めなだけあって、農民達よりは訛りが少ない。それでも中央に比べると早口で、語尾が少しくぐもっていた。
腹を殴られ、顔を蹴られた男は、鼻血を流してフガフガ言っている。意識はまだあるが、抵抗する気力もないのだろう。
少年がもう一度男の顔を蹴るべく足を持ち上げると、店の中で煙草を吸っていた店主が気怠げに言う。
「もういい、そのへんにしとけ。それより、さっさと扉を閉めてくれや。寒くてかなわん」
「はいよ」
少年は短く返事をして店内に引き返し、雪に埋もれている男を睨む。
「死にたきゃ、そこで一晩寝てろよ。眠ったまま死ねんぜ」
扉の向こう側に広がるのは、白い雪と夜の闇。その二つだけで世界が創られているのではと思うぐらいに、外には何もない。本当に、何もない村なのだ。
少年は扉を閉ざし、鍵をかけ、アカギレだらけの手を擦り合わせた。
日が暮れてもう随分と経つ。彼ぐらいの年頃の子どもなら、とっくに寝ている時間だが、少年にはまだ、皿洗いだの、火の管理だの、帳簿付けだのと仕事が残っていた。もし、先ほどの客のような不届者がいたら、ぶん殴って追い払うのも彼の仕事だ。
今夜はもうクソみたいな客がいないといい――そう思った矢先に、二階の部屋で酔っ払いの奇声が響く。それと、殴られたらしい女の悲鳴も。
少年は舌打ちをしてぼやいた。
「……クソみたいな夜だな」
店の女が殴られても、店主は暖炉の前を動かず、煙草を吸っている。
店主は鼻から煙を吐き、健闘を祈るとばかりに片手を振った。
「お前がいると、楽でいいぜ。ルイス」
「そりゃどうも」
雑に言葉を返し、雑用の少年――ルイス・ミラーは階段を駆け上った。
* * *
リディル王国北部、帝国との国境付近にあるダングローツという村の娼館勤めの娼婦が、ルイスの母親だ。父親は顔も知らない。母は父のことを誰にも語らないまま、ルイスが物心ついた頃に死んだ。
ダングローツは貧しい村だ。親なし子を養う余裕などない。それでも店の娼婦達は交代でルイスの面倒を見て、育ててくれた。ルイスの母は、店の娼婦達に慕われていたらしい。
娼婦達は「姐さんには世話になったから」とルイスに母親の面影を見て、笑いながら言う。
店主のカーシュは人使いの荒い守銭奴だが、ルイスが役に立つのなら、店に置いてくれるだけの度量はあった。読み書きや金勘定を教えてくれたのもカーシュだ。
『この貧しい土地で生き延びたきゃ、覚えられるものは死ぬ気で覚えろ。それができなきゃ、野垂れ死ね』
それが、カーシュの教えだ。
幸いルイスは物覚えが早く、喧嘩に滅法強かったので、雑用係兼用心棒として重宝されていた。
明け方近くに降った雪も、朝食の時間にはやんでいた。窓の向こう側に見える空は、今日も鈍い灰色だ。
ダングローツの空は、大体いつも分厚い雲に覆われていて、晴れている日の方が珍しい。
ルイスは朝食の粥を載せた盆を手に、ショーナという娘の部屋の扉を叩く。ショーナは昨晩、客から心中を迫られた娼婦だ。
ナイフを握った客に、一緒に死んでくれと迫られたのだ。さぞ怯えているだろうと思いきや、ショーナはベッドに腰掛け、髪を弄りながら欠伸をしていた。
緩く波打つ長い黒髪は、彼女の手の中で三つ編みの成り損ないみたいになっている。ショーナは不器用なのだ。
「ショーナ、飯持ってきたぜ」
「ありがとぉ。ついでに、髪編んでくれる?」
「はいよ」
ショーナは寝間着の上に毛織物のストールを羽織って、椅子に座る。ルイスは彼女の前に粥の椀を置き、背後に回った。女の身支度の手伝いも、ルイスの大事な仕事だ。
「ルイスー、昨日はごめんねぇ。あんたの仕事を増やしちゃってさぁ」
「別に。いつもんことだろ」
北部育ちの人間は大抵、独特の訛りがある上に早口だ。だが、ショーナはあまり訛りがないし、喋り方も間延びしている。元々は南の方の生まれらしい。
「あの男さ、どうなった?」
あの男――ショーナに心中を迫った男のことだろう。
客の生死を問う声には、深刻な響きも悲しみもない。今日の食事にスープはある? と問う時と同じ声音だ。
だからルイスも、食事のメニューを答えるような口調で返す。
「店ん前に、凍死体はなかったぜ」
やっぱりね、と呟いてショーナは笑った。何かを諦めたような笑顔だった。
やがて、ルイスが髪を編み終えると、ショーナは粥の匙には手を伸ばさず、小物入れの引き出しから小さな瓶を取り出す。
小瓶には、トロリと赤いジャムが満たされていた。
「昨日のお礼。あげる」
ルイスは目を輝かせた。砂糖をたっぷり使ったジャムは、この貧しい土地では贅沢品だ。
普段から、腐りかけの肉や魚に潰したコケモモを塗り、味を誤魔化して食べているルイスにとって、舌が蕩けるような甘さのジャムは衝撃だった。それが一瓶も!
