平和の決め手

@Muu-ko

平和の決め手

 「あ、よかった。やっと目を覚ましましたね。あまりにも眠り続けておられたのでちょっと心配していたのです」白衣を着た細身の三十代くらいの青年の顔が剛力の目に入った。自分がベッドの上に横たわっており、どうやらここが病院らしいことだけはわかった。しかし状況がわからない。こうなる前の記憶がどうも思い出せない。


「今日は何年の何月何日かわかりますか」

きょとんとした剛力に向かって青年がゆっくりはっきりした声で問いかける。

「2031年4月15日です」

「ご出身は」

「名古屋です」

「ではお住まいは」

「神戸です」

「はいはい、記憶はあるようですね」と言いながら青年は小さなメモ帳に何やら書き留めている。

「覚えていますか。あなたは空港のトイレで倒れていたのですよ」

そういわれて一気に記憶がよみがえった。イギリスへの海外赴任が決まり、妻子より一足先にロンドンに向けて飛び立つところだったのだ。免税店でウロウロしているうちに気分が悪くなりトイレに駆け込んだ。個室に入り、座った途端どっと冷や汗が流れ落ち、これはちょっとヤバいぞと思った。その後からの記憶がない。

「あの、僕は何時間眠っていたのですか。会社に連絡したいんです」自分の状況がやっとわかり慌てて質問するが、青年は「半日以上です」と呑気に答える。

「半日以上!」

「まあ、落ち着いて。もうどうやっても間に合わないのですから。まずは色々確認しなければなりません」と言われて、確かにそうだ、もう遅いと思い剛力は海外赴任第一歩で躓いたことにイライラする気持ちをなんとか抑えた。見おろされながら話すのは居心地が悪いので、なんとか身を起こしてみるが体を押し上げる腕に力が入らない。

「まだ無理しないで下さい。頭がふらふらするでしょう。時空ボケが残っているはずですから」

時空ボケ?何だそれは?意味が分からず訝しげな顔で見返すと、青年はふらつく剛力の体を支え、身を起こすのを手伝ってくれた。そしてベッドのそばにあるイスに腰かけ、剛力の目をしっかりと見つめながら言った。

「あなたはタイムスリップしたんです。今は2127年。ここは時空局附属病院です」

「は?」言っている意味はわかっても信じることができない。

目の前にいる青年はよくいる若い医者にしか見えない。部屋の様子も普通だ。病室にしては豪華で、高級ホテルのような感じではあるが、政府高官ややんごとなき方々が入る特別室であればこんなものだろう。いずれにせよ百年ほど先の未来らしい片鱗は全く見られない。自分のいた2031年とその百年前の1931年は全く違う世界だったのだ。約百年先がこんな風だなんてありえない。一瞬のうちに色々考えるが、目の前にいる青年はいたって真面目な顔である。

「信じられないのは当然です。しかしこれは本当のことです。壁のカレンダーを見て下さい」と剛力の右側の壁を指さした。指さした先にあるカレンダーには雨傘のイラストの横に『2127年 水無月』と書かれていた。剛力は驚きで言葉すら出なかった。

「まだこれくらいでは信じられないと思います。カレンダーは作り物で、だまされていると思っておられるんじゃないですか。わかります。今までタイムスリップされてきた方はみんなそうでしたから。では私の携帯電話をご覧下さい。ほら、6月10日火曜日とでてるでしょう?」と手の中に収まるサイズの小さなスマホの画面をポンと押し、起動画面に表示されている日付をまず見せた。そしてカレンダーのアイコンを押し、今が2127年であることを確認させた。

「大丈夫ですか?まだ信じられませんか?もしそうなら私のこの電話で会社かご家族に電話をかけてみられますか?絶対に通じませんよ。まあ、まずはご自身の携帯電話をご覧になるといいでしょう。電波は通じていませんから。ネットはおろか電話すらできません」と言い、壁際の机の上においてあった剛力のカバンを差し出した。

カバンから取り出したスマホは電源は入っていたが、青年の言う通り電波もWiFiのサインも出ていなかった。一縷の望みを託し青年のスマホで妻へ電話をかけてみたが、予想通り通じなかった。そもそもこの世界の電話番号はゼロから始まらないのだと青年はかけた後に教えてくれた。


混乱したままの剛力に青年は水の入ったコップを差し出した。冷たい水がのどを通る。未来といえど水は変わらず水だった。元の世界に戻れるのか、また妻子に会えるのか、不安しかなかったが、まずはこの青年からの説明を受けることにした。


