番外編③ 油でよみがえる枯れ芽③
「私には解せない。なぜ犬がこのような下級民を崇高なる首相に仕立て上げようとしているのか」
「え、日本語大丈夫? 私はあなたの掲げる理想をお聞きしているんですけど」
金堀は官僚が用意した椅子に、乱暴に座った。しかもパイプ椅子ではなく、本物の革製と見られる。どこにそんな代物を用意していたのか。
「女なんだから、それなりの稼ぎ方があるだろう。そして大人しく納税するのが女の幸せというものだ」
「だから、この国で梅毒患者が増えてもお構いなしというわけか。自分もそれなりに遊んでいるだろうに。下衆め」
彼は、最初から私を人間として見ていない。女という商品になり得る器でしかない。女を使って納税額を稼ぎ、丸ごと納税すればいいというのが彼の理想らしい。
「女だけが梅毒患者でなければ、発症の原因でもないんだがな。あんたも一度検査したら? 私は未経験だから今のところその心配はないけど、そういう経験の機会ができれば検査する予定だぞ」
私はもはや彼と会話する気が無い。この態度だけで答えを見出した。あとは私が起爆剤になるだけだ。犬走安紀彦にできない方法で。
「私が感染するわけないだろう。彼女にはそれなりのカネを渡して、定期的に検査を受けさせているんだから」
「へぇ、そのために無関係な私らに増税を重ねて強いるんだ?」
「それがお前らの幸せだろう」
このときほど、私自身の短気な性格を悔やんだことがない。胃液が沸騰するような不快感に耐えきれず、自ら終止符を打ちたくて堪らなかった。
官僚の一人が金堀に耳打ちした。
「金堀総理、あんた、すぐにでも記者会見の用意をした方がいいんじゃない? ちゃんと自分の言葉で質問に答えるんだな。自分で考えないと、そのうち失語症になるぞ。じゃ、私は戻るね」
私は強気を通したが、内心ではトイレに行きたくて仕方がなかった。いつ撃たれても仕方ないと覚悟していたが、単身での乗り込みがこれほど恐怖に押しつぶされそうになるものだとは思わなかった。それでも、私には経済的な悪夢を見続けてきたという自負をもって臨んだ。これくらいの恐怖に打ち勝てなくて、この先首相が務まるはずがない。温室で守られないと生きられないやつとは違うのだ。私が女である分、その恐怖に打ち勝った先に得られる強さに価値がある。
乗り込んだときの記憶を頼りに長い廊下を渡ると、犬走と彼の部下たちがこちらへ駆け寄ってくれた。その瞬間、私の両ひざが落ちた。
「開さん、なんて無謀なことを!」
「犬走さん、先に言っておきます。私は地元でアルソックなんて呼ばれているけど、実際は決して強い人間ではありません。人生の初盤で色々鍛えられたにも関わらず、です。そんな私の持ち前をこの世界でも貫くには、それ相応に試練を乗り越える必要があります。政界に入ってから鍛えるのでは遅すぎます。何ごとにも事前準備が必要です」
「だからといって、万が一のことがあれがどうするつもりだったんですか。あなたにもしものことがあれば悲しむ人がたくさんいること、忘れていたとは言わせませんよ」
ならばそういう運命だったのだろう、とは言えなかった。彼が政治家ではなく、一人の人間に見えたのだ。私自身の浅ましさを忘れるほど、彼が眩しかった。
「あなたは勇気のある女性だ。聡く、人への思いやりもある。でもその持ち前の活かし方を誤ってはいけない。何より、あなたがご自身を潰すようなことがあってはならない。政治家ではなく、一人の人間として自分を大事にしてほしい」
私は熱い男性が苦手なんだけどな。それでも、犬走の吠えるような声が嬉しかった。私はブラジャーのストラップを正すのを忘れていた。
その日の夜、金堀は自ら辞任と内閣解散を告げざるを得ない記者会見を開いた。私のブラジャーのストラップには超小型マイクを縫いこんであった。金堀との会話を含む始終は犬走への通話、私個人のインスタグラムとXアカウントでの音声ライブ配信により筒抜けだった。企んだ私個人への批判もそれなりにあったが、金堀への辞任要求の声が二つのSNSそれぞれ十倍も投稿されていた。
またマスコミの注目も浴び、私は悲劇のヒロインである瞬間もなく首相に就任することになった。
私が通信制大学への編入と東京への引っ越しが完了するまでの短期間、日本は首相不在の国となった。
その後金堀は愛人とともに国外を出ることを望んだが、愛人だけでなく妻も金堀の道連れを拒んだ。結局金堀は単身で国外へ移り、現地の病院にて性病が発覚した。
現在、彼のその後を知る者は、日本において誰もいない。
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