晩夏の雨に夕日は濡れる

水面

晩夏の雨に夕日は濡れる

高校生の頃から使い続けているクラリネットをそっとケースにしまいながら、私はふっと練習場の窓に視線を向けた。

静かに雨が降っている。深呼吸をすると、濡れたコンクリートの香りが鼻腔を満たした。


降り続く雨を見て、私は自然と高校三年の夏ーー辟易するほどの暑さが残るある日のことを思い出していた。



ーーーーー


自習室として開放された夏休みの教室には、私以外誰もいなかった。窓から吹き込む風でふわりと膨らむカーテン。青く澄みきった空の白雲を眺めていると、どこからかトランペットの音が聞こえてきた。

吹奏楽部。そういえば、もうすぐ彼らは大会か。

二ヶ月前に引退した部活に思いを馳せる。

自分たちの最後のコンクールは準優勝。部員の皆で泣いて喜びあったし、やりきった、という達成感もあった。


ただ、ほんの少し。



ああ、"準"優勝か。と。



どこか冷えた頭の自分が、貰った賞状を額縁に飾りながら、そう呟いていた。

皆はあんなに喜んでいるのに、私も嬉しいはずなのに。言い様のない気持ち悪さで胸を満たしまま、私の心は宙ぶらりんになっていた。



そう、あの時までは。



「ーー何してんの?亅


はっとして、視線を窓から外す。いつの間にか目の前の席に、人が腰掛けていた。


「…びっくりした。藍谷こそ。亅


藍谷遼。いつも友達に囲まれている、軽薄で明るいクラスメイト。彼は人気者で、クラスの中心人物と言ってもいいほど。

けれど私には、彼が奇妙な"アンバランスさ"を持っているように見えていた。去年だったか、美術部所属の彼の絵が入賞をしたとき、彼が見せた笑顔が、私にはなんだか酷く薄っぺらく見えたからかもしれない。


彼とは、一度だけ関わりを持ったことがある。部活を引退してから暫く経った頃のある放課後、夕日が差し込んで茜色に染まったこの教室で、彼に絵のモデルを頼まれた。そう、丁度今のように向かい合って。




ーーー「藤野、今暇?」


「えっと……」

「俺、今から人物画描くんだけどさ。モデルになってくんね?亅

「私が?亅

「そう。楽器持ったままそこ、座ってくれよ。」


返事も聞かないまま、窓辺にあった椅子を指差す藍谷。卒業まで関わることはないのだろうと思っていた人だった。私はそんな自由奔放な振る舞いに呆れつつ、まあ少しだけなら良いか、と腰掛けた。


「藤野って、もう部活引退してなかったっけ?」

「うん。でも、もう吹くことはないのかなって思ったら、なんとなく今吹きたくなって。」

「楽器やめんの?」

「…うん。この大会で終わりにする予定だったし。」


僅かな居心地の悪さに、手に持ったクラリネットをそっと指でなぞった。藍谷はさらさらと慣れた手付きでスケッチブックに鉛筆を走らせている。


「へー。コンクール、準優勝だったんだろ?すげえな。」


「…そう思う?」


その瞬間、あ、間違えた、と思った。普段なら、「ありがとう」と笑顔で返しているのに。

ぴたりと手を止めた藍谷は、顔を上げてにやりと笑った。


「へえ、藤野はそう思わねえんだ。」

「そういうわけじゃ…亅


なにか悪いことを咎められた気持ちになって、もごもごと言い訳じみた言葉を口にする。そんな私を見て、藍谷は続けた。


「いいじゃん喜ばなくて。悔しかったんだろ?準優勝。」

「……え?」


予想外の返答に、声が漏れる。


「"準優勝"って一番悔しいよな。人に自分の芸術を審査されて、それで順番を決められて。そうやって中途半端に評価されるくらいなら、まだ入賞しないほうがマシだったんじゃないか、なんて思わされる。それに絵と違って描き足しも出来ない一発勝負で、自分が費やしてきた青春全部に価値が付くのは嫌だよな。」


