第52話
哲也と道子が向き合ったのは、哲也の国民民主党への入党以来だ。目のクマが濃く、頬が瘦せこけた息子を見て、道子は息を呑んだ。扇家の長男として正しく毅然とした生き方ができるように、あえて厳しく育てたつもりだ。しかし現実では花丘に振り回され、道子自身が呆れて見捨てるような態度を取り、ブラックな民間企業に務める正社員と変わらない風貌と化していた。これでは何が正しいのか判別できなくて当然だった。
「俺、政治家に向いていないのかも」
「なぜ?」
哲也が花丘のように振舞えないことを刺しているのだと、道子は悟った。正直なところ、哲也が政治家になることを望んでいなかった。どのような職業に就いても、人の道を外さず、人を助けるために正しくあれば、と願うのみだったのだ。しかし哲也自身が政界に入ることを望んだので、その意思を尊重したまでだ。
「俺は、何が正しいのか分からなくなった。母さんがなぜ政治家になり、今も大勢力と闘っているのかも見いだせていない」
「母さんが、この国の行く末を想像できないって言っても?」
すっかり道子を見下ろす背丈になった哲也は、耳を疑い腰を曲げた。覗き込んだ道子の目は迷っているようには見えなかった。
「ただでさえ、この混沌の中で国民の方々が生きていらっしゃるのよ。少しでも蓄えがある方はそそくさと海外に拠点を移し、日本に帰ってくるかどうかは半々。日本に見切りをつけるか、仕方がなく帰国するかってところかしら。あくまで母さんの予想だけどね。それだけでなく、今は政治経験のない若い女性が初めてづくしの政策を実行している。この国がどう転ぶかなんて、なおさら予測できるわけないじゃない。だけど母さんがあの方に力添えしているのはね、それが今ある選択肢の中で一番正しいと思ったからよ。この国では女性の立場があまりにも弱い。小学生くらいの女の子が強制結婚させられる国よりはだいぶましだろうけど、それでも先進国の中ではかなり肩身が狭いものよ。子育ての面でも、将来の人材育成にもっとも深く長期間にわたって関わっているのが女性なのに、よ? 女性の地位を上げ続け、女性の不満を減らせば、女性の職場が人間関係で面倒くさいなんていう声が減る。そもそもストレスが溜まらないから、人に発散する必要がない。こういう理想のために、母さんは長年走ってきた。でもそのせいで、哲也と向き合う時間が犠牲になってしまった。本当に母親失格だわ。こうして向き合うのがあまりにも遅くなって、本当にごめんなさい」
「うん、本当に遅すぎたよ。俺にも、こうしたいなっていう願望ができたのも、遅すぎた。俺が無力だってことに気づくことも、亀並みに遅い」
哲也は無意識に、道子の眼差しから目を逸らした。突如道子が老けて見えたが、同時に尊いと感じた。言葉にした、哲也自身に対する自覚も嫌悪感を感じ取られたくなかった。
「あら、言ってみなさいな。それだけでも、政界で得られた大きな収穫じゃない。正しくあろうとしたから、見つけられたんでしょ?」
「いや、母さんに言ったら恥ずかしい」
「じゃあ、総理に直接言う?」
「あの人が俺に時間を割くわけないだろ」
道子はおかしくて笑いが止まらなかった。背丈のみが道子を越えたが、両肩が縮むさまは小動物のように見えた。道子の亡夫は大人しい性格ではなかった。遺伝的な突然変異も実在するのかと思った。
「ま、あの性格と態度ではね。しかもあんた、オンライン国会でも散々叩かれていたもんね。でもあの人は人の本質を見抜く目があるから大丈夫。本人は愚者を演じているつもりだけど、決して愚者ではないよ。あんたが見出したものにも興味を示してくださる」
「そ、そんなわけ…… で、でも、母さんに最初に言うよりは恥ずかしくないかも」
「ねぇ、もっとお話ししない? 母さん、せっかく有給いただいたんだもの。これまですれ違いだった時間を埋めようよ」
道子はにやける顔を制することが困難だった。現首相・開真波に毒されたのかもしれない。哲也は自室に戻り、スウェットからスーツに着替えた。自車で真波の執務室に向かい、哲也は初めて、真波の強い眼差しを直に見た。
この日、哲也は真波に告げた。
『俺は、この国の娼婦という女性に新しい職業選択の自由を提供したいです』
その日のうちに、新たな爆弾が見つかった。
花丘健三が娼婦を数十二人も全国各地に派遣しており、同党員の監視を命じていること。
そしてもう一つ、花丘議員が開内閣下でのオンライン国会にて、一度も居眠りせずにいられる秘訣。
花丘自身が覚せい剤を使用、また流通の助長をしていることだ。
哲也はこれらの爆弾の起爆剤となり、また党を離脱することとなった。
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