蛙の人々

ちくわノート

蛙の人々

『あなたの蛙、引き取ります』


 電車の中で見つけた、デフォルメされた蛙が描かれた吊り広告。黒のゴシック体でそのキャッチコピーは存在をアピールしていた。


『あなたの蛙、引き取ります』


 目を離すことができなかった。電車の揺れに合わせて、車内にぎゅうぎゅうに詰め込まれた人間たちも左右に揺れ、広告に黒い頭が被る。その電車の中にいる全員が疲れた顔をして、スマホをいじっている。俯いているからそう見えるだけかもしれない。誰も吊り広告なんかには目もくれていなかった。


 わんわんと頭の中でキャッチコピーが反響する。


『あなたの蛙、引き取ります』


 人の混じり合った体臭が気になった。隣の男がつけているワイヤレスイヤホンから、シャカシャカと音漏れがしていた。雨はいつの間にか止んでいたようで、車窓には仲間を失った小さな水滴がぽつんと横に流れていた。


 母の疲れた顔が浮かぶ。


 それから、祖母の優しいあの笑顔を、あの声を思い出す。そして、蛙。


 蛙を嫌いになったのはいつからだっけ、と考えてみると、その記憶はもう何年も前のものなのに昨日のことみたいに手に取れる。小学二年生のとき、農業体験があって、草むしりをしていると近くの雑草から蛙が飛び出してきたのだ。それは最悪なことに私の顔に張り付いた。同級生の男の子が取ってくれようとしたけれど、パニックになっていた私は頭を振り、男の子の手が勢いよく、私の顔に張り付いていた蛙に当たった。蛙はぐちゃっと潰れ、蛙の臓物が私の顔面に飛び散った。それ以来、蛙は見るだけでも吐き気がするくらいに嫌いだった。いくらデフォルメされていても気持ち悪いものは気持ち悪い。


 電車が止まり、ドアが開いた。水風船に針を突き刺したみたいに電車から人が溢れ出る。その流れをぼんやりと眺めて、そこが自分も降りる駅だったと気がつく。慌てて人をかき分け、ごめんなさい、降りまーす、降りまーすと言いながら、電車からなんとか脱出すると、ちょうど乗り込もうとしていた男が思い切り顔を顰めたのが見えた。顰めた顔を私に見せようとしたのかもしれない。けれど、彼はそれっきり文句を言うこともなく、電車に乗りこんでいった。


 駅から家までは徒歩で十五分。途中にドラッグストアがあって、そこで発泡酒と無塩バター、食パン、単三電池、乾燥コオロギを買った。その乾燥コオロギは白いパッケージにスタイリッシュなフォントで『Dried Crickets』とだけ書かれており、ヘルシーなダイエット食品みたいだった。実際にダイエットに効果的なのかもしれない。試すつもりはなかった。


 家に帰り、リビングに入ると「電池買ってきてくれた?」とソファに座り、雑誌を眺めていた母が訊いた。


「単三で良かったよね?」


「そうそう、単三、単三」そう言いながら私が買ってきた単三電池を受け取り、リビングのローテーブルに置いてあったテレビのリモコンを取った。


「あれ、その電池って、リモコンのやつなの? それ単四じゃなかった?」


「ええ? 単三よぉ」母はそう言って電池カバーを外し、あら、入らない、と呟いた。


「ほらあ、言ったじゃん」


「わからないわよ。電気よく知らないもの。ええ、じゃあ今日もテレビ観れないじゃない」


「テレビ本体にスイッチあるでしょ。それで観るしかないね」


「スイッチ? リモコン、電池入ってないと駄目でしょ? 違うの? ちょっとお母さん、わからないからやって」


 私はため息をついた。冷蔵庫に発泡酒を入れたところだった。


「前も教えたじゃん」そう言いながらリビングを横切って、テレビのスイッチを操作する。


「何観たいの」


「八番、八番、ソーメンズが出るやつ」


「ソーメンズ出るの、明日じゃない? 今日木曜日だよ」


「えー、じゃあなんでもいいわ」


 もう一度ため息をついて、チャンネルを適当なニュース番組に合わせる。


「あ、そうそう。美咲。おばあちゃんにご飯あげておいてね」


「え」声が漏れる。「前も私あげてたじゃん。たまにはお母さんもやってよ」


「お母さんだってやったわよ。それにお母さん、ああいうの無理なの知ってるでしょ」


「二人で交代でやろうって言ったじゃん」


「なに、あんた、おばあちゃんのこと嫌いなの?」


「そうじゃない。そうじゃないけどさあ」


 ないまぜになった感情と言葉が喉に詰まる。体が一瞬、それらに支配されて動かなくなった。深呼吸をし、それをぐっと飲み込んで、買ってきた乾燥コオロギを持つと、リビングを出る。飲み込んだはずの感情は足下にこぼれ出た。


