第12話 源助 前編

もう九月に入ったというのに、最近は昔に比べると夏の日差しが強くなったな、と龍臣は店先で水を撒きながら思った。

アスファルトに撒かれた水はあっという間に渇いてしまう。それでも、少しでも涼になればと汗を脱ぐって水を撒いていた。

昼は久しぶりに商店街にある中華屋でさっぱりと冷やし中華でも食べそうかな。

そう思っていると、穏やかな声が龍臣を呼び止めた。


「今日も暑いなぁ、龍臣くん」


低いしゃがれた声に振り替えると、にこやかに麦わら帽子を被ったポロシャツ姿のおじいさんがこちらに歩いてきた。

その顔を見て龍臣も自然と笑みが浮かぶ。


「源助さん」


源助さんは修也の祖父だ。

現在70歳。少し白髪が混じっているが、背筋も伸びており実年齢より若く見える。

龍臣の祖父の代から時々この記憶堂に足を運んでは雑談をして帰って行った。

そのうち、修也を抱っこして連れてくることが多くなった。ふたりがお茶を飲みながら話をしている間はよく龍臣が修也の面倒を見ていたのだ。

最近は修也のほうが記憶堂に入り浸るようになり、源助さんが来るのは久しぶりだった。


「どうだい、繁盛しているかい?」

「その言葉はこの店には無縁の言葉ですね」


そう笑いあいながら源助さんを「どうぞ」と涼しい店内へ案内する。

麦わら帽子をとって汗を拭う源助さんは、店の中を見回した。


「相変わらずだね、記憶堂は」


龍臣は冷蔵庫から奥のソファーに腰掛ける源助さんに冷たい麦茶を出す。


「それにしても珍しいですね。源助さんが来るなんて」


こうして店に訪れてくるのは一年ぶりくらいになるだろうか。


「最近は修也が常連だもんな。流石にちょっと遠慮はしていたよ」


麦茶をグビッと飲みながらそう話す。

なるほど、源助さんなりに気を遣っていたのか。

しかし、そうなると今日は何しに来たのだろうか。龍臣の疑問が顔に出ていたのだろう。源助さんは軽く咳払いをして、どこか言いにくそうに口を開いた。


「なぁ、龍臣くん。修也は最近どうだい?」


源助さんは少し口ごもりながらそう聞いてきた。

なるほど、ここに来たのは修也についてなにか聞きたいのだろう。龍臣になら何か話しているかもしれないと思って、ここに来たのだとわかった。


「どうって何がです?」


龍臣はあえてとぼけてみる。すると益々源助さんは困った表情をした。


「何がって、その……最近の様子というか……」

「そんなの源助さんの方が毎日一緒なんだからよく分かっているでしょう?」


苦笑しながらそう答えると源助さんはぐっと言葉に詰まって、気まずそうに頭をかいた。


「わからねぇから聞いてんだ。最近、修也は思春期ってやつなのか昔より可愛げがなくてな」

「思春期ねぇ……」


龍臣は腕組みをしながら最近の修也を思い浮かべる。確かに思春期を感じさせるところはあるが、龍臣に対してはあまり変わりはなかった。

一つだけ思い浮かぶとしたら。


「まだ進路についてもめているんですか?」

「もめてはいないけどね」


とっさに否定するが、龍臣がじっと見つめると源助さんはため息をついた。


「……あいつが大学に行きたくない理由はなんなんだ? 学力的には何とかなるだろう?」


やっぱり、と龍臣は思った。

進路について、源助さんは大学へ行かせたくて、修也はそれを迷っている、という状態がまだ続いていたのか。

