第15話 夏代 中編
――――
修也の家を早々に引き上げた龍臣は、その足で記憶堂へやってきた。
本日は休みにしてあったが、休みの札はそのままに、龍臣はひとり店に入る。
そして、本棚の間に落ちていた本を拾い上げた。
革表紙の記憶の本だ。
その表紙を撫でた。
この本の持ち主は間違いなく夏代である。今回は強く確証が持てていた。
「本が落ちたの?」
あずみが眠そうな声で二階から降りてきた。
日差しは出ているが、時間的には夕方だ。
いつも通りの時間だが、龍臣にはあずみの姿が薄らと見えている。目を擦りながら、龍臣のいる本棚へと歩いてきた。
「本が落ちたことに気が付かないなんて、あずみにしては珍しいな」
あずみは大抵、どんな時間でさえ本が落ちるとわかるらしい。しかし今回は気が付かなかった様子だ。
「なんかぐっすり寝ていたみたい。こんなの久しぶりだわ」
どこかすっきりしたような顔で微笑む。
「そうか」とだけ相槌をうち、あずみを観察してみるがこれといって大きく変わったところはない。
あずみの姿が龍臣に見えるくらいだ。こればっかりはどうしてなのか、龍臣にもあずみにもわからない。
「また本を求めて誰かが来るのね」
「この本は修也のお祖母さんの記憶の本だ」
「そうなの?」
あずみは驚いたように龍臣を見た。
「修ちゃんにはこのこと言った?」
「言うわけないだろう。修也の両親については、修也の祖父母が話すと言っていた。だからもう僕からは何も言わないと決めたんだ。あずみも余計なことは言うなよ?」
やんわりと諭すとつまらなそうな顔を見せたが「はぁい」と素直に了承した。
今日はあずみの精神も落ち着いているようだ。
龍臣は少しホッとした。
「あずみは一週間、どうしていたんだ?」
ふと思ってそう聞いた。
あずみが出てこなかった一週間、彼女の気配はこの記憶堂になかった。
いや、龍臣が気が付かなかっただけかもしれないが、もし眠っていたとしても一週間も眠りっぱなしというのは初めてだ。
出てこなかった間、どんな様子だったのか気になった。
すると、あずみはコクンと首を傾げた。
「一週間?」
龍臣の言葉の意味が分からないというように、不思議そうな顔をする。
「あぁ。君は一週間、僕の前に現れなかったんだよ。覚えていないのか?」
「そう……だったかしら。なんだかそこら辺の記憶が曖昧だわ。龍臣と喧嘩して、二階へ戻って……。悲しくて悲しくて、泣いていたら龍臣が二階へ来たのよ?」
二階へ行ったのは一週間たったあの日だけだ。
つまり、あずみの記憶では一週間飛んでいるということか。
「一週間経っていたのね……。あんなこと初めてでエネルギー使ったし、眠っていたのかしら」
あずみは困ったように笑いながらも、困惑はしていないようだった。
龍臣も、「そうなのかもな」と軽く同意するに留めた。あまり追及しても意味がないような気がする。
あれだけ暴れたのだ、疲れと悲しみで深く眠っていた。そして一週間経っていたのだと考えるのも不思議ではない。
あずみは幽霊だ。
龍臣にもあずみ自身にもわからないことが起こるのだろう。
「修ちゃんのお祖母さんはどんな記憶を見るのかしら」
「さぁな。でもたぶん……」
きっと花江についての記憶だろう。
源助さんはどれだけ願っても記憶の本は現れなかった。
そして、妻の夏代には現れたのだ。夏代は優しくて明るくて、でも控えめで物静かな人だという印象が強い。
しかし、その心には強く後悔した出来事があったのだろう。
龍臣は夏代の記憶の本をそっとカウンターへしまった。
――――
夏代が記憶堂にやってきたのはそれから五日後のことだった。
記憶の本が現れると、大抵の人は一日、二日でやってくるが、夏代はなかなか現れず、龍臣も少しばかり心配になっていた。
だから、夏代が訪ねて来た時は妙にほっとしたのだ。
ゆっくりと扉を開け、可愛らしくひょっこりと顔を覗かせて入ってきた。
「こんにちは、龍臣君」
「こんにちは、夏代さん。今日はどうされました?」
どうされました、なんて医者の台詞のようだが夏代が一人で記憶堂にやってきたのは、龍臣が知る限り初めてのことであり、珍しいことなのだ。
龍臣には理由がわかっていたが、そこはあえて聞いてみる。
「良かったら奥のソファーへどうぞ。何かお探しですか?」
「えぇ、まぁ……」