 母への不満がむくむくと生まれ、それが私の胸で暴れ回っていた。母は昔からああいう人だし、それに母が全て悪いというわけでもない。昔はよくそれらが爆発して、しょっちゅう母と喧嘩していたが、呑み込めるようになったのは成長か老いか、あるいは諦念だろうか。


 祖母の部屋である六畳の和室は祖母が物をあまり持たなかったこともあり、がらんとしていて大きな生き物の抜け殻みたいだった。


「おばあちゃん」私は声をかける。返事はない。


 箪笥の上に置いてある水槽を覗き込む。そこに祖母はいる。祖母はぴくりとも動かず、ほとんど眠っているように見えた。


「ご飯だよ」


 乾燥コオロギの袋を開け、中から菜箸を使って一匹取り出すと、慎重に水槽の中に入れた。祖母は目の前に乾燥コオロギが置かれてもほとんど動かなかった。三分ほど待って、ようやく気がついたのか、ゆっくりコオロギに近づき、もそもそと食べ始めた。


 もう一匹、コオロギを水槽に入れ、食べられるのを確認しないまま目を伏せた。見てはいけないものを見てしまったような気分だった。


 私の顔で蛙が潰れた日のことを思い出す。


 祖母は泣きながら帰った私をどうしたの、と宥めながら聞いて、蛙が潰れたことを知ると、祖母は「じゃあ、蛙さんのお墓をつくろうか」と言った。蛙の残骸はもう既に取り払われていてお墓に入れるものは何もなかったけれど、祖母とふたりで作った小さな蛙の墓に手を合わせた。


「私、悪いことした?」と訊くと、祖母は優しく首を振って、おやつ食べようか、と言って、私の手を引いて家に戻った。


 その時の呪いなのかもしれない。あのとき、私の顔で潰れた蛙はきっと今も私を恨んでいる。祖母はもう私に話しかけてくれることも、抱きしめてくれることもない。


 急に目頭が熱くなり、その場に蹲って声を押し殺して泣いた。


『あなたの蛙、引き取ります』


 その言葉がいつまでも離れてくれなかった。



   𓆏͙



 祖母が蛙になったのは四か月前のことだった。予兆もなく、いつも通り一緒にご飯を食べ、おやすみを言い合って、次の日には祖母の布団の上に一匹の鮮やかな緑色をした蛙がぼんやりと鎮座していた。


 私も母も蛙には触れなくて、けれど、蛙になった祖母が外に出ていってしまうのは避けたくて、襖を完全に締め切ったあとで、アメリカに単身赴任中の父に電話をかけた。


 おばあちゃんが、蛙になっちゃった。


 混乱しながらも何とかそのことを伝えると、父は電話口で長く息を吐いた。その沈黙は頼りの父も混乱し、どうするべきかわかっていないことを知らせた。それからしばらくしてようやく、絞り出したように、わかった、と言った。週末には何とか帰れると思うから、おばあちゃんが逃げ出さないようにしておいて。


 無理、無理、無理だよ、と泣きながら言ったのを覚えている。母も私も周りに頼れる人なんていなかったし、それにあの優しくて聡明な祖母が蛙になったのを知られたくなくて、父が帰ってくるまでの間、私たちは祖母の部屋に入らず、襖の隙間が少しもないようにずっと気を張っていた。


 父が帰ってきたとき、手に大きな水槽を抱えていて、その水槽の中に腐葉土とか保温材とか乾燥コオロギとかが詰め込まれていた。


「なにガエル?」


 父は開口一番にそう言った。へ、と困惑していると「ほら、アマガエルとかヤドクガエルとかいろいろあるじゃん。母さん、なにガエルになったのかなと思って」と続けた。父なりにジョークを言って私たちを励まそうとしたのかもしれない。しかしそれは逆効果だった。自分の母親が突然蛙になってしまったというのになんでこの人はこんなにも呑気なんだろう、とその言葉にかっとなって、父に掴みかかった。


