ペーパー(アンド)ムーン
「42。ただし、限界は12」
夜空を見上げる博士が、不意に、独り言のようにそう呟いたので、私は聞き間違いを疑いながら振り返り、彼の小さな背中に注意を向けた。
「何の話をしているかわかるかい? 助手くん」
「はあ、……ええ、はい」
気のせいではなかった。穏和だが寡黙な博士にしてはかなり珍しいことだ。
うなる機械群の稼働音に負けないよう、声を……張り上げることは好みではなかったので、そばまで歩み寄り、続きを口にする。
「0.1、に乗することの2のn-1乗。折られるごとに厚みが倍になっていくとする仮定の上で、薄い紙きれが月に届く厚さとなるまでに必要な畳み回数、ですね。42回」
ただし、現実にはそれは机上の空論。
どんな手段をとったところで、実際に折り畳める限界というものが42よりずっと手前で来る。それが12回目。
思考実験としては初歩の初歩にあたる、簡単きわまる計算だ。
しかし私たちがやってきた研究のことを思えば、今ここで話題にされる理由もわからなくもない。
「実際、不可能を絵に描いたようなプロジェクトでしたからね。必要予算は大国連が傾くレベル、時間はない、慎重を期しているヒマは皆無。……しかも、間に合わなければ人類が滅びる、と来ている」
「うん」
博士は変わらず空を見つめている。
その視線の先には月がある。わずか四半世紀前までは“穏やかで美しい夜の象徴”だったという、終末の天体。
はじめ、それは人々を救う希望となるはずだった。
月に設置された環境整合機は地球を一定周期かけてくまなく観測し、放つ“波”を通してエネルギーの偏りを調整する役割を担うはずだった。
しかし、独立稼働を始めた整合機は統御AIの故障により暴走。
全ての
各種装置の稼働音が昼夜問わず響くここのような場所は、もうこの地球上に数えるほどしかない。
破壊兵器の研究施設。
“月を撃ち抜く”という文字通りの
そして今夜、こことそのスタッフである私たちは歴史に名前を刻むことになるだろう。
気が遠くなるほど確認を繰り返したプランは完全確実。
12の限界をはるかに越えた、冗談のような探求の果てに掴んだ答えが、まもなく整合機を、無慈悲な夜の女王を撃ち殺す。
この博士こそが、人類を救うそのプランを案出した立役者だ。
疲れ果て、精彩を失ったとする自分を
その博士の右腕……自分で言うのもなんだが、今のリーダーよりはるかに仕事ができるという自信がある……である私がここにいるのも、博士のその奇妙な行動が原因だった。
ひらたく言えば気になったのだ。史上稀に見る栄達を捨ててしまうような人が、追い求めたその瞬間にどう立ち会うのかということが。
だから私はこう返した。
「しかし、博士にしては珍しいですね。これまで何があっても、“できない”だけは口にしてこなかったというのに」
「そうでもないよ。これは初めの初めから、私の中に一貫してあった難問だ」
「……と、言いますと」
私が若干の期待を込めて促すと、全てお見通しなのだろう博士は「そんなに面白いものではないよ」と微笑む。
「12という数字は厳然としたものでね。神の血を継ぎ人間以上と称えられた英雄も、これを越える試練に向き合うことはなかった。それを30回。凡人の私が、はたしてどこまで耐えられるかという話だ」
「貴方がそれを仰るのなら……」
「大抵の人間は何にも耐えられはしなくなると? そんなことはないよ」
博士は月を見、目を細めた。
「彼女の……あの月面で未だに続いている激しい苦しみに比べれば、私の挫折への耐久など何の価値もない」
「……それは」
「信じてはいなかったかね? 統御知性のモデルは個人の
人類が団結を果たしてさえ破壊に25年を要するあれが、真っ当な技術の産物だと思うかい?
博士は静かにそう問うてくる。
「仮にも世界最高の知性を持つ人間が、そんなことを言ってしまってもいいのですか」
「いいさ。このためだけに私は長らえて来たのだもの」
人類の存亡がかかってしまったこの殺しを、今更やめようと叫ぶ人道家などいまいよ。
その言葉を裏付けるように、機械群の咆哮はいや増し、狙い定める空に向けて激しい光が溢れはじめる。
博士はなおも言う。
「彼女はまさしく月のような人だった。僕は彼女に一筆でも残してもらえたなら満足の、そこらの紙きれも同然の白紙だった。彼女こそは続くべき人で、使い捨てとなるのは僕であるべきだった。運命というのは、皮肉なものだ」
うなりは天を裂き、力量は限界を越えて高まる。
一層、二層、はるか積み重なり、閾値を超越。
彼が越えてきた壁の数とぴったり同じ、三十
「ずっと謝りたかった。あの日、力及ばなかった僕を。君が闇に葬られるのを止められなかった僕を」
今こそ、私は私の疑問に答えが生じるのを感じていた。
初めてあった時から今まで、ずっと抱き続けていた疑問。
問うても答えはなく、「君が気にするだけの価値はない」とだけ返され続けた、何よりも知りたかったこと。
“この人は何を見ているのか?”
「そんなことだったんですね」
思わず笑いをこぼしながら、私は言った。
「そうとも」
博士も笑った。いつもの穏和な、どれだけ思いを伝えても決して応えてくれないヘーゼルの眼差しで。
「わかったならもう行きなさい。あとちょうど一分で、発射の余波がここを焼くことになる。私を殺したという証拠が必要なら、そのふところの銃で私を撃ち、記録を上司に提出するといい」
「いいですよそんなの。工作員なんて仕事、ただの腰掛けだったんですから。まっさらな白紙のようにヒマな、長すぎる時間をつぶすためだけの」
「ふむ。では君は、本気で私を」
初めて「それは予想していなかった」という顔をしてくれた。
まったく気に食わない返事だけれど、好きな人の知らない表情を心中の際に見られるだなんて、なかなかないことだ。
「二人じゃなく三人……恋敵とまで一緒に消えなければならないのは、本当に業腹ですけどね」
「すまん」
「どっちの意味で言ってますか」
残り時間が三十秒を切る。
怪物と指さされるようになってからも、月の持つ美しさだけは、かつてと何も変わらない。
「まったく本当に、憎らしくなるくらい綺麗ですね」
「……僕も、その点だけは同感だよ」
「どっちの意味ですか、だから」
言い返した時、地表を満たす光が火へと転じる瞬間が来た。
はるか空のかなたで輝く、卑怯でずるい夜の女王もそうしていたかはわからない。
しかしまあ、笑っていたとしても、それはそれでいいだろう。今だけは。
どうしてといって、この瞬間。私たちは12と30の遠い壁を越え、ようやっと追いかけた人の隣、同じ終わりの席に着きおおせたのだから。
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