第13話 源助 後編

そう呟いて、軽く手を振ると視界が大きく揺らいだ。

目を閉じた鏑木が次に目を開けると、先ほどと同じ場所に立っていた。

数分前のことだから当たり前だが、風景も景色も何も変わらない。一瞬、本当に視られるのか疑問が湧いたが、道の向こうから歩いてくる青年を見て疑問は消えた。

先ほどと同じように、若いころの自分、鏑木青年が本を片手に道の向こうから歩いてくる。

そして、目の前を通りすぎ、ある桜の木の下で足を止めた。

そこには蹲る女性が一人。

そこまではさっきと同じ光景が繰り広げられていた。

鏑木青年はその女性に慌てて声をかける。


「どうしました。大丈夫ですか?」

「大丈夫です」


先ほどと同じ会話。


「体調が悪そうだ。今医者を呼んでくるから」


そう告げ立ち上がると、女性はグイッと服を引っ張りそれを止める。


「大丈夫ですから。少し眩暈を起こしただけ。休めばよくなります」


そう、告げた。

正直、あの時もそう言われ、躊躇した。

大丈夫と言うなら平気なのかもしれないと。

しかし、純粋に心配になり、元の世界では自分はここで強引に家へ連れ帰って休ませた。

実際、医師に診てもらうと女性は風邪をこじらせており、熱があるとのことだった。彼女の家の人に知らせようと思い、身元を聞くが、何一つ決して話そうとしない。

ただ、すぐに出ていきますからと話すだけだ。

しかし、こんな状態で外に出すわけにはいかない、身元が話せないのならせめて熱が下がるまでは鏑木家で療養するよう強く勧めた。

女性も動きたいのはやまやまだが身体を動かせないようで、仕方なく頷く。

彼女は母やばあやが看病し、体調が戻るまで家で休養させた。

すっかり体調が戻ったころには、すでに一週間が経過していた。女性は一度家を出るが、数時間後には再び戻って来て、行くところがないからここで働かせてほしいと懇願してきたのだ。