「私たちがこの一週間、どんな思いでいたのかも知らないで! よくそんな口きけたね!」


 父は驚いた表情を見せたあと、小さくごめん、と言った。その父の傷ついたような顔を見て、父だって実の母親が突然蛙になり、当たり前だけれど相当なショックを受けていたことがわかって、だけど感情を止めることができなかった。すぐに駆けつけることもできず、やきもきしていただろう。そんなことは私だってわかっていたはずなのに。


 父は手際よく水槽の中の環境を整え、祖母をその中に入れた。それから乾燥コオロギを祖母の前に置くと、祖母はすぐにそれに飛びついた。


「腹、減ってたみたい」


 それは祖母が蛙になってしまってから何もできなかった母や私への非難のように聞こえた。


「こうやってご飯は二、三日に一回くらいでいいんだって」父は水槽の中を眺めながら言った。「できれば生きた昆虫がいいらしいけど」


 父は振り向いて、私を見た。「美咲、できる?」


 私は首を勢いよく振った。


「虫も蛙も昔から苦手なの知ってるでしょ。お父さんが世話してあげてよ」


「うーん、でもアメリカには連れて行けないしなぁ。頼むよ。美咲。おばあちゃんを助けると思って」


 断れるはずがなかった。おばあちゃんが極悪人だったらすぐに川辺に逃がしてしまえたのに。嫌味ばかり言って、気に入らないと物を投げて、我儘で、偏屈で、そんな人だったらよかったのに。そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。


 父は四日後に、アメリカに帰っていった。


「イエアメガエルなんだって」


 父は出国前、そう言った。「詳しい人に訊いてみたら、イエアメガエルっていうオーストラリアとかにいる種なんだって。家によく居着くからそういう名前らしいんだけど、きっと母さん、家が居心地よかったんだろうな。蛙を守り神として崇めている地域もあるらしくてさ。きっと母さんは居心地のいい家を守るために神様に生まれ変わったんじゃないかな」


「……だけど、私は人間のおばあちゃんがよかった」


 父は寂しげに微笑んだ。俺もだ、って同意したかったのかもしれないけれど、父はただ「頼んだよ。美咲」と言った。


 そうして父を見送ると、途端に不安感が押し寄せてきて、気分が悪くなった。空港のトイレに駆け込んで、何回か吐いた。口元にゲロがついたまま便座にもたれ、目を強く瞑って早く悪い夢から覚めろ覚めろとずっと唱えていたけど、いつまで経っても便座もゲロも消えてくれなかった。



   𓆏͙



「ふーん、いいんじゃない」


 梨花は私が見せたスマホの画面を一瞥すると、そう言った。スマホの画面には電車の吊り広告の施設ホームページが開かれていた。『あなたの蛙、引き取ります』。そこは育てられなくなったペットの爬虫類や両生類、そして蛙になってしまった人々を保護する施設らしく、ホームページには清潔感のある施設内の写真載せてあり、蛙の普段の飼育状況が丁寧に紹介されていた。


「いいんじゃないって、そんな簡単に言わないでよ」


「逆に何に迷ってんの」そう言って梨花は珈琲を一口飲む。私たちの前には、数分前までパンケーキが乗っていて、今はラズベリーソースだけが残った皿だけがあった。美味しいパンケーキを食べている最中に蛙の話なんかしたくなくて、食べ終わるまで施設の話はしなかった。


「みさ、蛙無理じゃん。それに老人ホームに預けるみたいなもんでしょ。おばあちゃんも孫に怯えられながら世話してもらうより、専門の人に世話してもらった方がいいんじゃない」


「だって。もう人間じゃないって認めてるようなもんじゃん」


「実際、蛙だからね」にべもなく梨花は言う。はじめて彼女と会った高校の頃から彼女はずっと変わらずにそうやって遠慮のない言い方をする。「今はもう蛙なのに人間と同じ扱いされる方がかわいそうだよ。蛙になったのならもう蛙なの」


「でもさあ」


「でも、なに?」


 梨花が大きな目で私を見る。梨花が正しいことを言っているとはわかっているけれど、だけどそれをやっぱり自分の中では消化しきれず、その想いも反論もうまく言語化できなかったから、もごもごと口の中で言葉にならない不満をこねくり回して、フォークで散らばったクランベリーソースをかき集める。