ソファーに案内されて座りながら、夏代は言いにくそうに口ごもる。
龍臣が出したお茶を一口飲んで、顔を上げた。
「あのね、本を……、本を探しているの」
「どういった本ですか?」
龍臣は向かいの椅子に座ってそう聞き返した。
たぶん、夏代は記憶の本について知らない。源助さんからも聞いていないのだろう。
不安げに目をキョロキョロとさせている。
「本……、その何て言ったらいいかしら。変な言い方になるのだけれど、私のことが書いてある本というか……」
どこか恥ずかしそうにしながらも、そう呟く。
「私のことが書いてある本なんておかしな話だけれど、ここにあるような気がするの。龍臣君、なにかわからないかしら?」
困惑した様子を見せながらも、じっと龍臣を見てくる。
それに龍臣は頷いた。
「夏代さんの探している本はこれのことでしょうか?」
椅子から立ち上がり、カウンターから記憶の本を取り出す。
夏代に見せたとたんに、夏代の顔が輝いた。
「そうよ、これ。きっとこれよ」
「夏代さん、これはあなたの記憶の本です。あなたの本ですが、しかしこれは売ることは出来ません」
「ダメなの? なぜ?」
夏代は驚いたように目を丸くした。
「これは外に持ち出せないのです。でもここで見ることは出来ますよ」
「そんな……」
夏代は俯いた。
ひとりでゆっくりと読みたかったという様子で、不満そうだ。
龍臣はそっと本を差し出した。
「ご覧になりますか?」
「……そうね。ここで読むわ」
夏代は頷いて、ゆっくりと本をめくった。
「いってらっしゃい。ゆっくりと見てくるといい」
龍臣はそう声をかけた。
――――
夏代が目を開けると、そこは家のリビングだった。
今とあまり変わりない。キッチンに続いておりサイドテーブルと、こたつ。違うのは年代を感じさせる電話と多少のインテリア程度。
それでもここが昔だとわかる。
夏代は周りを見渡して、電話の横にかけてあるカレンダーを見つけた。
その日付は今から10年前の冬だった。
「本当に10年前なの……?」
夏代は近くに立っていた龍臣を見あげて恐る恐る聞いてきた。
「はい。ここは夏代さんがずっと心に強く後悔していた日です。ここで見ることのできる場面は、夏代さんが選ばなかったもう一つの道です。ただ、ここは記憶の中なので、見ることしかできません。もう一つの選択肢に干渉することは出来ませんし、見たところで夏代さんの今までの過去が変わることはありません」
「見るだけなのね?」
「はい。ただ見ることしかできません。場合によっては深く傷ついてしまうかもしれません」
そう気づかわし気に伝えると、夏代は考えるように黙りこくってしまった。
これから起こることは自分がこうだったら良かったのにと思い描くことが起こるとは限らない。その気持ちとは反対に、悪いことが起きてしまう可能性だってあるのだ。
しかしここは夏代の記憶の中だ。龍臣にはなにも言えない。
夏代はしばらく考えて、首を傾げた。
「じゃぁ、戻った後に修復させようとするのは?」
つまり、元の世界に戻ってから少しでも選ばなかった選択肢の内容に近づけようとすることは可能かということだろう。
しかしそれは――――。
「出来ない……と思います」
「どうして? だめなの?」
「だめというか……。夏代さん自身がこのことを覚えていない可能性が高いからです」
そう伝えると「え……」と固まってしまった。
「覚えていない? 忘れてしまうの?」
「記憶の中で見たことを、戻ってからも覚えている人は極まれです」
「そうなのね……」
残念そうに呟いた。
そして小さく頷いてから、「わかったわ」と顔を上げた。
カレンダーを見つめながら、小さな声で話し出した。
「私ね、自分では後悔なんていているつもりはなかったのよ。でもきっと心の奥底では毎日辛く、後悔ばかりしていたのかもしれないわ」
ぽつりぽつりと話しながら、フッと電話を見つめた。
すると、プルルルル――……と突然電話が鳴り響いた。
夏代は少し後ろに下がってそれを見守っている。
すると玄関が開き、人が入ってきた。
「あら、電話だわ」
慌てた様子で入ってリビングへやってきたのは10年前の夏代だった。
今よりも少し若く、髪も黒い。今よりも少しふっくらとしていただろうか。