初めは断った。看病したのは善意であるが、正直身元の分からない女性を働かせ、のちに面倒なことになったら大変だと思った。

しかし、女性はもともと身寄りがなくある人の元で働いていたが辞めてしまい、行くところがない。

だからここで働かせてほしいと頭を下げたのだ。

鏑木家はそれなりに地元では資産家で、父母ばあやの他に一人お手伝いをしていた女性がいたが、結婚のため辞めたばかりだった。

そのため、迷いはあったが女性をお手伝いに迎え働かせたのだ。

そして、いつしか鏑木は女性に恋愛感情を持ち、のちに求婚した。

女性も、頬を染め、笑顔で求婚を受けてくれた。

そう、思っていた。ずっと――――

鏑木は切なげな表情で、桜の木のしたで蹲る女性を見つめる。

あの時、この時。

自分が無理に家へ連れて帰らなければ、彼女は本当の幸せを掴んでいたはずだったのにと、後悔していたのだ。

彼女には大切な人生があった。それを壊したのは、鏑木の善意だったのだ。


「大丈夫ですから。少し眩暈がしただけ。休めばよくなります」


そう告げた女性に、困った表情の鏑木青年は少し立ち尽くして考え込んだ後、再度隣に腰を下ろした。


「そうですか……? まぁそこまで言うなら……。何かあったら近くの家の人に声をかけてくださいね」

「ご親切にありがとうございます」


弱々しく微笑む女性に一礼し、鏑木青年は立ち上がった。

そして、一度迷うように振り返った後、先ほどと同じように再び本を読みながら歩き出し家路へと向かっていったのだった。


「これがもう一つの人生です」


鏑木の隣から龍臣はソッと声をかける。


「ええ。もう少し、見ていてもいいですか?」


鏑木は予想通りであるかのように頷き、女性から目を離さぬまま聞いた。


「もちろん。一番“そこ”が見たかったのでしょう?」


「えぇ」と頷く鏑木の横顔はどこか嬉しそうだった。

数分後、木の下に蹲る女性の元へ誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。


「遅くなってすまない!」

「ああ、坊ちゃま」


女性は蹲っていた体を起こし、走り寄ってきた男性に手を伸ばして縋りつくように抱き付いた。

青年――見たところ20代後半――は女性をしっかりと抱きとめると驚いた表情をする。


「お前、熱があるのか!?」

「たいしたことはありません。大丈夫ですから」

「しかし……」

「坊ちゃま。構いません」


そうしがみついて話すと、坊ちゃまと呼ばれた青年は力強く頷いた。


「わかった。行こう。新しい場所で医者に連れて行ってやるからな」

「はい」


そう言うと女性は幸せそうな笑顔で微笑む。青年は女性を抱きかかえ、足早にその場を去っていった。

その後姿を鏑木は静かに見守っている。

ふたりが道の先から消えると、ホッと息を吐いた。

安堵のため息だろう。

そんな鏑木に龍臣は声をかけた。


「よろしかったのですか?」

「ええ。本来ならあれが正しい姿なのです。あれで良かったはずなんです。それなのにそれを、私が壊してしまった」


そう切なげに顔をゆがめる。自分のしたことを後悔しているようだった。


「店主さん。私の懺悔を聞いてくださいますか」


鏑木は女性が蹲っていた桜の木の幹に腰かけた。龍臣が黙っていると了承ととらえたようで、ゆっくりと話し出した。


「元の世界で、妻は自分のことをあまり話したがりませんでした。聞かせてほしいと伝えると、言葉を選ぶように時々ポツリポツリと話してくれるだけで……。その話から、どうやら妻は15歳の時から、とあるどこか大きな屋敷で働いていたということを知りました。そして妻は理由があって屋敷を出たと言っていました……」


鏑木はため息をついた。顔を上げると、悲しそうに微笑む。


「私が全てを知ったのは、二年ほど前です。妻が病気になり、入院をしました。歳もあるのでしょうが、そのころから少し記憶が混乱するようになりましてね。私をある男性と間違えるようになったんです」

「それって……」


龍臣が呟くと鏑木は頷いた。

ある男性とは、先ほどの青年のことだろう。


「あの時、妻が雇い主の家の青年と恋仲になり、駆け落ちをしようとしていたことを知りました。病室で妻は私のことを……、面会に来たその青年だと思い込んだようでね。嬉しそうに呼びかけるんです。「坊ちゃま」と……。妻は具合が悪くなり、待ち合わせ場所であるあの桜の木の下に居られなかったことを謝罪していました」


鏑木はハァと深くため息をつく。


「妻は雇い主の息子を忘れることはなかったんですよ……。『ごめんなさい』『体調が戻ってから会いに行ったけれど、あなたは婚約者だった女性と結婚させられていた』と泣きながら話していました。だから妻には行くところがなかったのですね。屋敷を出た女中に戻る場所なんてあるはずもなかった」


だから女性は雇ってほしいと鏑木青年の元へ戻ってきたのだ。


「……私は情けないことに、この年になって初めて妻の全てを知りましたよ。それから、私は後悔ばかりしていました。あの時、私が妻を連れて行かなければ妻は心から愛する人と一緒になれたのにと。妻の本当の幸せを壊してしまったのは、私だった。親切でしたことは、妻にとっては余計なお世話だったんです。あの時、無理に連れて帰らなければ、こんな風に悲しい表情をさせることもなかったとずっと後悔していました」


そう話す鏑木の声は後悔がにじみ出ていかのように、苦しそうだ。

龍臣は唇を噛んだ。鏑木が悪いわけではないではないか。


「鏑木さんは、親切でしたことです」

「断っていた妻を強引に連れて行ったのは私だ。彼女の意思を無視したんですよ。親切心でも、あれは正しい選択ではなかった。結果、ずっと彼女を苦しめてしまった」

「奥さんを……、本当に愛していたんですね」


ここまで後悔するなど、今でも愛していないとできないのではないだろうか。

すると、鏑木は首を横に振った。


「ただの自己満足の愛です。妻は私を心の底からは愛していなかったのではないでしょうか。でも、だからこそ、ここに来て良かった。私はね、妻が本当に幸せな姿を見たかったんですよ」


鏑木は涙を浮かべて微笑んだ。

迎えに来た駆け落ち相手に会った時の嬉しそうな笑顔が、彼女の幸せを表すものだったのだ。


「失礼ですが、今奥さんは?」

「妻は入院中です。もって数日。人工呼吸器につながれ、もう声も出ません」


衝撃の事実に龍臣は言葉を失う。

だから、鏑木は強く想ったのか。もう声も出せず、目も開けられず、笑うことも起き上がることも出来ず、ただ死を待つしかない妻を見て、最期に妻の本当の幸せそうな笑顔が見たいと、そう思ったのではないだろうか。

