第16話 夏代 後編

――――


目をかけると、そこは玄関前の廊下だった。

夏代は修也の手にしているカーネーションのしおりを見て、玄関まで飛び出してくる。

後ろから修也が「おばあちゃん!?」と驚いたように声をかけた。

元の世界では、そこで夏代の足が止まり、飛び出していくのを止めていた。

しかし、ここはもう一つの選択肢の世界だ。


「おばあちゃん? どこ行くの?」


修也が驚いたような戸惑った声で聞く。

その声に一瞬躊躇する様子を見せた夏代だが、何かを決心したような表情で修也に向き合った。


「修也、おばあちゃんはちょっと出てくるわ。一緒に行く?」

「どこに?」


修也は不安げに聞いた。

また置いて行かれるのではないかとみるみる涙目になる。


「あぁ、違うのよ。ごめんね。それをくれた女の人の所へ行きたいの。お礼を言わなきゃね」

「お礼なら言ったよ?」

「そうね。でもおばあちゃんは言えてないわ」


そう言って、修也の手を引いて家を出ていく。

修也がしおりをくれた女性と会ったのは歩いてすぐのタバコ屋だ。家の角を曲がると見えてくる。

夏代は駈け出したい気持ちを抑え、角を曲がった。

すると、そこには――……。


「花江……?」


丁度、タクシーに乗り込もうとしている黒いコートを着た髪の長い女性の後姿が見えた。


「花江! 花江!」


走り去るタクシーを懸命に追いかける。何度も呼ぶが、夏代はつまずいてしまった。

角を曲がるタクシーを見つめるしかできない。


「花江……」


そのまま地面に突っ伏して泣き出す。

その背中を遠くから幼い修也は不安げに見ていた。祖母のあんな姿を初めて見たのだろう。

立ち尽くしていた。

夏代が嗚咽を漏らしながら泣いていると、地面に白いパンプスが見えた。

ゆっくりと顔を上げると、ひとりの女性が泣きながら立っている。

西日で逆光になり顔が良く見えなかったが、夏代にはそれが花江だとすぐにわかった。


「花江……?」

「お母さん……」


花江と呼ばれた女性はしゃがみこんで、消えそうな声でそう呟いた。


「花江!」


夏代はかきむしるように花江を抱きしめた。

少しだけ痩せたようにみえる花江は、それでも昔のまま綺麗な顔立ちをしていた。

服もちゃんとしたワンピースとコートを着ている。

夏代はその一つ一つを確かめるように、花江に触れた。


「あぁ、夢じゃないのね。本当に花江なのね」

「ごめんなさい、お母さん」

「いいのよ、元気にしていた? ご飯は食べてる?」

「大丈夫。お母さん、会えて良かった」


花江も涙を溢しながら呟く。

そして、遠くで立ち尽くす修也をみた。


「大きくなったね。育ててくれてありがとう」

「いいのよ、そんなこと。それよりあなた、今どこにいるの?」

「それは言えない。きっとお母さん達のことだから、色々と調べているんでしょ?」


そう言われて小さく頷いた。


「そう。でもだからこそ、もう会えないわ」

「どうして?」

「お母さん達に迷惑はかけられない。でもね、いつかきっとまた会える日が来るから。そしたらまた会いに来るから……。お願いだからそれまでは何もしないで静かに暮らしていて?」