「マサヒコ。知ってるでしょ」と梨花は言い、その名前に私の心臓は跳ねる。三年前に蛙になって死んだ梨花の彼氏だった。


「マサヒコの両親が蛙になったマサヒコを人間扱いしたいからって飼育ゲージに入れずにご飯だって自分たちが食べるものと同じものしか用意しなかったから、マサヒコは家から逃げ出して車に轢かれた。みさも聞いたっしょ。マサヒコの両親を恨むつもりはないけどさ。私だってマサヒコが蛙になっちゃっておろおろしてただけだし。それでもやっぱりあの時、蛙になったマサヒコをそのままで受け入れてあげていたらってよく思う。後悔してる。だからさ。混乱するのもわかるし、ショックなのもわかるけど、おばあちゃんを思うならしっかり蛙扱いしてあげないと」


 うん、と力無い声で返事をする。マサヒコが車に轢かれた時の当時の梨花の取り乱しようは酷いものだった。別人みたいにやつれて、そのまま梨花もマサヒコの後を追ってしまうんじゃないかって思った。梨花が立ち直るまでにした苦労を私はよく知っている。


 またホームページを見る。清潔そうな内装。写真に写ったスタッフも皆笑顔で、いい人そうだった。いや、わざわざホームページに悪そうな人を載せないか。なんて考えて、画面をスクロールしていくと大量の蛙の写真が唐突にでてきて、思わずぎゃっと叫んでスマホをロックする。


「あれさ。おばあちゃん預けるかどうかはともかく、施設見学してくればいいじゃん。それから考えてもいいっしょ」


 私は真っ黒になったスマホの画面を見つめ、それから、うん、と頷いた。



   𓆏͙



 施設見学の予約が取れたのが二週間後だった。


 母には梨花と遊びに行くと言って、車で一時間ちょっと離れた施設に向かった。


 その日の見学者は私含めて五人いた。どうやら全員身内や近しい人が蛙になったようだった。見学者の中で、祖母と同い年くらいのおばあさんは夫が蛙になっちゃったのよ。ウシガエルなんですって。と隣の若い男性に話をしていた。男性は、ははあ、そうなんですか、へえ、と汎用的な相槌を打っていた。もう、本当に困っちゃってねえ。なんで蛙なんかになるのかしらねぇ。


 施設の案内スタッフはホームページの写真みたいな笑顔を常に見せていて、はじめに私たちを爬虫類の飼育スペースに案内した。彼はヒョウモントカゲモドキのケージの前でその習性と飼い方を熱心に話していたが、見学者たちは誰もヒョウモントカゲモドキには興味がなかった。彼はそのことに少し残念そうにし、続いて両生類の飼育スペースに移った。私たちが蛙の姿を探そうと目を走らせると、すぐにスタッフは首を振った。「ここには多様な生き物がいますが、はまた別の場所で暮らしていただいています。他の生き物たちと一緒に暮らされるのを嫌がるご家族様も多くてですね。なのでここにいる蛙はちゃんとオタマジャクシから育った蛙ですよ」と彼は説明をした。彼らスタッフは蛙になった元人間たちを入居者と呼んでいるらしかった。


 やがて両生類エリアを抜け、入居者たちの居住区に案内された。ずらりと蛙の入った飼育ゲージが並び、私は思わず身震いをした。蛙たちが突然飛び出して私の顔に張り付く想像をして、全身に鳥肌が立った。なんとかその想像を頭から追い出し、すーはーと呼吸を整えていると前に並んでいた中年の女性が私を一瞥し、それから私から距離をとるように前方にずんずんと歩いていった。


 入居者の居住区は先ほどまでの飼育スペースとは異なり、部屋の中央には白のソファが置かれ、部屋の隅には無音のテレビが垂れ流されていた。小さな本棚もあり、そこには図鑑や小説、漫画などが揃えられていた。面会者のために用意された物らしい。


 スタッフが飼育スケジュールについて話していると、「ねえ、ご飯は」と声が聞こえた。先ほどの中年の女性だった。「ちゃんと人間らしいもの用意してくれてるの」


 スタッフは困ったようにはにかんだ。「基本的には生きた昆虫を提供しています。キイロショウジョウバエが主ですね。どうしてもというご家族がいらっしゃればこちらの人工飼料をご提供していますが」