それほどまでに、妻を心から愛していたのだろう。


「ありがとう、店主さん。もう満足しました」

「本当ですか? 本当にこれで良かったのですか?」

「ええ。妻の幸せそうな笑顔が見られて満足です」


鏑木は晴れ晴れとした表情で龍臣を振り返る。

曇りのない、いい笑顔だった。その顔が、鏑木の満足を表している。

鏑木にとって、この記憶は辛いことではないのだ。

妻の笑顔が鏑木の幸せなのだろう。

龍臣が苦しげな表情をすると「大丈夫」と笑って肩を叩いてくれた。


「あなたは優しいですね」


鏑木はそう言って苦笑した。

「さぁ!」と鏑木は促した。


「店主さん、帰りましょう。妻が待っているんですよ」

「はい、そうですね」


妻との残された時間は少ない。だからこそ、ここでぐずぐずしていられなかった。

龍臣が頷くと、鏑木は目の前が白くなり意識を飛ばした――――……


「大丈夫ですか」


龍臣に声をかけられ、鏑木はハッと目を覚ます。

周りを見渡すと、そこは先ほど来た記憶堂の店内だった。記憶の中に入る前に座ったソファーに変わらず座ったまま。

しかし。

鏑木は自分の両手を見つめる。

ひとつ違うことは、記憶の本が手元にないことだった。先ほどまで大切に持っていた記憶の本がなくなっている。

側にいる龍臣を振り返ると、申し訳なさそうに微笑んだ。


「本は戻ると消えてしまうのです」

「なるほど……。そうでしたか」


あんなに不思議なことが起こるのだから、そういうこともあるのだろう。

納得してソファーから立ち上がる。

時計を見ると、まだここへきて30分ほどしかたっていなかった。どうやら記憶の中に入ってもあまり時間は立たないようだ。

ソファーから立ち上がり、店の入口へと向かう。


「店主さん、お世話掛けました。ありがとう」

「いいえ。鏑木さん、あの……」


龍臣は店の入り口で、切なそうに鏑木を見つめる。気遣うような目線に、鏑木は思わず嬉しくなり微笑んだ。

こんな他人を気遣う店主は、これからもいろんな人の記憶を扱えるのだろうかと心配になりながら。そんな心優しい青年を励ますように腕を軽くたたく。


「そんな顔をしないでください。私はなにも後悔していません。むしろすっきりした気持ちで妻に会えそうです」

「それなら良いのですが」


龍臣が微笑むと、それに力強く頷き返す。

後悔はしていない。龍臣に言ったことは嘘ではなかったのだ。


「それでは店主さん。また」


そういって鏑木はちょこんと帽子を上げて挨拶し、帰って行った。

その後姿を見送り、姿が見えなくなったところで店の中へ入る。

ぴしゃっと扉を閉めると、一気にシンッと静まり返り寂しい気持ちが余計に煽られる。

あんな記憶を見せられると、やるせない気持ちでいっぱいになってしまうのだ。

ただ記憶の世界へ案内するだけしかできない自分はなんて無力なのだろうと感じる。

扉を閉めたまま俯いていると、ふんわりとした空気が近くに現れた。


「龍臣? 大丈夫?」


あずみが気遣うようにそっと声をかけてきた。

右腕に触れているのだろう。そこが温かくなる。

鏑木は後悔していないと話していたが、もしそれが自分だったら耐えられないだろうと思った。そこまで懐大きくいられない。

愛する人の心の底には他の人がいる。

それは無意識下にあるもので、きっと鏑木の妻はそれなりに鏑木を愛していたに違いない。ただ、心の奥深くにかつて愛した忘れられない人への思いが残っているだけなのだ。

しかし、それはなんて残酷なのだろう。

龍臣は鏑木の気持ちが良く分かっていた。

愛しても、振り向いてもらえないもどかしさ。だからこそ、見てみぬふりをしてきた。


「龍臣?」


あずみの心配する声に、気配の方へ手を伸ばす。

決して触れることはない、あずみの姿。声しか感じられない、その姿を求めるように手を広げると、胸元に温かいぬくもりが広がった。

背中にもかすかなぬくもりを感じ、あずみが抱き付いたとわかる。

そっと手を前で囲むようにし、そこにいるはずのあずみを抱きしめた。

龍臣がそんなことをするなんて初めてのことだ。


「どうしたの、龍臣?」


あずみの戸惑ったような、少し嬉しそうな声が耳元で聞こえた。

そこにあずみがいるのだと強く認識する。

そして、無性に悲しくなった。


「切ないもんだな」

「……」


低い声で呟くと、あずみが何度も背中をさすってくれる気配を感じた。





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