思わず息を呑んでいた。



「……うん。」


大会というのは残酷だ。たった一度、やり直しの効かないパフォーマンスで、自分達が熱量を注ぎ込んできたものの過程から結果、その全てに価値が定められてしまうから。

その残酷さに対する反抗心が諦めと合わさって、胸の内でぐちゃぐちゃになっていた。

絡まったままの私の気持ちを、藍谷はこのほんの少しの間で確かに読み解き、言葉にしてみせた。


黙りこくる私に、藍谷は続けた。



「藤野、大学でも音楽続けたら?」

「…」

「"準"ってさ、何にでもなれると思うんだよ。例えば一度優勝を取ったらさ、それが自分の中の最高になっちゃって、それに一生縛られるやつもいるわけじゃん。それで満足して終われるなら良いと思う。けど藤野は違うんだろ。悔しいってことは、まだ諦めてないってこと。さらに上にも下にも行ける。未来ある自由を持ってんだよ。」


この人は、本当にあの藍谷遼なのだろうか。教室で人に囲まれて、軽くへらへらと笑っている、ぼんやりとした目をした、あの。


乾いた唇を動かして、私は口を開いた。

胸の内を焦がす痺れるような衝動と共に。



「藍谷は、どうして絵を描いてるの」



ぱちぱちと目を瞬かせた藍谷が、ふっと視線を逸らす。暫くしてから、彼は私の目を見て、こう答えた。


「去年準優勝を取ったときに俺、思ったんだよ。俺の可能性、全部試さないままじゃ終われねえ。俺の中にある全部、此処に表現してからだろ。ってさ」


藍谷はそう言って、鉛筆の先でこつこつとスケッチブックを叩いた。

死んだような瞳には似合わない、堂々とした物言い。


…違う。

彼の目は、死んでいるのではないのだ。ただ、ずっと遠くを見据えていて、ここに焦点が合わないだけ。



「…まあ、描くのが好きなんだよ。俺、絵上手いしな!」


張り詰めた雰囲気を緩ませるかのようにぱっと笑った彼は、もういつもの軽薄な藍谷遼に戻っていた。けれど間違いなく、先程の答えは彼の本心だった。


「…っし、完成。ありがとな、藤野。」

「こちらこそ。絵、見てもいい?」

「勿論。」


藍谷の差し出すスケッチブックには、クラリネットを大切そうに抱えた私が描かれていた。


「…すごい」


絵に詳しくない私でも、その上手さが分かった。繊細なタッチで描かれた1枚の絵は、まるでそれ自体が生きているかのようだった。


「 だろ?」


そう言ってにやりと笑う藍谷を、窓一杯に映えた夕日が濡らしていた。

そんな、二ヶ月前の六月。






「……懐かしい」

「何?なんのこと」

「別に、なんでも」

「嘘。覚えてるって、絵のモデル頼んだ時だろ?」


覚えていたのか。驚きでまじまじと見つめると、藍谷は眉を顰めた。


「俺のこと何だと思ってんの。」


アンバランスな男。


「…昔あったこととか、すぐ忘れてそう。」

「おま、馬鹿にしてんな?」


そこまで関係の深くない私でも軽口を叩けるような親しみやすさを持つ、けれどその深奥には簡単に触れさせてもらえないような人。

私があの夕暮れの日感じた"彼"は、藍谷遼という男のほんの一部でしかないのだろう。


「 てか藤野って、青空似合わねえな。窓の外が青だと、教室から浮いて見える。」

「なに、悪口?」

「そうじゃなくて。夕日のほうが似合う。夜のちょっと前の、一日の終わり…みたいな時の空。」


それは、彼に絵を書いてもらった時が夕暮れだったからではないのか。というか、適当なことを口に出しているだけかも。

だけど、悪い気はしなかった。私はそんな彼によって、大学でも音楽をしようと決めたのだから。


驚いたような顔をしていても、その目に光は宿っていない。溌剌とした声を上げて、ぼんやりとした目で喜ぶような人間、それが藍谷遼という男。


私に夕暮れが似合うなら、彼にはきっと雨が似合う。すこしあたたかなコンクリートにしとしとと降り注ぐ、晩夏の雨。


私は、くすりと笑って彼に告げた。


「あなたも大概、青空が似合わない人間だよね。」


一瞬、見開かれた藍谷のぼんやりとした瞳に、光が宿ったような気がした。

ほんの少しの間が空いて、それから藍谷は笑った。


「何だよそれ。亅


きっとこの男のことは、卒業しても忘れない。八月が来るたびに、私はきっと彼を思い出す。

そんな確信を抱きながら、憎いほどに澄んだ美しい空の青を目に焼き付けた。

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