「ではお名前から伺いましょうか」青年はベッドの横のイスに再び腰かけ問いかけた。

「剛力騎士といいます。騎士と書いてナイトと読みます」

「もしかしてキラキラネームってやつですか?昭和平成の流行紹介本で読みましたよ」

「そうです。苦労しました。キラキラネームがはやりだしたのは僕が生まれた十年後くらいですから、僕はその走り以前だったんです。だから本当に奇異で親父を恨みましたよ。キラキラネームがはやった時は馬鹿にされつつも仲間ができてホッとしました」

「今は名前に対してだけでなく色々なことに対して自由があります。あなたがいた二〇三一年から約百年の間に世界は大きく変化したんです」

「いったい何が変わったんですか」

「まず怪我はあっても病気や不健康ということはほぼありません。遺伝子工学をはじめ、ありとあらゆる学問が飛躍的に発展し、健康を損なうということがありません。生まれた時点でチェックし、可能性のあるすべての疾患をモーラするワクチンが打たれます。もちろん胎児の時点でも問題があれば色々な形で対処されます。ですからそもそも不健康で生まれてくることがまずありません。病院はありますが、病気ではなく、事故などで怪我をした人が行く場所といったほうがいいでしょう。しかし怪我もまた大きな問題ではなくなってきています。義手義足の技術はもちろんのこと、再生医療の進歩により臓器にとどまらず人体のありとあらゆるパーツ再生が可能になっていますから。それから学校の在り方が違います。あなたが小中高で学んでいたことは、入学時にチップを脳に埋め込むことによってすべて簡単に身に着けることができます。だから一定の知識については優劣がありません。学校は自分の適性をチップで得た知識をもとに探し出すところであり、また人と心を通わせ、社会性を学ぶ場所なのです。自分の生きる道を探す場所が学校で、それをさらに極めるところが大学です。そして自分がやりたいことやってお金を稼ぐのがこの世界での仕事というものです」

「勉強しなくていいなんてそんな世界に生まれたかったですよ。努力がいらないなんて羨ましい。でも競争はあるんでしょう?なら結局生きる苦しみはあるって事か」と吐き捨てるように剛力は言った。

「競争なんてありません。みんなやりたいことをやっているのが今の世の中です。不思議なことにそれで世の中不都合なく回っていますし、それぞれが自分の好きなことをやっているので犯罪というものが起こりません。満たされた思いで生きていると他人を傷つけたりするなんてありえないのです。逆にすべての人が誰かの役に立ちたいと思って生きています」と信じられないようなことをすました顔で淡々と青年は語った。

「競争がないなんて嘘でしょう。すべての人が満たされるだって?どこぞの宗教が言うような理想的な世界なんてありえないでしょう」タイムスリップしたことを少し信じかけていた剛力だったが、信じがたい話に再び疑心暗鬼に襲われた。そんな剛力を憐れむように青年は見つめ、静かな声で続けた。

「核戦争ですよ。これが全てを変えたのです。来年、つまり2032年に世界核戦争が起こり地球の人口は五億人にまで減るんです。2022年に始まったウクライナとロシアの戦争は数年後なんとか終結しました。ですが、その後も両国間で火種が残ったままうまくいかない状態が続きます。あなたもそのことはご存じですよね。そして2032年再び両国間で戦争が勃発します。今度は全世界を巻き込んでの戦争です。世界中が核を使いつくしての戦争だったので二か月ほどで終結しましたけどね。世界の九十パーセント以上の人が死に、土壌も海も汚染され、地球は死の星なりました。ここまで失って愚かな人類はやっと手を取り合うことに気が付いたのです。今は国境もありません。みんな地球国民なのです。日系地球人、中華系地球人、イタリア系地球人…がいるだけです。もっともヨーロッパは全滅でしたからヨーロッパ系の生き残りは少数ですけどね。土壌の再生にも時間がかかりましたから、フランス産トリュフなんかが出回りだしたのも数年前ですよ。でもねえ、土地は再生するんです。五十年以上かかりましたが自然はほぼ戻ってきました。人間も動物も徐々に増えてきています。自然というのは時に恐ろしい力を発しますが、その分生き抜く力もすごいんですね。でも文化は違います。長い長い時を経て人によって受け継がれてきた世界中の伝統や遺産がたくさん失われました。あなたの時代の飛行機と違い、今は数時間で世界をめぐることができますが、私はエッフェル塔も万里の長城も写真でしか見たことがありません。ピラミッドは下から三段目までしか残っていません。すべて破壊されてしまったのです。私は三十三歳ですが、私が生まれる十年前くらいから自然も元に戻り、世界が争いのない素晴らしい循環を始めたのです。過去の悲惨な歴史を知るにつけ、私は本当に恵まれた時代に生まれたとつくづく思います」