夏代は買い物へ行っていたのだろう、足元にスーパーの袋を置いて受話器をとった。
「はい、もしもし?」
夏代は電話に出る。
しかしすぐに怪訝な表情になった。
「もしもし? どちらさまですか?」
何度かそう声をかけるが相手からの返答がないのだろうか。
不思議そうに一度受話器を見つめて首を傾げた。
「もう切りますよ」
そう告げたときだった。
『お母さん……?』
聞き取れるか否かくらいの小さな声が聞こえた。
夏代はハッとした顔をしてから、慌てて縋りつくように受話器を耳に押し当てた。
「花江? 花江なの!?」
『お母さん……』
小さくて今にも消えてしまいそうな声だが、それは紛れもなく花江の声だった。
夏代は驚きと嬉しさと、様々な感情が押し寄せて言葉に詰まる。しかしそれも一瞬で、すぐに娘に問いかけた。
「あぁ、花江なのね……。あなた今どこいるの? 元気にしているの? ご飯は食べられているの?」
聞きたいことは山ほどあった。しかし出てくるのは娘の安否を気遣う言葉しか出てこない。
『心配かけてごめんなさい……。居場所は言えないけれど、無事に生活しています』
「本当に? 一度くらい帰ってこれないの?」
『帰ることは出来ないけど……。お父さんもお母さんも元気?』
そう聞かれて、夏代は涙を堪えながら頷くがすぐに声に出して「元気よ」と答えた。
「修也ももう7歳になって小学生なの。元気に過ごしているわ」
そう伝えると、電話越しでもわかるくらい花江がホッとしているのがわかる。
『そうね、もうそんなになるのね。私が出て、六年だものね。もう小学生か……。やんちゃな男の子になっているのかな』
修也の姿を思い浮かべているのだろうか、どこか嬉しそうにしている。
「元気な男の子よ。運動が好きで、勉強はまぁまぁかしら。友達もたくさん出来て、よく遊んでいるわ」
『良かった……』
「でも、彼は助からなかったの……」
夏代が言う彼が誰なのかわかったのだろう。花江は息を飲んで言葉を詰まらせた。
『そう……。私と別れた時にはもうほとんど手遅れだったから、そうかなとは思っていたの』
そう言いながらも電話越しの声は微かに震えていた。
そして、深呼吸する音が聞こえる。
『あのね、お母さん。修也のこと宜しくお願いします』
「花江……。もう戻ってこないつもりなの?」
『たぶん、もう二度と……』
そこまで言って言葉を詰まらせた。
空気が震えている。きっと泣いているのだろう。
夏代も涙を流して口元を抑えた。
「何か力になれることはないの?」
『ごめんなさい。お母さん達を巻き込むわけにはいかないから』
「巻き込むって何を?」
そう聞くが花江はもちろん答えない。
『今までありがとう。お母さんとお父さんの子供に生まれて幸せだった。彼と結婚して修也を生んで幸せだった』
花江は嗚咽をしながら何度も「ありがとう」と話し、電話を切った。
「花江!? 花江!」
夏代は何度も問いかけるが、もう電話は切れており返答はない。
力が抜けたように、その場に座り込む。
すると玄関が開いて「ただいまー」と幼い声がした。
リビングに現れたのはランドセルを背負った修也だった。
「おばあちゃん? どうしたの、大丈夫?」
しゃがみ込んでいる夏代に駆け寄る。その手にはしおりのようなものが握られていた。
「どうしたの、それ……」
修也の手の中の物を指差すと、見せてくれた。
カーネーションがドライフラワーとなってしおりに貼りつけてある。
「これ? 帰り道に女の人にもらったんだ」
「女の人……?」
夏代はハッとした。
もしかしてこれは花江が渡したのではないかと。
「いらないって言ったんだけど、無理やり渡してきたから」
と幼い修也は困惑気味だった。
「どこでもらったの?」
「え、そこの道を曲がったタバコ屋さんの側」
と言い切る前に夏代は玄関まで飛び出していった。
しかし……。
「おばあちゃん?」
修也の声でハッと我に返る。
頭の中ではきっと修也にしおりを渡したのは花江だろうと確信している。きっとタバコ屋の横の公衆電話から連絡してきたのかもしれなかった。
今から行けば間に合うかもしれない。
それなのに。
足が動かなかった。
頭のどこかで、行ってはいけないと言っていた。
花江は相当な覚悟と思いで電話してきたのだろう。そこでもし夏代が行ったことで、花江が不利な立場になったら?