源助さんはそれについて龍臣が何か知っているのではないかと思い、来たのだろう。

これには苦笑するしかない。

源助さんが期待するほど、龍臣が知っていることは何もないのだ。

それに、そこは家族でよく話し合いをしてもらわないと、と思うがそれもお互い気を遣って出来ていないのだろうと推測できる。


「理由は源助さんも感じているんじゃないですか?」

「……金の心配か?」

「まぁ、そればかりでもないようですけどね。修也自身がやりたいものが見つからなくて、進路に悩んでいるんですよ」


修也はやりたいことがないのに、大金を使わせてまで大学に行く意味があるのかと悩んでいた。


「やりたいものがなくても、今の時代、とりあえず大学に行ったりするものだろう。就職にも有利になるし、みんなそのために行くようなもんだ」


確かにそこは大きい。

なんだかんだ言って、学歴を問われることは少なくない。

将来の就職のためとりあえず大学へ行くという若者のほうが今は多いのではないだろうか。実際に進んだ学部と就職先が違うなんてこともよくあることだ。

だからこそ、源助さんのとりあえず大学へ行けという気持ちはわかるが、経済的に豊かではないとわかっているから尚更、修也は渋るのだろう。

修也は慎重で真面目な性格だ。

だからこそ、迷っているのだろう。

修也自身、大学へ行く意味や意義を持ちたいのだと思う。


「まだ二年生ですから、もう少し待ちませんか。きっと答えを見つけますよ」

「そうか……」


源助さんは少しシュンとしながら頷いた。

親がいないからといって不自由させたくない源助さんと、経済的に負担を掛けさせたくない修也。

お互いが思いやっているからこそ、すれ違うのだろう。

しかし、お互いが遠慮しあって本音を言えないのではどうしようもない。

源助さんは自分を納得させるように数回頷くと顔を上げた。


「ありがとう、龍臣くん。これからも修也をよろしく頼むよ」


源助さんがそう言って立ち上がろうとしたのを、龍臣は咄嗟に「待ってください」と声をかけた。


「あの、源助さんにお聞きしたいことがあって」

「なんだい?」


座りなおした源助さんは小首を傾げた。

一瞬、龍臣は言葉に詰まる。つい声をかけたは良いものの、なんと言って切り出そうか何も考えていなかった。

先日見た修也の母親の記憶についてどう話そうか、話しても良いものだろうかと迷う。

そもそも、龍臣がそのことを知っていること自体が不審だろう。

さてどうしたものかと迷う。


「どうした?」

「あ、いや……。その……」


源助さんは未だに修也の母親と連絡を取っていたりするのだろうか。父親はどうなったのだろう。

修也に言えないだけで、本当は何か知っているのではないだろうか。

疑問は多い。

しかし聞きたい気持ちと他人が口出すことではないという気持ちとで口ごもる。

すると、龍臣の様子を見て源助は苦笑した。


「龍臣くん。もしかして何かを見たのかい?」

「えっ……」


穏やかな、しかしどこか確信めいた口調でそう聞かれ、龍臣は戸惑った。

見たとはどういう意味なのだろう。

どういった意味合いで見たのかと聞いたのだろうか。

源助さんの見たというのは、修也の両親の過去のことなのだろうか。龍臣がそれを記憶の本で見て知ったと気が付いたのだろうか。

だとしたら、源助さんは記憶堂が持つ力のことを知っているのか?