「ハエ!」と女性は素っ頓狂な声をあげた。「あなたは食べられるんですか? ハエなんて。普段から食べていらっしゃるわけ? 食べてないわよね。ハエを食べさせるなんて非人道的じゃないですか」


「しかし姿が変化されたご入居様にとってはこちらの方が……」


「姿は違っても人間ですよ!」


 まあ確かにそうだよな、と思う。マサヒコの話を知っていても、仮に私が蛙になったとき、ハエなんて死んでも食べたくない。女性の言うこともわかる気がした。祖母が人間のまま、今ここにいたらなんて言うだろう。私? 生きるためなら食べるわよ。ハエでもコオロギでもゴキブリでも。なんて言いそうで、蛙になった今でもそのマインドは変わらない気がした。そうだ、そもそも姿が変わっただけじゃないか。祖母のことが大好きだと言っておきながら、私は姿が変わっただけで祖母を見限り、この施設に預けようとしていたのか。私はそこまで薄情な人間だったのだろうか。とか思って、でも今の祖母の世話は私には苦痛で、祖母のことを思えばこそ、この施設に預けるべきなんじゃないかとか訳がわからなくなって、父に言われた「頼んだよ」って言葉が重しになっていた。


 中年女性はぷりぷりしながら途中で見学を抜けて、案内を終えたスタッフは「我々はご入居者様のことを一番に考え、今のご入居様らしさを尊重することに徹底した配慮をさせていただいております」と締め括った。


 施設から帰って、電話で見学に行ったことを梨花に話した。綺麗だった。スタッフの人も生き物大好きって感じ。と言うと、梨花は、よかったじゃん。生き物大嫌いよりかはさ。で、どうすんの。と訊いた。


 わかんない。何が正しいのか。どうするべきなのか。


 電話を切った後で、電気もつけていない真っ暗な祖母の部屋で水槽にコツと爪を当てた。祖母はみじろぎ一つしない。


 ねえ、おばあちゃんはどうしたい?


 祖母の声が恋しかった。



   𓆏͙



 一週間が過ぎても私は施設に見学へ行ったことを母に話せていなかった。そもそも話すべきなのかどうかもわからず、ぐるぐると思考は同じところをループしていた。仕事をしていると、祖母のことも施設のことも考えずに済むから自然と残業をすることが増え、「最近、帰り遅すぎじゃない」と言う母に「繁忙期だから」と言い訳をし、施設の話を後回しにしていた。


 そんなとき、私が仕事から帰ると、母が一冊のパンフレットを手に立っていた。


「ねえ、これどうしたの」


 その表紙には大きく『あなたの蛙を引き取ります』のキャッチコピーが飾られている。私が施設へ見学したときに貰ったものだ。


「は」頭が真っ白になる。え、なんでそれ持ってんのって。祖母の世話が嫌で祖母を施設に預けようとしていると思われたのかもしれないとか、不意打ちでパンフレットを見られた混乱とか一気にいろんな思いが去来して、結局私の口から真っ先に出たのは「え、なに。勝手に私の部屋入ったの」と母の無神経さに対する無価値な苛立ちだった。


「掃除をしようと思ったのよ」


「勝手に入んないでって言ってんじゃん。私いつまでも子どもじゃないんだよ」


「はいはい、ごめんね」


「ごめんねって前もそうやってさあ」


 そこまで言って、喉が詰まる。昔から口喧嘩は苦手で、感情がいつも先行して言葉が形取らない。


「ねえ、それより、おばあちゃん、預けるの?」


「それはっ」思考がまとまらない。「わ、私だって色々考えてさっ」暴れる感情どっか行けって思う。梨花みたいに理路整然と説明したいと思うけれど、母のその言葉は私を責めてるみたいで、私は悪くないって言いたかった。違う。そんなことが言いたいんじゃなくて。気づいたら止まらなくなる。


「私っ、おばあちゃんのこと大好きでっ。でも、蛙になっちゃって。蛙になってもおばあちゃんはおばあちゃんなのに、でもやっぱり蛙は好きじゃなくて。コオロギとかも嫌いだしっ。それで、お世話もずっとしんどいし、じゃあおばあちゃんのことを考えた時におばあちゃんはどうすれば幸せなのかなとか考えたらもうわけわかんなくて」