「この世界には争いは全くないんですか。戦争も内戦もテロもないんですか」

青年にとってこの質問は本当におかしかったのだろう。はははと声を上げて笑った。

「戦争やテロはおろか、強盗や離婚すらありませんよ。そもそも争いというものがありません。もちろん意見の交換の上で勢い余ることはありますよ。でもそれによって憎しみや怒りを持つようなことはありません。人類はあの大きな過ちから悟ったのです。相手を許すこと、受け入れること。そうすれば相手も同じようにしますから争いなんて起こらないのです」

「争いがない?離婚すらないだって?信じられないよ。僕の妻は家事を手伝え、ゴロゴロするなと色々うるさくってしかたありませんよ。子供がいるので離婚までは考えませんが、時々どうしてこの女がよかったのかわからなくなる時があります。いや、憎んでいるわけではないんですよ。死んでしまったらもちろん悲しいですしね。でも絶対的な存在ではないんです。つきあっていた時は彼女が絶対だと思っていたんだけどなあ」

と額にしわを寄せながら剛力はぶつぶつ愚痴を言った。

「おっしゃることがあまりよくわかりません。私たちの世界には憎むなんて感情がありませんから、むしろそんな話を聞くと新鮮な感じです。そういう感情は昔の小説や映画でしか知りえませんからね。どうして家事を手伝うのが嫌なのですか?私なら妻が喜ぶなら喜んで手伝いたいと思いますけれどねえ」


想像を覆されると誰しも驚くものであるが、それが想像以上であったときは驚くというより、むしろ喪失に近い状態になるものだ。剛力は次々と出てくる嘘のような話に反応することができず、返す言葉もなくだまりこんでしまった。その様子を見て気の毒に思ったのだろう。

「衝撃が強すぎましたか。すみません。剛力さんはイギリス赴任するところでしたからなおさらですよね。ヨーロッパ全滅なんていきなり言われて戸惑ったでしょう。そうですね、ネガティブなことばかりでしたから、ポジティブなことをもっと話しましょうかね。大丈夫ですか?」

剛力は首を少し動かしうなずいた。

「そうですねえ。エネルギー問題はずいぶんと変わりましたよ。例えばあなたの時代は携帯電話なら充電という作業があったんですよね?今はそんなものありません。二十四時間使い続けても五年は持つ電池が開発されましたから。車も大人の握りこぶし程の大きさの電池で動いています。毎日十時間走って三年くらいで交換ですかね。値段は一万円くらいです。」

「一万円で三年って、それは安すぎるよ」

「そうですか?私にとって普通なので物価に関してはよくわかりませんが、とにかくあなた達の時代のものは私たちにとって電化製品のみならず何をとっても低機能なものばかりです。それに下水、浄水、発電システムも無駄が多すぎます。あ、もちろん原発は一掃されましたよ。どこかを犠牲にして廃棄物処理をするシステムは今の世界のルールに反していますからね。なにより原子力は核戦争でもうこりごりです」

「なんだか随分便利で素晴らしい世の中になっているんですね。羨ましいなあ。僕もここに残りたくなってきましたよ」ポジティブな話で不安が少し拭い去られたのか、穏やかな口調になった剛力を励ますように青年はさらに話を続ける。

「ところで輪廻転生ってご存じですか?」

「はあ、死は終わりではなく、魂は生まれ変わり、何度も人生を繰り返すというやつですよね」

「そうです。私たちの本体は魂であり、魂は不滅で何度も人生はやり直せるんです。なんとそれが証明されたんですよ!」

いきなり畑違いの話題に剛力はとまどい、

「それのどこがポジティブなんですか?」と不思議そうに聞き返した。

「苦労のある時代に生きておられたからわかりませんか、この意味が。つまりですね、人生を思いっきり好きなように生きていいということですよ。死は終わりで、一度きりの人生と思うから色々欲張って生きてしまうのです。でも次があると思うと好きなことだけに集中できるでしょう?例えば女性ならば仕事と出産を天秤にかけなければならない時がありますが、次の人生があると思えばいま一番好きなことを選ぶことができます。魂の永遠性が約束されれば、その人生を豊かに生き切ることができるのです。あなただってやりたいことがあったなら妻子を持つこともなかったですし、また家族を養うために、心から好きでもないことをする必要もなかったのです。私は魂の永遠性を知るにつけ、この一回限りの今の人生を意義あるものにしようと心から思いますよ。好きなことだけをして、常に意味ある人生を生きていたならたとえ四十歳で死んでも、いま死んでも後悔ないと思いませんか?」と青年は弾んだ声で問いかける。