記憶の本について祖父からでも話を聞いていたのだろうか。

龍臣は修也以外に記憶の本について話したことがない。

しかし、祖父と親交があった源助さんなら何か聞いていたのかもしれなかった。

けれどその確証もない。

龍臣は混乱した。記憶堂の力についてあまり人に言ってはいけないものだとわかっているからこそ、確信をついて切り出しにくかった。

ここは相手が言うのを待つしかないか。


「その……見た、とは?」


しかし、源助は微笑みながら軽く首を振る。


「……いや、何でもないよ。また話そう。君と話をするのは好きなんだ」

「ありがとうございます」


そんなことを言われるとは思わず、少し驚く。

龍臣の反応に源助はふっと笑うと店を出ていった。

その姿を見送りながら、やはり源助さんは記憶堂の力について知っているのかもしれないと思った。

そして、龍臣が修也についてなにか見たのだと思ったからああ言ったのではないだろうか。

しかし、確証がないのに龍臣から切り出しにくい。

そもそも、身内でもない龍臣が修也の問題について首を突っ込んだとして、源助が話してくれるとは限らないのだ。


「単に僕がモヤモヤするだけなのか……」


軽いため息とともに扉を閉める。

この前の加賀先生の記憶の世界で見聞きしたことは、忘れるべきなのだろうか。

そんなことを考えていると、店の扉がガラッと開いた。

お客さんだろうかと龍臣は「いらっしゃいませ」と声をかける。すると、そこには汗を拭う修也が立っていた。

新学期が始まったのだろう。久しぶりに制服姿だった。


「涼しー」


店の中でかけているクーラーの風に当たりながら、修也はペットボトルの飲み物を口にする。


「龍臣君、さっき祖父ちゃん来た?」


外ですれ違ったのだろうか、「あぁ、来たよ」と伝えると困ったような顔をした。


「何か言ってた?」


それを聞いて龍臣は呆れたようにため息をつく。


「同じようなことを聞いて来るなよ」

「え?」

「心配していたぞ。僕にお互いのことを聞こうとしないで、ちゃんと話し合えよ」


挟まれる方はいい迷惑だ。

二人がきちんと話し合えば済む話なのに、それが出来ないでいるからすれ違いが生じているのだ。


「そうは言ってもさ、なんかね」


修也はさっきまで源助が座っていた位置に座る。


「育ててくれて感謝しているからこそ、無理はさせたくないっていうかさ」


他人の家の経済状況について、龍臣は口出せる立場にいない。しかし、双方の気持ちはよくわかる。


「堂々巡りだな。さっきも源助さんに言ったが、お前はまだ二年生だ。詳しい進路何て来年でも十分だろう」

「そうなんだけど、周りが受験勉強やら進路について話すことが増えたからなんとなく気持ちが急ぐんだよね」


と、修也は困ったように笑った。

まぁ、もう二年生も後半に差し掛かるとさすがに進路の話は頻繁に出るし授業もその対策に向けて進むのだろう。


「祖父ちゃんや祖母ちゃんが悪いわけでもないんだけど、親がいたらもっと話しやすかったのかなとか思ったりしてさ」


珍しく修也から親というワードが出た。

龍臣はついまじまじと修也をしてしまう。


「え、なに?」

「……お前さ、両親についてなんて聞いているんだ?」


龍臣は言葉にやや慎重になりながらそう尋ねた。

龍臣と修也が、修也の両親について話すことはあまりない。

だからこそ、修也が両親についてどう思っているのか、どこまで知っているのかがわからなかったからさっきまで悩んでいたのだ。

修也は特に顔色や様子を変えることなく、「んーと」と思い出すように首をひねった。


「父親は産まれてすぐくらいに死んで、母親は行方不明ってことくらい」

「死んだ?」


それには龍臣も驚いた。ということは、父親はあの後すぐに亡くなったということなのだろう。


「それ以外は? 母親が今どうしているかとか、連絡はないのかとか」

「何も。もしかしたら祖父ちゃんの所に連絡はあったのかもしれないけど、俺は何も聞いていないよ」