今はまだ花江の居場所は興信所が探しているが、先日の報告ではあまり調査が進んでいないという風なことを夫から聞いた。
もしかしたら暴力団が関わっていて、圧力がかかっている可能性が高いとも……。
あまり深く探ったりして、花江に何かあったらどうしようと話していたところだった。
もしその報告が本当だったなら?
今、夏代と花江が接触をしたことを相手に知られたことで、花江や修也にまで危険がせまったら?
夏代の脳裏には様々な最悪の可能性が過った。
それでも、それでも。
もう一度だけでも、一目だけでも娘に会いたい。
「おばあちゃん?」
そう言ってスカートの裾を摘まんで見上げてくる修也と目が合った。
花江はハッとする。
あぁ、まずはこの子を守らなくては。
この子だけでも安全に、大切に育てなければ。
花江のためにも……。
夏代は膝をついてしゃがみ、修也を強く抱きしめた。
「痛いよ、おばあちゃん」
「修ちゃん、そのしおりは大切にしようね」
「おばあちゃん? 泣いているの?」
修也は不安げに祖母の背中を慰めるように何度も撫でた。
そして、そこで記憶の世界がストップする。
記憶の世界へやってきた、現在の夏代はリビングに突っ立ったままだった。
静かに俯いている。
「大丈夫ですか?」
龍臣はそっと声をかけた。
それに夏代は黙って頷く。
龍臣からは背中しか見えないが、俯いたまま涙を拭っているように見えた。
「私はこの時、娘に会いに行くことを止めたの。興信所の中間報告が本当だったなら、娘のため修也のために会ってはいけないと思った。でもね、龍臣君。本当にそれで良かったのかしら? 私がしたことは正しかったのかしら?」
「それは僕にもわかりません。ただ、夏代さんがそう思っていなかったから、こうして後悔していたから記憶の本は現れたのではないでしょうか?」
「そうよね。きっとそうなのよね……」
夏代はため息をついて、畳張りの床に座った。
「電話を受けてから半年後、興信所から花江の最終報告を聞いたの。花江を後妻にしたという暴力団の屋敷近くまで車で行ったわ。でもその屋敷は更地になっていた……」
「え?」
「どうやら他の暴力団に潰されたらしいの。それから花江の行方はわかっていない。だからね、もしかしたらあの時、花江は最後の別れを告げに来たのかしらって……。そう思ったらどうして一目でも会いに行かなかったのだろうって……」
夏代は顔を覆って泣き出した。
龍臣は何も言えず、ただ見守るしかできない。
当たり前だが、みな「あの時こうしていれば」という思いで記憶の世界へやってくる。
ただの案内人の龍臣には毎回かける言葉もない。
時々、相手の辛い思いに引きずられそうになってしまう。まして、これは修也の問題でもある。
龍臣は何もできない自分の唇を噛むしかできなかった。
「どうしてこんなことになったのかしらね……」
夏代は自虐的な笑みを浮かべる。
何度も自問自答してきたのだろう。どこか諦めの表情にも見える。
「どうしますか? もう一つの選択肢を見ないという手もあります」
「もう一つの選択肢? それは私が追いかけて行った選択肢かしら?」
「はい。もし見るのが辛いようなら、ここで引き返すことも可能です」
「見るわ」
夏代は即答した。
「記憶の世界でも何でもいい! あの子に、娘に会わせて!」
夏代は龍臣の腕を掴んで縋りつくようにそう言った。
「わかりました」
龍臣は深く頷いた。
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