花江は微笑みながらそう告げた。

夏代は小さな声で何度も「でも、でも……」と呟いている。


「何年かかるかわからないけど、絶対にまた会いに来るから。約束するわ」


幼い頃から見慣れた、花江の決心した譲らない表情だった。

夏江は何も言えず、ただ頷くばかり。


「ごめんなさい、お母さん。私もう行かなきゃ。時間ないの」

「修也と話さなくていいの?」


花江と夏代から、後ろの修也までは少し距離があり会話は聞こえていないようだった。

ただ、何か不穏なことが起きていると思っているようで、修也は自分の服を握りしめて不安げに涙をためている。

花江はそんな修也に軽く微笑みかけた。


「側に行ったら抱きしめて離せなくなっちゃうから。それにさっき少し話せたし……」

「やっぱりあの栞は花江がくれたのね」


それに笑顔で頷くと花江は立ち上がった。


「じゃぁ、タクシー待たせているから行くね」

「元気で、元気でね。いつでも連絡していいから。待っているからね」


腕を掴んで名残惜しそうに、離れようとしない花江の手をそっと押し戻して花江は微笑んだ。

そして「じゃぁ」と小さな声で呟くと足早に立ち去って行った。

角を曲がり、花江の姿が見えなくなると修也は弾かれたように夏代の元へ駆け寄った。


「おばあちゃん!」

「修ちゃん、大丈夫よ。大丈夫」


必死に抱き付いてくる修也を抱きしめ返して、優しく声をかける。


「あの人だぁれ? おばあちゃんの知り合い?」

「そう……。大切なね。だから修也、その栞は決して捨てたりしては駄目よ? 一生大切に持っていなさい」


祖母の穏やかな、でもきっぱりとした言い方に修也は小さく頷いた。


――――


「以上が、あなたが選ばなかったもう一つの選択肢の世界です」


龍臣はそう告げるが、泣き崩れる夏代には届いているかはわからなかった。

現代の夏代は、ただこの光景を見つめるしかできない。そして、選ばなかったことをただ後悔しているのだ。

なんども地面に拳を当て、娘の名前を呼ぶしか出来ない。

もうひとつの世界を見ることで、夏代は今よりもさらに強い後悔と苦しみを感じている。

しかしそれと同時に、一目でも娘の姿が見れたことに喜びを感じているのだ。

ひとしきり泣いた後、夏代はふらりと立ち上がった。

そして、泣きはらした真っ赤な顔で龍臣を見あげてくる。どこか、魂の抜けたような表情だ。


「ねぇ、龍臣君。私はここで見たことを忘れてしまうのかしら……?」

「おそらくは……」

「どうにかして、覚えていることは出来ないかしら? 夫にも花江のことを話してあげたいの」


夏代の気持ちはよく分かった。しかし、そればかりは龍臣にはわからない。

現代に戻っても覚えているかなんて龍臣には決めることが出来ないのだ。


「現代に戻っても覚えているか否かは僕にはわからないんです。だから何のお約束も出来ません」


そう言葉にすると、本当に自分はただの案内人であり何の力もないのだと感じてしまう。

申し訳なさそうに肩をすくめる龍臣に、「そう……」と夏代は呟いた。


「あなたは忘れてしまうの?」

「いえ……、僕は案内人ですから忘れることはないんです」


そう伝えると少しだけ夏代の顔に表情が戻った。


「じゃぁ、一つだけ約束してほしいの」

「何ですか?」

「現代に戻って、私がここでのことを忘れていたら、私と夫にここでの記憶を話してくれないかしら」

「しかし……」


そんなことしたら、夏代は再び辛い気持ちになってしまうのではないか?

そもそも龍臣が話したところで、源助さんはともかく夏代に信じてもらえるのだろうか?


「いいでしょう? あなたは案内人だと言うけれど、その記憶の本の持ち主である私が教えてほしいと言っているんだからお願いできるわよね?」


そう言われると、龍臣も嫌だとは言いにくい。だってこの記憶は夏代のものだから。

しかし、夏代が忘れてしまうことを龍臣が話すことで聞かせていいのだろうか?