あっさりとした口調で話す修也に龍臣の方が狼狽えた。


「お前、知りたいとか会いたいとか思ったりしないわけ?」


一度くらいはあるだろう。そうでなければ、母親と友人だった加賀先生の所へ行って話をしたりなんてしないはずだ。


「まぁ、昔は思っていたけど。だから加賀先生にも母親について話を聞いたりしたけどさ、聞けば聞くほど遠いというか」

「遠い?」

「なんか身近に感じられないっていうか。話を聞いても、その人が自分の母親っていう感覚がないんだよね」


修也は赤ん坊の時に預けられたせいか、母親の記憶はない。

だから尚更、母親について想像できないのかもしれなかった。


「なるほどな……」

「でも、どうして預けられたかとか、失踪した理由は何かとかは一度は聞いてみたい気がするけど……、よくわかんないや」

「……そうか」


会いたいとかそう言うのではなく、どうしてかという理由を知りたいというのが一番だろう。

修也は見た目以上に、実は両親について考えているのではないだろうか。


「そんなに悩むなら、話したらどうなのよ」


唐突にそう声がして、龍臣はハッと振り返る。


「あずみさん」


修也も驚いているようだ。目線の先は二階へ続く階段付近を見ており、古い階段がぎしぎしと音を立てている。

どうやらあずみが起きて降りてきているようだった。


「あずみさん、もう起きたの?」


修也は外を見てから目を丸くして尋ねる。確かにまだ夕方ではない。

龍臣はまただ、と思った。

最近、こうして昼間に起きてくることが増えている。

どうしてなのだろう。

幽霊が夜ばかり現れるものとは限らないが、そればかりではなく、どうも近ごろのあずみはどこか様子がおかしい。

修也はあずみを昼間に見るのが珍しいのかぽかんとしている。

そして、説明を求めるかのように龍臣をチラッとみた。しかし、龍臣にもその理由はわからず、首を軽くひねるだけ。

あずみという幽霊の生活リズムが変わっただけなのか、他に理由があるのかすらもわからない。

しかし、あずみはそんな二人の様子などお構いなしに呆れたような怒ったような声を出す。


「龍臣もうじうじ悩んでいないで修ちゃんに話しちゃえばいいのよ」

「あずみ」


話を聞いていたのだろう。

龍臣は軽く制するが、あずみは聞こうとしない。


「修ちゃんの母親について知っているのはあの先生だけじゃぁないのよ」


突然の話に修也が戸惑っている。


「え、どういうこと?」

「ねぇ? 龍臣」


あずみはそう言って龍臣に話を振った。


「龍臣君、どういうこと?」


不思議そうに首を傾げる修也は、説明してと言うように龍臣をじっと見つめてくる。

あんな話の振り方なんて、明らかに龍臣が何か知っていますとでも言うようなものだ。

龍臣は思わず額を抑えてしまう。

こんなタイミングで言うつもりはなかった。

龍臣が知った修也の母親の話は気軽に出来るものではない。一度、源助さんに話してからでも良いのかとも考えていたのだ。


「龍臣君、何か知っているの?」


修也は不安げにこちらを見てくる。

龍臣は心の中であずみに余計なことを、と恨めしく思いながら修也が座るソファーの前に座った。


「……ある人の記憶の本にお前の母親が出て来たんだ」

「え……」


修也は驚いたように目を丸くした。


「お前の母親は、事情があってお前を祖父母に預けたそうだ。その事情って言うのは僕もわからない」

「事情……。まぁ、そうだろうね」


どこか自虐的に笑う。

事情がなければ子供を置いていくようなことは普通はしない。修也なりに何か理由があったのだろうと考えていたのだろう。


「でもお前のことは大切に思っていたぞ」


龍臣は修也の様子を見ながら簡潔に話した。

見たままを細かく話そうかとも思ったが、修也がどこまで受け止められるか図れなかったからだ。

しかもきっと龍臣より修也の祖父母の方が詳しく母親の様子や状況を知っているはずだ。その祖父母が話していないというならば、龍臣があれこれと出しゃばっていいことではないような気がした。