「……いいのかよ?」
「いいよぉ、あたし、マーマレードの方が好きだし」
「マーマレード?」
「柑橘の皮を使ったジャム。あたし、南の生まれだからさぁ」
こっちじゃ、もう食べることはないだろうなぁ。とショーナは独り言のように呟く。
ルイスは手元のジャムの瓶を眺めた。おそらく、客からの貰い物なのだろう。瓶は透明度が高く、ヒビも擦り傷もない。ラベルには、可愛らしい木苺の絵が描かれている。
せっかくの綺麗な瓶だし、空になったらヘソクリを貯めるのに使おう。ルイスがそんなことを考えていると、ショーナが机に頬杖をついて呟いた。
「ねぇ、ルイス。あんたはさぁ」
「あん?」
「ちゃんとこの店を出て、いつか家族を作りなよ」
ルイスはジャムの瓶をポケットにしまい、ショーナの言葉を吟味した。
娼館で生きる人間が店を出て、家族を得るのがどれだけ難しいか、ルイスもショーナも知っている。それなのに、どうしてショーナは突然そんなことを言い出したのだろう。
怪訝そうなルイスに、ショーナは苦笑いを浮かべた。
「まぁ、そりゃさ、家族が絶対に良いものとは言わないけど……」
あたしの親も、大概にクソだったし。と小声で呟き、ショーナは粥の匙を取る。
そうして、サラサラの粥を匙でかき混ぜながら、ポツリと言った。
「あたしと違ってさぁ、あんたは最初から家族を知らないでしょ。だから、ここを出て、家族を作ってみるのも良いんじゃないかな、って思ってさ」
「ショーナ達が家族みたいなもんだろ」
同じ屋根の下で暮らす娼婦達には可愛がってもらっている。それなら、ショーナ達が家族で良いではないか。
だが、ショーナはユルユルと首を横に振る。
「あたし達は、あんたのことを可愛がってるけど、家族にはなれないよ。この店にいるのは、寄り添い合うだけの他人だ」
寄り添い合うだけの他人。
別に、それで充分だろう、とルイスは思った。
ショーナの言う通り、物心つく頃に母を亡くしたルイスは、家族を知らない。それで今まで特に困ったことがない。特別に欲しいとも思わない。
いまいちピンとこない顔をしているルイスに、ショーナは穏やかに微笑む。
「ここはあんたの家じゃないし、あたし達は家族じゃない。だから、あんたは……」
ショーナの目が窓の外を見た。
窓の外に広がるのは、一面の銀世界。雪に埋もれ、寂れた村。
「ちゃんと、ここを出て行くんだよ」
その翌月、ルイスが貰ったジャムを食べきらない内に、ショーナは死んだ。病気だった。
店の娼婦達が言うには、ショーナは自分が長くはないことを察していたらしい。
店主に埋葬を命じられたルイスは、アカギレだらけの手で雪と土を掘りながら、ショーナはあの帝国の男と心中したかったのだろうか、とボンヤリ考えた。
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