「それはそうかもしれませんが、実際好きなことだけなんて無理でしょう」

「だから言ってるじゃないですか。2127年ではそれができるんです。人口が少ないので土地なんて二束三文の世界ですから奪い合いなんてありません。いまや自然も回復し食料も十分にいきわたって飢餓貧困もありません。衣食住の心配はないんです。人々は誰かを喜ばせるために仕事をします。心豊かに全人類が生きているんですよ。好きなことだけしていても、その好きなことは必ず世界の誰かを喜ばせることにつながっているんです。不思議ですか?私だって不思議だなあと思いますよ。でもこれが私の住む世界の現実なのです。救済を求める人がいないので、宗教だってなくなってしまったくらいです」

「じゃあ、この世界に生きていて不満はないのですか?何か変えたい要素というものは全くないんですか?」

「不満はありません。十分に幸せですし、過去の人類の歴史を知ってしまえば、これ以上望むことは贅沢すぎるというものです。ただ、あえて言うと与えられる人生の時間についてですかね」

「与えられる人生の時間?どういうことです?」

「この世界では全員四十五歳の誕生日の次の日に安楽死が決められているのです。あ、ご心配なく。安楽死も百年前とは全く違いますから本当に「安楽死」です。安楽というより極楽死というくらいです。そもそも死ぬことを苦しみと私たちは思っていませんから、予防注射を受けるような感覚ですね。苦痛なく一瞬で終わります。はい、卒業おめでとうという感じです。中には最後の誕生日に盛大に人生卒業パーティをする人もいるほどです」

「強制的に殺されるってことですか?そんなこと許されない。それにそれをみんなが受け入れているってことですか」と剛力は語気強く質問した。

「そうです。だって魂は永遠で、死んだ後はまた次の人生が待ち受けています。そして生まれてまた好きなことだけに没頭できるのです。新しいことができるんですよ。おめでたいことじゃありませんか。好きなことにずっととらわれていると、それはそれで苦悩が出てきますしね。ですからいいことなんですよ、切りかえられるということは」

「そもそもどうして強制死なんてことになったんです?反対する人はいなかったのですか?」剛力は興奮を抑えきれず早口で問いかけた。

「もちろん最初は反対の意見もあったようです。しかし定まった時間があるからこそ懸命に生きることができるのです。それに与えられた時間はみな同じ、平等です。平等であるということは安心を与えます。たとえ短くても心の平穏こそが幸せをもたらすのです。あなた達は限りある人生と知っていても、期限がわからないから何となく生きてしまっているんじゃないですか?自ら誰かと比べて苦しい人生を背負い込んでいませんか?そして年老い、生き切れなかった人生を振り返って後悔しているんじゃないですか?でも私たちは違います。私たちの人生は四十五年です。そしてその間、好きなことだけをやりつくすんです。今とても充実していますし、今までずっと幸せだったので、時にもう少し生きていたいと思うことは確かにあります。でも先人たちは皆四十五歳で死んだのです。ここで個人のエゴで秩序を乱し不公平の種をまけば、また優劣ができ、劣等感が生まれ、世界が乱れます。乱れぬルールこそがこの平和な世界を作っているのです。生まれ変わってもまた好きなことができるのなら四十五年の人生でも悔いはありません。長生きしてあなた達のようなひどい世の中に生まれ変わるよりも、保障された来世の幸せの方がずっといい。それに四十五歳はそろそろ体力的に無理がきかなくなる頃ですからね。確かに病気にはなりませんが、老いだけはこの世界の医学や科学をもってしても止めることはできないのですよ。だからそういう意味でもあきらめきれる年齢なんです、四十五歳って」


次々と語られるこの世界の話に愕然とするとともに、今まで疑心暗鬼だった気持ちが吹き飛び、今度はひしひしとこれこそがこの世界の現実なのだという思いが押し寄せてきた。そしてこれからどうなるのかという不安がどっと剛力の中を駆け巡った。