「龍臣君は誰の記憶の本で見たの?」

「それは言えない」


加賀先生の記憶の本を開いたとき、修也はいなかった。

だとしたらいくら修也とはいえ、案内人として客のプライバシーを配慮しなければならない。


「ふぅん。まぁ、予測はつくけどね」


修也は両手を頭の後ろで組んで、天井を見あげた。


「大切にねぇ……。本当に大切なら、普通は手放さないもんだけどな。やっぱり親の考えていたことがさっぱりわからないや」

「見たこと全てを細かく話した方がいいか?」


どこか呆れたように鼻で笑う修也にそう聞くが、やや食い気味に「今はいい」と断られてしまった。


「龍臣君、話そうか迷っていたんでしょ。ごめんね、俺なんかで困らせて」

「そんなことは別に大丈夫だ」


高校生に気遣われ、龍臣はバツが悪そうに顔をしかめる。

しかし、修也はどこかイライラとしているように見えた。やはり両親の話は、良いものも悪いものも修也にとっては複雑であまり気分のいいものではないのだろう。

しかし、少なからず知りたいという気持ちは残っている。

龍臣は修也の立場ではないし、両親に愛情を持って育てられたので修也の気持ちはわからない。

だからこそ、安易に口出しは出来ないと思っている。

修也を傷つけることだけはしたくなかった。


「とりあえず今日は帰るよ」


修也はそう言って「またね」と店を出て行った。去っていく背中がどこか哀愁が漂っているように見えるのは気のせいなのだろうか。

余計なことを言ってしまったなと後悔する。

その姿を見送ってから深くため息をついた。

そして店に入ると、「あずみ」とあずみの名前を静かに呼んだ。


「なぁに?」

「余計なことを言うな」


龍臣が珍しく厳しい口調であずみにそう言った。


「どうして? 龍臣が悩むくらいなら話せばいいことでしょう? 修ちゃんだって知る権利はあるわ」

「知る権利はあっても、修也がそれを望まなければそれは余計なことだ」

「知りたいって言っていたじゃない」

「知りたいけど知りたくない、複雑な気持ちなんだよ。そこは外野が慎重に気持ちを察して伝えなきゃならない」


そう言うとあずみは不満そうに鼻を鳴らした。


「私は修ちゃんの気持ちじゃなくて、龍臣の気持ちが優先よ」

「優先しなくていいから。空気や相手の気持ちを察してくれ。幽霊だってそれくらいは出来るだろう、人間だったんだから」


龍臣にしては珍しくはっきりとあずみに物を言うと、あずみが怒った雰囲気を感じた。


「そうよ! 幽霊よ! 死んだ人間は黙っていろってことね!?」

「そう言う意味じゃない」


すると近くにあった本が浮いて、龍臣に向かって飛んできた。

一瞬、あずみが投げつけて来たのかと思ったが高い位置の本や遠くの本棚の本も龍臣に向かって飛んできており、ポルターガイストのような現象をあずみが引き起こしているのだとわかった。


「痛い、やめろ! あずみ」


龍臣は本を避けながらあずみにそう怒鳴った。しかし本は強い風と共に龍臣に飛んでくる。


「痛いってば、やめろ。おい、あずみ!」


何度かそう叫ぶが、怒っているあずみに龍臣の声が届いていないようだった。

こんなあずみは初めてだ。

龍臣は腕で顔と頭を守りながら前を見ると、一瞬だけ二メートル先くらいに袴姿の女性が薄らと見えた。

それにハッとする。

赤い袴に長い黒髪を後ろで束ねている。色白で小顔の綺麗な顔立ちをしており、しかしその顔は怒りでゆがんでいた。

龍臣が初めて肉眼で見たあずみの姿だった。


「あずみ……」


龍臣が驚いていると、急に風も本もピタッと止んだ。

それと同時に龍臣に見えていたあずみの姿が見えなくなる。


「あ……、私……、今何を……」


あずみの唖然とした戸惑いの声だけが聞こえた。

姿は見えない。でもまだそこにはいる。

いつものように龍臣にはあずみの姿が見えなくなっただけだった。


「私……、今のって……」


どうやら正気に戻ったようだ。

怒りで自分が何をしたのか、わからなくなっているのだろう。


「あの、ごめんなさい……龍臣……、私……」


今にも泣きそうな震える声で謝ってくる。


「ごめんなさい!」


そう言うと階段を上がっていく音が聞こえて、あずみの気配が消えた。


「あずみ!」


龍臣の声かけ虚しく、一気に静寂になる。

ひとり残された龍臣はそっと呼吸を整えた。

何だったんだ、今のは。

あずみがあんなことをしたのは初めてのことだ。

あずみ自信、自分が何をしたのかわかっていないのだろう。

あれが、幽霊の力なのだろうか。

初めて見せつけられたその力に龍臣は恐怖を感じた。

心を落ち着かせるように深いため息をついて、周囲を見渡す。床は本が散らばっていた。

中には貴重な本や高価な本もあり、龍臣はそれらを丁寧に拾い上げ傷や損傷がないか確認する。

幸いにも本は無事だった。


「……どうしたっていうんだ」


自分が傷つけてしまったとは思っている。

しかしあそこまで激昂するあずみは今までになかった。

あずみにあんな力があるなんて……。

何かがおかしい。

あずみは今までとどこか違っている。

それは最近のあずみの様子と関係があるのだろうか。


「あずみ……」


龍臣は気配が消えた2階を見上げる。

初めて見たあずみは、怒りに顔が歪んではいたが美しかった。

実際に自分の目で見るとまた印象が違うものだな。

龍臣は俯きながら呟いた。


「全く……。顔を見たら忘れられなくなってしまうだろう」


声や存在以外に、顔を見てしまったら龍臣はあずみという幽霊を形ある者としてより強く認識するようになる。

幽霊とわかっていても、そこにあずみという女性が存在しているのだと感じるようになるからだ。

それは龍臣にとって、あまり歓迎出来ることではなかった。

龍臣はこれ以上、あずみという幽霊を、存在を認めたくはなかった。

あずみからの好意を感じれば感じるほど、それは意識的に思ってきたことだ。

だからこそ、ある程度の一定の距離を保ってきたつもりだった。


「それなのに……」


あずみは幽霊だ。

それは変えられない事実。

そして、あずみにとっても、龍臣にとっても残酷な事実であることには変わりないのだ。

龍臣が必死に守ってきたこの距離感は永遠に保たなければならないと思っていた。


「だからこそ顔なんて見たくなかったのに」


龍臣は悔しげに唇を噛んだ。





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