 言い訳じみた口から飛び出す言葉の羅列は私の内で暴れていた私の感情そのものだった。母の反応が怖かった。今すぐにここから逃げ出したかった。しかし、母は私を糾弾することもなく、呆れたように鼻から息を吐いた。そして「あんた、抱え込みすぎよ」と言った。


「ごめんね。あんたに背負わせすぎてたのかもしれないね。でも、家族なんだからあんた一人の問題じゃないんだよ。ちゃんと悩みとか不満とかあるなら溜め込まずに吐き出しなさい。あんたは昔からぐっと我慢して無理するところあるんだから」


 それと、とパンフレットに目を落とし、「お父さんにも相談しないとだね」と続けた。


「私たちだって話してたのよ。おばあちゃんが蛙になっちゃって、この後どうしようって。ずっとこのままってわけにもいかないじゃない。お父さん、来週また帰ってくるから。今度は二週間くらいいられるんだって。その時に相談しよ。ねえ、それよりテレビつかなくなったのよ。美咲、ちょっと見てくれない」


 はあ、なにそれ、って思ったけれど、さっきまで膨らんでいた感情は急にしぼんで、ため息をついてテレビの調子を見に行った。


 帰国した父に施設について話すとそうかあ、と腕組みをして少し悩んでから「じゃあ預けようか」と言った。「別に会えなくなるわけじゃないし、蛙のプロたちに世話してもらった方が、母さんも喜ぶだろ。このままだと美咲たちだって大変だしな」


 え、なんかさ。あっさりしすぎじゃない。私はこんなにも悩んだのに。って文句を垂れると、「何言ってんだよ。俺だってすごい考えたよ。母さんはこのまま家にいるのがいいのかなとか、蛙になったからって放り出すみたいな感じになっちゃうんじゃないかとか、家族なら最後まで面倒を見るのが当たり前の義務なのかなとか」と父は言った。


「でもさ。考えたんだけど、母さんは人間としての人生は全うしたんじゃないかって。そして第二の人生を歩み始めたのかなって。人生っているより蛙生? まあどっちでもいいけど、もしそうだとしたら、俺たちが母さんを母さんのまま縛り続けるのも違うよなとか思ってさ」


 蛙生。と私は口の中でその言葉を繰り返す。へんてこな響きだけど、なぜだか妙にしっくりときた。新たな蛙生を満喫する祖母を想像し、蛙になってしまったことをマイナスだけで考えるのも違うのかもしれないと、少しだけ、ほんの少しだけ思う。


「ねえ、私がもしも蛙になったら同じ対応する?」と訊いてみると、「どうだろな」と父は自信なさげに首の後ろを掻いた。


 父はその後、手続きを済ませて、結局、一週間後には祖母を施設に預けることになった。父が俺も施設を見てみたいというので、水槽に入った祖母と父を車に乗せ、再び施設に向かった。


 対応してくれたのは見学の時に案内をしてくれたスタッフだった。彼は水槽の中の祖母を見て、「イエアメガエルですねー」と嬉しそうに言った。


 お祖母さんは責任を持ってお預かりしますので。そう言って、スタッフは宝物のように丁重に水槽を受け取る。


「おばあちゃん、元気でね。たまに会いにくるから。蛙生満喫してね」と声をかけると、祖母はきょとんと首を傾げたように見えた。


 帰るときに田んぼの前を通るとぐわっ、ぐわっ、と蛙の鳴き声が聞こえた。


「蛙の合唱だ」と父は言った。「鳴いてるのはオスで、メスの気を引いてるんだって」


「なに、くわしいの?」


「調べたんだよ」と父は言う。「母さんが蛙になったっていうから、蛙についてすごい調べてさ。結構蛙の名前とか詳しくなっちゃった。ヤエヤマハラブチガエルとか」


「はは、なにそれ」それを聞いて、私と同じように普段能天気な父も本当に色々悩んでたんだなって思って、少しほっとした。


「ねえ、さっき、おばあちゃんが蛙になってから初めてまともにおばあちゃんの顔見たの。結構可愛い顔してた。施設で他の蛙たちからすごいモテるかもしれないね」


 そう言うと、父はええ、母さんがぁ? と顔を顰めて、それが面白くて、笑った。


 別にいいじゃん、もしかしたらおじいちゃん似の蛙見つけたりしてさ、って笑いながら私たちは蛙の鳴き声の中を通り抜けていった。




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