「ところで僕はこの病院を退院したら元の世界に戻れるんですか」剛力はすがるような思いで言った。

「タイムマシーンがありますから戻れますけど、戻りたいのですか。一年後に核戦争ですよ」

「核戦争は心配ですがやはり妻子を見捨てはできません。取りあえずイギリス赴任は会社を辞めてでも断ります。あとのことはまだ考えられませんが、でも僕だけこの世界でのうのうと生きるわけにはいかないし、家族を見捨ててここで好きなことに没頭なんてどうせできませんから」

「なるほど。でもお子さんはともかく奥様は本当に見捨てられないほどの価値があるのですか?さっきあれほど愚痴をいっておられたではありませんか。帰ってしまえばほぼ確実に一年後に死んでしまうのですよ」

「いや、そうは言ってもやはり情はあるんですよ」

「情ねえ。それってタンスの奥にあるもう二度と着ない服をどうしても捨てられない時に持つ何となく心に留まっているぬるい感情と同じようなものでしょう?奥さんは替えのきく存在なのでしょう?自分の罪悪感を収めるために不満がある家族に命をかけるのは愚かなことです。大丈夫、あなたがたとえ家族を見捨ててもこの世界で誰もあなたを責めたりしません」と畳みかけるように話しかけた。

「そういうことじゃないんだ。どうしても帰りたいんだ。心配でたまらなくなってきた。帰ったところでどうなるかわからないけど、とにかく僕は家族を守りたい。ああ、こんな風に思うってことは、もしかしたら僕は自分が思っている以上に妻のことを愛していたのかもしれない」

「タンスの奥のもう着ない服を?」と青年は嫌味ではなく、真面目な顔をして言った。

「違う!着なくても大事だから捨てられないんだ!」と大きな声で即答した。

「今わかった。そうだよ、あんなにうるさく言われながらも一緒にいるって、やっぱり僕と彼女の間には特別なものがあるってことなんだ。僕は家族の元に帰ります、なんとしてでも。たとえ死ぬことになっても帰りたい」と息巻いた。

青年は剛力を見つめ、

「よかったですね。死ぬ前にご自身が大切なものを持っていたのだということがおわかりになって。私たちにとって死は次なる喜びへの扉です。でも死が恐ろしいものであるあなた達にとって、意味のない人生であったと思いながら死んでいくことは、その死をより多くの苦しみとともに迎えねばならないでしょうから」と心から剛力の思いを納得したようにそう言った。

「君たちが核戦争で変わったように、人間、ギリギリの思いを持たないと大切なことに気が付かないんだね。ありがとう、君と話したおかげだよ」と笑顔で剛力は言った。心からの笑顔だと青年は思った。そしてにっこり微笑み、

「誰かの喜ぶことをするということがこの世界に住む人間の一番の喜びです。僕もあなたの人生の最後にお役に立ててよかったですよ」と言った。

「いやいや、まだ死ぬと決まったわけではないよ。僕が生き残りの五億人に入るってこともあるからね」とおどけた顔をして剛力は笑いかえした。

「ええ、確かに確率はないわけではありません」

肯定してはくれたものの笑顔ではなかったので二人の間には少し微妙な空気が流れた。気まずい雰囲気から逃れたかったのだろう。青年は居住まいを正して、

「ではまだ残っている確認事項の続きをしますね」と言い剛力の誕生日がいつであるかを尋ねた。

「1986年1月15日です。ちょうど四十五歳、この世界だと既に死んでるよね。ははは」と冗談めかした顔で言い、今度こそ青年を笑いに誘うため、明るい声をたてて笑った。

しかし、青年は真剣な面持ちのまま「そうですか、すでに四十五歳だったのですか。それならとっくに安楽死ですね」と落ち着いた声で答えた。

しばらくの沈黙の後、青年は剛力の目をじっと見つめ、

「やはり私はあなたの人生最後のお役に立てるようです」と静かに宣告した。そして胸ポケットにさしていた銀色のペンのような筒のフタを素早くあけ、その先端を剛力の腕に突きつけた。チクっと何かが刺さったのはわかったが痛みはない。心地よい眠気が襲ってきた。剛力はそれが注射器だったのだとやっとわかった。そして薄れゆく意識の中で青年の最後の声を彼は聞いた。

「すみません、剛力さん。でもね、乱れぬルールこそが平和な世界を作るのです」





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