こうした事例はなかったから正直判断が付かなかった。

しかし、夏代も譲らなかった。

ついに龍臣は根負けする。


「では一つだけ、僕からお願いがあります。その時に修也も同席させてください。そして、花江さんの話を聞かせてあげてほしいんです」

「え……」


龍臣のお願いに、今度は夏代が戸惑う。


「それは……」

「もちろん、この約束もあなたは忘れてしまうかもしれない。でも、僕が覚えています。この交換条件に乗れないのなら、お約束はできません」


そうはっきり伝えると、夏代はしばらく考える様子を見せ、頷いた。


「わかったわ。お願いします」


その決心した表情は、どこか花江に似ていた。


――――


記憶の世界から戻ると、やはり夏代は記憶の世界で見たことを忘れていた。


「どうしてここにいるのかしら?」


開口一番にそう言って、困惑したように周りを見渡す。

龍臣はやはりと言う気持ちで、夏代に言った。


「修也について話していたら眠ってしまったんですよ」


そう穏やかに伝えると、夏代は恥ずかしそうに「まぁ」と笑った。


「いやだわ、恥ずかしい。ごめんなさいね」

「いえいえ。皆さん、このソファーが心地いいのか眠ってしまう人が多いんですよ」


夏代は頬を赤らめながら、席を立った。

龍臣も見送るために店の入り口まで行った。すると、夏代は不思議そうに首を傾げた。


「……ここには修也の話をしに来ただけだっけ?」

「ええ」

「そう……。何かとても大切なことを忘れている気がするのよね」


そう言われて龍臣は少しドキッとしたが、表情は変えない。


「そうですか?」

「ええ……。何か……、約束みたいなことした?」

「約束ですか?」


夏代は記憶の世界のことを忘れているのに、龍臣とした約束は何となく覚えているようだ。

内容は覚えていないが、何かについて約束したようなそんな気がぼんやりするのだと言う。

どうしようかと龍臣は思ったが、小さく首を振った。


「さぁ……、特には覚えていませんが」

「そうよね。私の勘違いだわ。ありがとう、またね」


そう言って夏代はどこかすっきりとした表情で帰って行った。

角を曲がるまで見送り、ゆっくりと店の扉を閉める。

すると、後ろから声をかけられた。


「龍臣の嘘つき」


振り返るとあずみが呆れたような表情で立っていた。あずみも何となく記憶の世界での出来事を知ってしまうと言っていた。

だから夏代との約束も、龍臣が今それについて嘘ついたこともわかっているのだ。


「あずみが記憶の世界を見れてしまうのも厄介だな」


龍臣は困ったように笑う。

あずみが知らなければ、おの事実は龍臣だけが知る話だったのに。


「どうして約束を知らないなんて言うの?」


責めている風でもなく、ただ疑問と言った感じで聞いてくる。


「龍臣は修ちゃんが全てを知った方がいいと思っていたじゃない。切り出し方や伝え方に悩んでいただけで、知っていた方がいいと思っていたでしょう?」

「ああ、今でもそう思っているよ」

「じゃぁ、何で夏代さんとの約束を破るようなことするの?」


あずみは龍臣の腕に手を絡ませながら小さい子供がねだるよな仕草で身体をくねらせた。


「別に話さないとは言っていないよ。いつかは約束通り、この記憶の本での話をしに行く。でも今はまだ夏代さんの負担が大きい気がするんだ。また苦しそうに泣いてしまうだろうし、僕が話すことでまた自分を責める日が続いてしまうかもしれない。タイミングを見ないと」

「それはそうだけど……」

「あずみ、全てがあずみのそうにストレートに話していいことばかりではないんだよ。素直にありのままを話すことで、余計に相手を傷つけてしまうことだってある。人間は意外と繊細だ。あずみだってそうだろう?」


優しく諭されると、あずみは小さく頷いた。その様子に龍臣は微笑む。

薄く透けているその姿は頼りなげで、庇護欲が駆り立てられる。

その頬をそっと形に添って撫でると、あずみはくすぐったそうにふふっと笑った。

生身の人間ほど感触はない。

でも、薄く透けるその皮膚は微かに感触があった。

なぜあずみは生きていないのだろう。

あずみの姿が見えるようになって以来、龍臣は何度そう思ったことだろう。

龍臣にとって、あずみは今まで姿が見えなかったからどこか線引きを引くことができていた。

超えたくなるその線は、姿が見えないということでギリギリ保たれていたように思う。

それなのに、姿が見えるようになってしまうとその線がぶれてしまうような気がしていた。

龍臣にとってあずみは意識しなければ幽霊だ思うことが少ない。

あずみはごく自然にそこにいて、当たり前のように話をする。

幽霊だからと恐怖を感じることもなく、修也や家族と同じように人間として普通に接しているのだ。

だからこそ、この半透明な姿が辛くもある。

そして、あずみが幽霊だと突きつけられているように感じるのだ。

幽霊なんかでなければいいのに。

そう思ったところでどうしようもない。

わかっている。

いくら何を思い、感じたところでどうしようもないのだ。

それが、切なくて苦しかった。



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